見守る世の中

1000年先のことを考えてみます。当然、自分は死んでいますが子孫たち、またそのずっと先の子孫たちのことを思います。すると、何を願い、何をいのるでしょうか。

ちょうど昨日のブログでは1000年前の人物のことを書きました。その人が生きていた時代から1000年、世の中は何が変わって何が変わらないでしょうか。

例えば、地球にあるお水がいつまでも綺麗で飲めるお水であってほしい。または木々や山の自然が残り生き物たちが分かち合って助け合って食べていけるものがあってほしい。人々が家族になって仕合せを謳歌してほしいなどはすぐに想像できます。

しかしそれは今だからこそそう思うのです。本来、太古の自然ではお水はいつも美しく自然は豊富で人々は小さな集落を育て仲睦まじく暮らしていました。しかし今は、行き過ぎた資本主義に包まれ権力とお金に支配され、動植物は絶滅するものが増え、核兵器がうまれまるで終末期です。極端な表現かもしれませんが、1000年前の人たちは今の時代を想像していなかったように思います。きっと自然と調和し共生し助け合い平和な暮らしができる日常を願ったのではないでしょうか。

自分なら子どもが子どもらしくいられるような世の中を遺したいと願い祈ります。

これは、社會がそれだけ「見守る世の中」になっているということです。それはいのちが安心して存在できるような世界です。

そのために今、何ができるだろうか。

私は場を調えていくこと、生き方を繋ぐこと、智慧や伝承を守ることなどを思いつきました。他にも子どもたちの発達を見守ることや、甦生やお手入れをはじめ寿命を大切にする仕組みづくりです。

まだまだ今、生きていますから丹誠を籠めて正直に丁寧に1000年先の未来を予祝するように日々を実践していきたいと思います。

お彼岸への伝承

日本の伝統的な行事に「お彼岸」というものがあります。これはインドや中国にはない日本で発展した仏教行事です。盂蘭盆会はインドからのものです。春分と秋分の間にあるのが彼岸で、夏にあるのが盂蘭盆会です。

そもそもお彼岸とは何でしょうか?

お彼岸の「彼岸(ひがん)」は仏教の言葉で「向こう側の世界」といいます。「あの世」ということですね。それに対して私たちのこの世界は「此岸(しがん)」といい「この世」のことです。

春分には太陽がほぼ真東から昇り、ほぼ真西に沈みます。そしてこれは秋分も同様です。この春分・秋分が日没の方向が一年の中でもっとも明快に「西」を意識することができます。

阿弥陀仏の説く極楽浄土は西の方角にあるといい、「阿弥陀の浄土は西方、十万億の仏土を過ぎたところにある」とされてきました。だからこそ西を向くこと自体が、極楽浄土へ心を向ける行為になっていたのです。

春分と秋分の時期は、太陽が真東から昇り真西に沈みます。その瞬間にあの世とこの世が結ばれると先人たちは実体験で味わったのかもしれません。中庸、バランス、調和、あちらとこちらも渾然一体になった時、そこに天地和合心、極楽浄土が観えたのでしょう。

英彦山の守静坊は、祭壇から玄関に向けて西を向いて建っています。私はいつも宿坊に来ると、夕方はいつも夕陽を眺めてはずっと祈ります。西から差し込んでくる澄み切った金色色の柔らかな太陽の光が「真摯に一日、そして一生を終えるいのちのご供養をしている」ように実感するからです。

輪廻転生、何度も循環し巡りくるいのちの調和は誰が何のために行っているのか。私たちはいのちがある御蔭さまでさまざまな体験ができています。それもまたご先祖様が結んで繋いでくださった一期一会のいのちです。

「在る」ものに眼差しを丁寧に向けてみると、感謝の世界が顕現してきます。

極楽浄土は何処にあるのか、それは感謝の中にこそということかもしれません。

人は朝に太陽を拝み、夕陽に太陽に祈ることで感謝の世界を味わえます。世界のいのち、そして人類が平和でありますようにと感謝でお気楽極楽に真心の暮らしを楽しむ。平和とはいつもかくありたいものです。

今日も、英彦山の守静坊ではご縁のある方々と一緒に先人や先祖を偲び、歴史を学び直してみんなで読経してお香を焚いて、しだれ桜のご神木にしめ縄をはります。

お彼岸の有難さに感謝しながら過ごす一日にしていきたいと思います。

場と道

「場が育つ」という言葉があります。植物や動物をはじめすべてのいのちが育つように、場も育ちます。この「育つ」という言葉の語源は、赤ちゃんが産まれることの会意文字でもあり、日本の古語の「生ひ立つ(おひたつ)」が由来だともいいます。つまり「時間をかけて成熟していく」ということです。

植物であれば、最初に土を定めそこに種を蒔きます。すると新芽が出て花が咲き実をつけては種になります。この自然の循環そのものが時間の成熟です。そしてそのいのちのめぐりそのものの働きを場とも呼びます。

場が育つというのは、自然全体で行われている循環が場に凝縮され顕現するのを実感するということです。

そしてその場の中には、人だけでなく風土や暮らし、そして歴史や文化、伝統や伝承などあらゆるものが有機的に結ばれて離れているものがない状態が繋がっています。その分けられていない、一物全体のような境地を「場」と私は呼んでいます。場は言葉で語れるものではなく、場で感じるものです。

