生き方を換える

人はそれぞれに生き方といった自分の習慣を持っています。今までどんな生き方をしてきたかがその人の生き様ですが、その生き様が働き方や生活の仕方、思考、行動のあらゆるものを決めているとも言えます。

自分がどのように行動するか、いわばそれは日々の行動パターンや思考パターンなどが習慣になりそれが生き方になっているということです。その習慣が身に付いてしまうと、自分の習慣に従って人生もつくられていくものです。

人生には、前進か後退しかなく中間はないという言葉があります。地球が廻るように日々は循環していますから止まれば下がり、歩めば進むだけですから確かにじっとしていることは後退になります。自分の生き方も同じで、そのままにしていたらそのうち時代に合わなくなったり周りの環境に順応しなくなっていくものです。

また場合によってはいつも悪循環になる人と、好循環になる人がいますがこれも生き方の癖、習慣が決めているとも言えます。例えば、何でも先延ばしにしたり、言い訳をしたり、迷ってばかりいたり、周りの目を気にしたり、比較や正解探し、自分の都合ばかりを優先したり我儘だったりする生き方は悪循環になることが多く、そのことから不自然なことの揺り戻しで苦労することがあります。そういう自分の悪循環の流れを断ち切るには、今までの習慣、生活習慣を変えていくしかありません。自分の生活習慣が変われば意識が変わり、意識が変われば人生が変わっていくからです。

基本的生活習慣を変えるというのは、今まで早起きできない人が早起きして朝練をしたり、遅刻ばかりする人が時間を厳守できるようにしたり、食べ過ぎを腹八分目で止めるようにしたりと、ちょっとした変化ですがこの生活習慣が変わることでその人の人生の癖もまた変化し生き方が変わっていきます。

生き方が変われば自ずから働き方も変わりますし、逆に働き方から変えていくことで生き方を変えることができるものです。それを分けて考えて、生き方はそのままでも仕事だけはなんとかやり過ごそうと思ってもその人の習慣が変わっているわけではありませんからその癖によってまた仕事にも影響が出てしまうものです。

人生は生き方と働き方の両輪をどう実践によって一致させていくか、それは人生そのものを本来の目指す理想や本来の目的といっ初心に近づけるために必要なことです。理想や初心がないのなら、習慣を変えてまで自分を変えようとはしなくてもいいのですが、今までの生き方がその理想や初心に反する習慣を身に着けてしまっているのならばそれを新たな習慣で上書きしていくしかありません。

習慣は第二の天性とも言いますが、習慣が変わらないのに自分の生き方や働き方、考え方や行動の仕方が変わっていくことはありません。習慣を変えるというのは、自分の生き方を見つめる一つのバロメーターです。習慣を変えることを恐れる人は、今までの生き方を変えることを恐れる人です。

変わろうと決めることがあったなら、それを実践に換えて粛々と習慣になるまで継続したものだけが新しい人生を手に入れるのかもしれません。習慣と向き合うには、自分のパターンを分析しそのパターンを見つめそのパターンを変えてみると今までとは異なった感覚に出会います。その異なった感覚を持ち続けてそれが普通になるまで遣りきることができればその人は変わります。違和感があるうちは、まだ受け容れていない証拠ですから当たり前になるまで実践できるかどうかが生き方を変えるキーポイントなのでしょう。

周りが合わせてくれないと嘆く前に、自分が実践により生き方を変えたどうかを見つめることが自分を変えて世界を変えていく方法なのかもしれません。子ども達のためにも、悪循環を改善し好循環になるような新たな実践と習慣に取り組んでいきたいと思います。

実践の本質~生き方と働き方の一致~

一般的に生き方と働き方というものを一致していくということは難しいことです。人は生き方と働き方を分けては、同じように様々なものを分けてしまいます。それは比較の概念と同じです。自分はそこまではできないと先に諦めてしまって、何もしなくなると生き方と働き方はさらに分かれてしまうものです。

