同志たる由縁

坂本龍馬が遺した言葉に「世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る」があります。この言葉は、龍馬がどれだけ時代の先を読んでその時を生きていたかが垣間見れる言葉です。

最近、えにし屋の清水義晴さんと一緒に新著を編集していますが未来を見据えてどうあるべきかを語り合うたびに周囲には到底わかりもしないような境地に入ることばかりです。

そもそも、人間はどれくらい先を生きるかでその生き方や生き様が変わってくるように思います。1年先を見て生きるのか、10年先か、100年先か、それとも1000年先かではその観ている世界が異なります。

ある人は、明日の事ばかりを考えたり来週のこと来月のことでいっぱいいっぱいになっています。しかしある人は、永遠を祈り、世界を憂い、いのちを念じます。その同志たちは同じ場所にいても、同じものは観えることはありません。多くの人たちは、みんな同じような状態で同じ情報を得ていますから共通理解があるものです。

しかしその人の志というものは、その人にしかわからず同じ言葉でも同じ言葉の意味でもなく、同じものを見ていても同じものは観えていないのです。

孤高や孤独さというものは、志があるからでありそして同志というものはその志に似通ったものが絆になっているように思います。そしてこの坂本龍馬のように時代の先を見据えていのちを生ききった人物には「未来が観えていた」ということでしょう。

歴史を鑑み、今を突き詰めていく人には未来が見通せます。そして志を持って真摯に至誠に生きる人には未来を創造することができます。来るべき未来、すぐそこまで先人からの無二の真心の襷をつなぐために必死でいのちを懸け投じます。

志士とは、まさに時代の触媒であり時代がそこに明るく運ばれるように陰ながら自己のいのちを投げ出していく存在なのでしょう。

吉田松陰が高杉晋作に諭します、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」と。つまり生死は度外視せよと。これは来るべく未来のために今だという時にそのいのちの時が満ちるということを暗示しているのでしょう。

頭で考えている師弟関係などではなく、抽象的にイメージしている塾でも勉強会でもなく、まさに他人の評価など意にも介さずいのち全てを投じて未来を生き切った同志たちの邂逅の結びつきこそが同志たる由縁なのでしょう。

私は私の役割に没頭し、子どもたちのために未来を切り拓いていきたいと思います。