逞しく生き切る~いのち~

先日、ある植物が虫から葉を食べられないようにするためにその虫が食べたがらない成分を体から出して撃退するという記事を読みました。これは植物を観察し育てたことがある人は分かると思うのですが植物は健康で免疫力が強いと虫がなかなか寄ってきません。しかしそれが弱ってくるとたくさんの虫たちが集まってきます。

例えば、冬に強い野菜が間違って夏にまで残っているとそこには大量の虫たちが集まって食べています。また時にはある虫だけが大量発生してしまい、大部分の葉を食べられてしまい弱るものもあります。他にも、地力が弱り日照りが弱れば体が弱まりますから病気になったり簡単に風で倒れてしまったりするものです。

健康であるというのは、自分の免疫機能を発揮させているということでもあります。

その免疫は「逞しさ」に象徴されるように思います。

この逞しいというのは生命力のことですが、その生命力が真っ直ぐに元気であるということです。

「逞」という漢字を調べてみると、之繞(しんにょう)と、まっすぐ差し出すという意味の「呈」とで、突き進んでいく姿を為しています。またよく使われるときは、身体が逞しいことよりもその意志の強さや活力があり頼もしいというときに用いられるように思います。

つまりはこの逞しさというのは、健康で元気が善いということになります。そして自然界における健康で元気というのは「挫けない」ということです。困難や障害に遭遇してもそれを乗り越える信(芯)の強さ、それをはねのけていくぞとい意志(心)の強さがあるということです。

もともと甘やかされるとなぜ弱るのかといえば、これらの逞しさが減退していくからのように思います。強く逞しく生きていくとき、人間は生命力が溢れていきます。困難で大変なことがあってもそれを強い意志で乗り越えようとするとき、元気は漲りそして根性が出てくるのです。

身近な植物を観察していても、身近な虫や魚たちを観察していても自然界の厳しい環境の中であらゆる事件に挫けずに立ち上がり真っ直ぐに生き切っていこうとしています。ちょっとしたことがあってもそれを成長の糧にして学びを深めて生命の道を正直に歩んでいきます。

そう考えてみれば「いのち」というのは、挫けずに諦めず挑戦するときに活性化し、逃げたり避けたり諦めたり投げ出したりするときに停滞衰退化するように思います。

どんなことがあってもそれを丸ごと善いことにしようという強い意志が生命力を高め自他を活き活きと逞しくしていくのでしょう。自分自身があらゆる困難と立ち向かって乗り越えていくことが子孫を繁栄させていくことにもつながるのです。

自分が負けず嫌いなのも元気な証拠であり、自分が諦めがわるいのも生命力が漲るからなのでしょう。

「日々に逞しく生きているか」、その自問自答が自然界で生き残るためには何よりも大切なことです。あの身近な生きものたちを見習い、天に対して正直に素直にいのちを生き切っていきたいと思います。