そうなると自分の都合のよい方しかやらないというように「選ぶ」方を選択してしまいます。本来、自分の与えられている今に全身全霊を懸けて一筋に歩んでいけば天命に従い自ずから活路が見出していけるのでしょうが選んでいる時点で今を受け止められず未来や過去にばかりに執着し中途半端になってしまうことが多いのです。

だからこそ生き方と働き方を一致させる「実践」が必要なのですが、分かれてしまっている人は実践の意味もすぐにわかった気になるため実践もやろうとはしなくなります。実践した気になるということがもっとも恐ろしいことであり、実践して分かるものを実践しなくても分かった気になるというのは真理から遠ざかるもっとも大きな分岐点かもしれません。

森信三先生はこのように言います。

「人間は他との比較をやめてひたすら自己の職務に専念すれば、おのずからそこに一小天地が開けてくるものです。」

「自己に与えられた条件をギリギリまで生かすことが人生の生き方の最大最深の秘訣である。」

「自分の当然なすべき仕事であるならば、それに向かって全力を傾け切るということはある意味では価値のある仕事以上に意義がある。」

私の思う「来たものを選ばない」というのは、生き方と働き方を分けないという意味です。選ぶというのは、今与えられている順縁を愉しめず、天命に従わないという自己中心的な価値観で自他を分けてしまう生き方だからです。

そしてそうならないために「実践」はあります。すぐにわかれてしまうからこそ、実践によって分かれないようにするのです。「真理は現実の真っただ中にあり」という言葉通り、現場実践を遣り続けることで真理は存在できた状態になっているということです。

しかし実際は実践を怠ることで、真理が分かれてしまい自分の価値観の世界の中にどっぷりとつかってしまうと初心や本質に戻ることはなかなかできなくなります。そうならないために徹底した実践が必要になります。

「例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたらもうだめなんだ。」

「できないというのは本当にする気がないからです。」

「人間は徹底しなければ駄目です。もし徹底することができなければ、普通の人間です。」

実践する覚悟があってはじめて人は自分自身になり、自分らしくいられるように思います。自分らしいということは、実践を徹底して続けている自分がいるということです。実践しないということは、初心を忘れた状態でただ生きながらえているに等しいと思います。

最後に、森信三先生の自銘の句で終わります。

「学者にあらず 宗教者にあらず
はたまた 教育者にもあらず
ただ宿縁に導かれて
国民教育者の友として
この世の「生」を終えむ  信三 」

不尽と名を改め、徹底した生き方を貫いた人の背中に如何に「実践」を遣り続け徹底することが大切であるのかを教えられます。本来の教えとは、対面で理解するのではなく同じ方向を観ているその背中から学ぶものです。いつまでもやらない人は対面から抜け出さず、同じ方向を向くこともありません。実践を常に優先し、まず自分自身のことをしっかりと立てて周りを立てられるよう精進していきたいと思います。

 

政治の本質

南米のウルグアイに非常に立派な大統領がいます。この方は地位に見合わずとても慎まやかな暮らしを送っていることから「世界一貧しい大統領」として評されています。その生活は大統領公邸には住まず、首都モンテビデオ郊外の質素な農場に妻と住み、菊を栽培して暮らしています。その給与の90%も社会福祉基金の寄付にまわし、個人資産は友人からもらった約18万円ほどの車のみです。

この方の生き方にはとても共感することがあり、本来の環境問題とは政治問題であるという本質を見抜き自分たちの生き方や暮らし方、生活スタイルを変えようとしないのに環境問題に向き合えるはずがないと言い切っています。

有名なスピーチに、リオ会議での講演があります。実際はウルグアイのような小国の代表のスピーチということで後回しにされ、それに耳を傾ける人はほとんどいなかったそうですがこの時の様子を動画みてみると、如何に人類の問題に対して本質的に提起しているかが分かります。少し長文になりますが、そのまま紹介します。

「会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください、もしドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

呼吸をするための酸素がいったいどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの資源や原材料がこの地球にあるのでしょうか?それは果たして可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子ども、資本主義の子どもたち、即ち今の私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を産み出し、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで資源と原材料を貪り探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションを果たしてコントロールしていますか?或はグローバリゼーションが私たちの方をコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論は果たしてできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸福になるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものはこの世には存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために自ら人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターになっている世界では私たちは消費をひたすら早く、そして多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、本来は10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にしているのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「本当の貧乏な人とは少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と。

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの暮らし方や生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。そうなってしまうのはなぜか?それはバイク、車、などのリボ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働きローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます、『これが人類の運命なのか?』と。

私の言っていることはとてもシンプルなものですよ。発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。」

ムヒカ大統領は世界一貧しいと呼ばれていますが、実際は貧しいの定義が異なります。それは本当に「貧しい人」は、いつまでも贅沢な暮らしを維持するためだけに、働いている人のことですといいます。本人は、家族や友人、そして人生の仕合せといった豊かさに包まれて幸福を味わっているように生きています。人類の未来を思う時、環境問題を考えるとき、資源を貪り続けてあくなき欲望を満たし続ける現在の姿に最後には資源が尽きて奪い合いがはじまることの欲望の悍ましさを感じます。持続可能とは経済のことではなく、大義のことでありそれは人間の道、つまり生き方のことなのでしょう。

最後に、ムヒカ大統領は政治家の立場からこう言います。

「お金があまりに好きな人たちには、政治の世界から出て行ってもらう必要があるのです。彼らは政治の世界では危険です。お金が大好きな人は、ビジネスや商売のために身を捧げ、富を増やそうとするものです。しかし政治とは、すべての人の幸福を求める闘いなのです」

すべての人の幸福を求める人たちが政治にいれば世界は変わっていくのかもしれません。しかしそれは一部の政治家ではなく、人はみんな自分自身の政治家ですから自分の政治を変えることは自分の生き方、働き方、暮らし方を変えることでもあります。

もういちど、子ども達に譲っていきたい社會を見つめ直していきたいと思います。

先日、新潟にある「点塾」にて理念研修をしていただく御縁をいただきました。この点塾は、清水代表によると共同創始者である藤坂さんという方と一緒に「輝く点になろう、点をつくろう」それを点塾の理念の原点に据えて開いたリーダー育成の塾です。

「点」という字には深いこだわりがあり、すべては点からはじまる、そして点があるから線もでき面にもなる、その点が何よりも大切だということを教えてくださいました。

真っ新な紙に、点が入る姿を創造しましたがとてもワクワクする塾の名前だと改めてその哲学と思想の深淵に触れて理念に感動しました。

ここでは「教えない教育」を柱に、様々なワークショップやアクティビティ、その他の研修が行われます。これは私たちの実践する、「見守る保育」と通じていて、和の心と繋がっているように感じ終始居心地のよい場の中で、沢山の新たな気づきや発見をいただきました。

特に印象に遺ったのは、「和のファシリテーション」です。私たちはファシリテーターを「聴福人」と定義していますが、ここでは和のファシリテーションとはどのようなものかを再実感することができました。

日本の伝統文化のエッセンスを盛り込まれたり、さらに自然を上手く活用し、あるものを活かしながらそれぞれの表現を通して顕れたその人らしさを存分に楽しめ味わえる仕組みになっていました。

点が光るということがどういうことか、全体のシナリオを通じて清水代表の持つ人生観や生き方も感じられ、一人ひとりが輝く経営、リーダーシップはどういうものかということを再確認できました。

同じ理念を持つ方々との合同研修は大変有難く、御互いに貴重な気づきを交換できて学びが深まるだけではなく学びが高まっていく実感がありました。巡り合わせの仕合わせを実感しつつ、同じ志、同じ義憤を持つからこそ、道の大義を盡していくぞと心を新たに覚悟が深まる有難いお時間になったように思います。

生きる力はそれぞれの点の中に具わっている。しかしそれを活かすかどうかは、その人の生活の仕方、つまりは生き方の中にあるともいえます。教えられ詰め込まれた教育の中で減退した自然の本能をどう呼び覚まし、これからの激動期を乗り越える力を引き出していくか、子どもの可能性を信じて次世代が次の世の中で如何にいのちを輝かせていきていくことができるか。これはかの吉田松陰の松下村塾でも同じ理念下で塾生を育成し挑戦してきたことです。

この世に教育があるのは、いのちを輝かせていくチカラ添えを与えるためです。子ども達が光り輝く点になり、あの星々のように夜空に瞬き煌き美しく流れていくように私たちも引き続き理念の実践を強く発揮していきたいと思いました。

ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。

 

=個々をどう輝かせるか、それが点塾

不便を愉しむ

今の時代は何でも便利になってきました。不便なことを嫌い、不便を悪とさえみなし不便を遠ざける生活を送っています。しかしこの不便というものは、実は生きる力に深くつながっていて便利さの中にいるというのは生きる力の減退になっていることに気づかなくなっているものです。

そもそも不便というのは思い通りにならないということです。人生は思い通りにいくだけの人生などはありあせん。時には順境、時には逆境、どちらかといえば理想や夢を抱き追い求める人生を歩むならそのほとんどは試練や苦労に包まれるものです。 そんな時、何でも思い通りになる便利な生活は果たしてその人のもともともっている乗り越える力や立ち直る力、つまりは生きる力を高めているかということです。

その人の生きる力というものは、その人がどんな人生であっても自分らしく主体的に自分の脚で力強く歩んでいくかどうかという力です。

昨日のブログのコメントで、高村光太郎の「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」がありましたがこれはどんな道で歩んでいくという生きる力、人間の持つ生命力や本能でいることの大切さを伝えてきます。

そういう人間の生命力や本能は「不便を味わい楽しむ」ことで磨かれていきます。不便だ不便だと便利さを追い求める前に、不便であることの方が自分の生きる力が磨かれ、そしてその状態が愉しめているのならその人は逞しい人になっているとも言えます。

今の若い人たちや今の時代の人たちがなくなったといわれるものに「逞しさ」がありますがこれはすべて便利さの中で失われたものです。

不便を愉しむ心があるのなら、どんな逆境でも乗り越える強さとやさしさが身に付いているように思います。 思い通りにならないことを嘆かず、むしろ思った以上のことが起きているのではないかとワクワクドキドキと歩んで往く姿にこそ道を歩んでいく尊い生き方がきらりと光り、子ども達の憧れる大人の背中になっていくのでしょう。

敢えて不便さを与えるという古来の仕法で新たなロードマップと結び付けていきたいと思います。

誠道常脚下開在

本質を保ち、真実を実践するというのは他人からの誤解を多く招くことがあります。本来は世間一般の常識に合わせて、誤解されることを憚りうまいことやっていくという方法もありますがそれがもしも誠実ではないと思うのならばそういう生き方が次第にできなくなるものです。

自分がどう相手に思われようとも、自分の真心を盡す生き方というのは簡単には分かってもらえるものではないのかもしれません。そんな時、なんでこうなるのだろうかと自己嫌悪になることもありますが自分の真心や素直さに嘘がなければ天が分かってくれるだろうという境地に入ります。

昔、維新の志士たちはみんな同じような思いを抱いて歩んでいたように思います。「世の人はわれを何ともいわばいえ 我がなすことはわれのみぞ知る」という詩であったり、「世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん」であっても、己の中にある誠実さに対して恥じていないかをモノサシにしました。他にも、「志を立てて、以って万事の源となす」、「他人を相手にせず天を相手にせよ」とも言いました。どの時代も、誤解をされようが自分の真心を貫いていくことは志を抱き生きていくために篩にかけられる試練の一つであろうと思います。

しかしそうはいっても人間ですから、人間関係での誤解というものは苦労も多く、親しい人や身近な人の誤解にはまいることもあるものです。そういう時は、同じような生き方をする同志や道を歩んだ先達や師のことを思い返します。そして私は曾子の「三省」のことをいつも思い出します。

そこにはこうあります。

「曾子曰く、 吾れ日に吾が身を三省す。 人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と。

相手からどう誤解されようが、自らの心に真心を訪ねて常に内省し続けた曾子の生き方に共感し、常に自らが愛する人たちすべてに対してどうあるべきかと問い続けていけばいいのです。大切なことは相手によってころころと態度を変えて自分を守るのではなく、相手によらず自分自身の真心を盡していくことと、それを遣りきることでいつの日かその誠意は伝わる日もくるように思います。そしてそういう生き方を貫く人には必ず仲間が顕れ孤独になることはありません。

道を歩んでいくということは、誤解されるということはつきものです。

最後に道を歩むことを忘れないために発奮していくときに思い返す言葉があるので、同じような思いをする同志はぜひこれによって誠を盡してほしいと思います。

「自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。

どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。

広いときもある。狭いときもある。
のぼりもあれば、くだりもある。

坦々としたときもあれば、
かきわけかきわけ汗するときもある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、
思案にあまるときもあろう。
なぐさめを求めたくなるときもあろう。

しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。

いま立っているこの道、
いま歩んでいるこの道、
とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられている
かけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、
思案にくれて立ちすくんでいても、
道は少しもひらけない。

道をひらくためには、
まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは
必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。」(松下幸之助)

与えられた道を迷わずに歩み切る中にこそ、真実の「信」があります。道を信じる心が天に通じるとき、至誠となります。至誠を盡して信じて歩むことを已めず、必ずや真心が通じる日がくることを念じて粛々と実践を続けていきたいと思います。

和訳~本質を伝承する真心~

慈雲尊者は、神仏儒の中から共通するものを見出しそれを真心を用い「和」に翻訳した人物とも言えます。その上で何が大切であるのかを説き、垣根を超えてその本質を伝承された方のように思います。

雲伝神道には、その和から産み出された考え方が入っているように思います。どのように物事を解釈するかはその人自身ですが、かんながらの道に置いては自然に沿ってどれだけ謙虚に素直に物事を直感し、深く入るかで物事の観え方もまた異なってくるように思います。

先達が遺してくださった真心に触れると、どこを目指していけばよいのかが分かり心が安住するものです。その慈雲尊者は、神道の本質についてはこう言います。

「神道は一箇の赤心、君臣の大義のみなり。此の一箇の赤心、家に在りて孝なり。夫婦に在りて和なり。隣里朋友に交りて欺くなし。」(「神儒偶談」)

意訳ですが、(かんながらの道は自然一体の真心のことであり、人の道を盡すことです。このひとつの偉大な真心は、家にあっては孝行することです。そして夫婦なら仲睦まじく和み、友人においては誠実であることです。)とあります。

本来、親祖がどのような生き方を志してきたか、その道は隠れてはいても私たちの心身に伝承されているものです。その初心を何にするかが、道の姿であり、それは全ての人間においては同根であるものです。

そういうものに辿りつき、何を最も優先するかにおいて真心であるというのは何よりも天地自然の道理にかなっているように思います。どうしても自分の心を自分の我や価値観、もしくは考えもせず社會の考え方に迎合し本質を見失う中で心は次第に狭くなり迷い惑いも増大してくるものです。

しかしそういうものに縛られ、執らわれないようにと十善をなせというのでしょう。慈雲尊者はいいます、「天地をもつてわが心とせば、いたるところ安楽あり」と。天地のそのものを自分の心とするならば、あらゆることは安楽になるということです。真心のままにいることがもっとも自分を真心に近づけるということなのでしょう。自我妄執を捨て去るには、君臣の大義といった人格を磨いていくしかありません。

また「一度の麁言、一度の傲慢、みな災害の兆しと知るべし。」といいます。意訳ですが一度の無礼な言葉、一度の傲慢はすべて身から出る錆の兆しだと気を付けよといます。さらに「朝夕にわがなすわざをおもいしれやすきをもとの心とはして」と言います。自分の心を問い直して常に内省し、謙虚に素直になっていくことで道から外れないように真心の傍にお仕えすることのように思います。

最後に、「十善これ菩薩の道場といえり。慈悲一切衆生身にひとしく福をあたへまことをつくす」といいます。自らが十善こそが実践道場、つまり人の道から外れないようなってしてはじめてすべてのことは福になっていくことができるといいます。

まだまだ行き来するばかりで、覚束ない足取りですが先人の教えの本質を学び直し子どもたちに伝承できるよう精進していきたいと思います。

 

 

 

先達の書

先日、慈雲尊者の御縁から、岡山でかつて「今良寛」と慕われた松坂帰庵大僧正の書に出会いました。書の特徴としては、慈雲尊者を研鑽し、竹筆による作風で独特な風格があります。

書としての字も何か見ていると心が感じ入るものがありますが、同時にその選ぶ言葉や文章にも深い感化を受けることが出来ます。人が遺す言葉というものは、その人の生き方が顕現している気がしてその書の持つ美しさには魂が揺さぶられる思いがします。

この松坂帰庵にこういう書があります。

『自分は仕合せだとおもう人はそれだけでしあわせである』

これはとても含蓄がある言葉で、今の時代にはもっとも相応しいものではないかと感じます。人は、不足を思えば不平不満をこぼし、今度は満たしてばかりいたら我儘になります。どちらにしてもいただいているものを味わおうとしない心の持ち方が、今のような時代背景をうけて広がっているのかもしれません。

自分は仕合わせというのは、一体何の御蔭様で今の自分があるのかを見つめる言葉です。そしてその順々に巡ってくる御縁を感じていれば、「仕合わせ」の本質に気づけるかもしれませんが自分の思い通りにしたい欲望や、正しいとか正しくないとか比較を思う刷り込みなどに惑わされ本来の姿を見失ってしまうのでしょう。

自分の運命がどのように巡ってくるのかは、天が与えてくださったものを謙虚にいただき味わい盡しそれを愉しみ、自然に沿いつつ満たし過ぎず足るを知り、自分が何を間違っているのかを教えていただきつつ反省し精進していけば素直に来たものを選ばないで受け容れることができるように思います。

そうやって巡ってきた運命に対して、謙虚に素直にいることが「仕合わせ」ではないかと思います。そしてそういう生き方をしている人は、先ほどの『自分は仕合せだとおもう人はそれだけでしあわせである』の境地を持つ人になっていると思います。

ないものねだりをする前に、今、いただいている御蔭様や御縁にどれだけ感謝で恩に報いているかが「仕合わせ」に気づく感性を磨いていくことなのでしょう。

その人は世界でたった一人のその人ですから、そこには比較はありません。唯、御縁があるだけです。丸ごと信じて、巡り合わせを信じて澄んだ真心と朗らかに歩んでいきたいと思います。

自然体でいるということの意味を、先達の書から深めていきたいと思います。

民具の魂

昨日、無事に自然農の御米の脱穀を行いました。今の農業では、機械で刈り取るときに同時に脱穀しますから脱穀している様子を見ることもなくなりましたが昔はずっと手作業で脱穀をしていたように思います。脱穀とは、稲の穂からお米の実をとりのぞくことを言います。

江戸時代に入り、千歯扱きという脱穀の道具が発明されました。それから大正時代に入り足ふみ脱穀機がでるまではそれが活躍していました。今では動力を使っての脱穀ですからあっという間に終えてしまいます。しかし昔の民具を使うととても時間がかかってしまいます。

不思議なのは、これだけ時間がかかっていても昔はそれでも画期的な民具として使用されていたということです。昔の手紙が電話になりメールになっているように、次第に昔のものは使われなくなっていきます。新しい発明品がでると、昔の発明品は色あせてしまいます。

昔は動力は人間のチカラだけで民具も自然に近い道具ばかりでしたが、今では動力といって電気、ガソリン、ガスを使い動かします。原子力発電などもそうですが、特殊な動力を使うことで大きな作業もできるようになりました。

しかし同時に、馬や牛、その他の家畜、また鍛冶職人や木工職人、その他の民芸職人はいなくなり今では機械で全部つくられます。

民具には時代時代の価値観が反映されているように思います。どんな民がどんな道具を創るのか、民具や民芸の中には暮らしが入ってきます。今の時代の道具にはあまり暮らしにつながっているものがなく、使い捨ての文化の中で次々と新しいものが発明されていきますが本来、新しいものだけが価値があるわけではありません。古いもののなかには、とても大切な人と人、人と動物、人と森林、人と自然、といった絆やつながりが切られていないものが残存していることに気づきます。里山もそうですが、民具はそういう暮らしの中で暮らしを壊さないようにつくられてきたとも言えます。

我が家は足踏み脱穀ですが、一家総出で協力して脱穀していると里山の懐かしい原風景が瞬時に顕れます。先祖たちはどんな暮らしをしてきたか、そしてどの暮らしを遺そうとしてきたかは民具の魂に顕れます。

古民具の持つ様々な魂に触れつつ、時代時代の暮らしを見つめてみたいと思います。

 

閒と闇

稲刈り後、稲架をし天日干しして三週間が過ぎました。稲もいい感じで乾燥し、これから脱穀に入ります。種まきから稲刈り、そして天日干しまでを通して行っていると不思議に心が安心するものです。

これは太古の昔から、私たちが食べるものを確保できた安心だけではなくそこに暮らしを感じる「間」があったからのように思います。自分たちが今まで何と一緒に暮らしてきたか、そういうものを忘れるということが何よりも残念なことであろうと思います。

文明が発展し、都会の生活ではネオンは明々朝まで照らし、食べ物は余るほど豊富にあり様々な機械や仕組みによってお金を用いてはスピードが上がり経過も結果も都合よく便利に変わってきました。しかし、その一方で「暮らし」はどんどん消え失せ、本来、人間らしいものを感じる「間」が取り除かれ忙しすぎて間抜けな状況になっているように思います。これら「間」については様々な研究がされてきて、建築から芸能まで幅広く活用されていますがその間にも定義がありますから、その間をどう定義するかで考え方も少しズレてくるようにも思います。

本来、「間」という字の語源は門構えに「日」ではなく門構えに「月」という字でした。「閒」の字は、門を閉じてもその隙間から月明かりがもれてくるという様子が漢字になったものです。

夜に一家団欒で一日を振り返り、薄暗い部屋で囲炉裏を囲み静かに物思いにふけていく。そうしていると、闇の隙間から月明かりが差し込んできて心が清らかで澄んだ光によって周りが透き通っていく様子に私はこの「閒」を深く感じます。

この閒とは、私にとっては異種異別、陰陽動静のものが一体に合間することであり、それはバラバラだったものが光と闇によって解け合うことを定義しています。今の時代は直感や本能が惚けているからこの「閒」が抜けてしまったのかもしれません。

光に呑まれ目くらましにあい、心を失い忙しい時間に自分の欲求だけを満たして一時的な安心ばかりを追い求めたら、御互いに解け合う豊かな時間もまた見失ってしまうのかもしれません。・・・ゆったりと夜の闇の中で静かに古来からの炎を見つめる。そして虫たちや風の音に耳を傾け悠久の流れを感じ瞑想してみる。・・・そこには、流れている時間が緩やかに穏かになる悠久の刻の流れがあります。

自然を感じるというのはこれらの閒をどのように刻んでいるのかを実感する心を持ち、自然と一体になった暮らしに静寂を持つことです。

いのちが静寂を失うということ、それこそが間抜けな間違いになってしまうということです。

心の静寂はすべて自然の暮らしの中に具わっています。子ども達に譲っていきたい暮らしを見つめ直していきたいと思います。