場には道があります。

この道とは、歩んできた道のこと、つまりは時間をかけて成熟してきた道のりのことでもあります。人間は、視野を広げ、意識を高め、宇宙をはじめ全体と結ばれ、心を磨いて徳を調えると「道」の存在に氣づくものです。

道を感じるための入り口には、必ず「場」があります。

そして場を感じるのには兆しがあります。この兆しは、木々が清々しい花として変化したり、風や空気感が変化したり、水が綺麗に澄み渡ったり、光が揺らいだりといった自然現象の変化として顕れます。

人間は理想を抱き、謙虚に先人たちの遺徳を継承し、丁寧に誠実に実践を積み重ねるときに場の種は次世代へと蒔かれていくものです。

子どもたちのためにも、脚下の場を調えるような実践を積みかさねていきたいと思います。

ということで、来週は徳積堂(飯塚市有安)のある鳥羽池(八龍権現池)の桜から場を学び、再来週は守静坊(添田町英彦山)の230年の枝垂れ桜から道を辿ります。

この場と道に、ご縁のある方々のご参加を心から楽しみにしています。

むかしの五穀田

先日、故郷でついに農業委員会の許可を経て正式に農業を営む人になりました。そして2026年3月5日、無事に新しくご縁をいただいた田んぼで初心と覚悟を魂串に載せて綱分八幡宮の宮司様と一緒に「地まつり」を行いました。美しい棚田と霊山関の山を仰ぎ、澄み切った風がお山から吹き下ろされ一期一会の清らかで純粋なお時間を過ごすことができました。

このような素晴らしい風景がある場所の田んぼとご縁をいただけたこと、心から地縁神恩に深く感謝しています。

ちょうどこの場所は今から5年前に江戸時代の古民家を甦生した「和楽」(わら)があります。懐かしい未来の和の暮らしを実践する暮らしフルネス道場の一つです。この歴史を生きる古民家和楽とその庭先にある田んぼがきっと子どもたちの未来に確かな徳を智慧を伝承してくれることと信じみんなで予祝をしました。

5月の田植えころには、徳が循環する結づくりのコミュニティの仲間や縁者の皆様といにしえから続く音や楽、そして食や幸福を感じる神事を実施する予定にしています。

思い返せば、私が無肥料無農薬のお米づくりをはじめたのは2011年の東日本大震災の時です。もうすぐ3月11日、いつまでも大切なことを決して忘れない日と決めているこの日が近づいてきました。あの震災を私は東京で被災し、多くの犠牲者がでて天災と人災の違い、悲しみから犠牲者の追悼をしました。今でもあの体験を、あのメッセージを受け取った一人として忘れないぞという覚悟で田んぼに向き合ってきました。

そこから千葉県神崎にある神崎神社の麓にある田んぼをお借りして14年間無肥料無農薬でお米づくりを自然酒の寺田本家の酒米をつくっていた見事な農家さんと共に歩んできました。そして昨年、福岡県朝倉にある大己貴神社の麓にある田んぼをお借りしそこで仲間たちにお声がけして一緒に無肥料無農薬で手植え手刈り稲架かけでお米をつくりました。そしていよいよ本年から福岡県飯塚市(旧庄内町)にて田んぼを取得しこれまでの集大成としてこの場を天命と定めました。

田んぼの命名は「むかしの五穀田」としました。

これはこの地域の氏神様が五穀神社であることからです。

この五穀は古来、日本の食文化の根幹をなし、米を中心に麦・粟・豆・黍(稗)などが挙げられました。日本人の精神の真髄その根源には常に『五穀豊穣を祈る』文化があります。

むかしとは、懐かしい心の風景のことをいいます。

古代より今まで私たちは生きるために食べてきました。食べるというのは、ただ食事をすることをいいません。共に仕合せに生きるために、共につくり、共に生き、共に助け合い、共に笑い合い、共に暮らす、共生と幸福の原点をいいます。

むかしから変わらないもの、変えてはならないもの、それを守ることが、子孫やこの地球の人々の過去と未来と今を見守ることにもなります。

世界が渾沌として戦争前夜のような重苦しい空気の中であっても、どう生きるか、どういう生きざまをするかは自分で決めることができます。

日本には「和合」という言葉があり、「和楽」という生き方もあります。

和をもって尊しとなすといった、聖徳太子、そして和の系譜を生きた尊敬する先人たちの先達者たち。その方々に恥じない生き方ができるようにこれから私も人事を盡して天命を喜ばせていきたいと思います。

これから「むかしの五穀田」を甦生して日子山を中心とする大和のクニから続く願いと祈りをしめ縄のように結っていきます。

皆様のご参加、賛同を心から楽しみにお待ちしています。

 

修行の本懐

忘己利他という言葉があります。これは天台宗の開祖、最澄様の残した言葉と生き方です。簡単に言えば、「自己を忘れ、他者の利益や幸福を第一に考えること」(山家学生式)そして最も目指す慈悲の極みこそが、この言葉であるともいいます。

原文ではこう記されます。「悪事は己に向かえ、好事は他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。」と。現代語訳にすれば、「どんな悪事も嫌なこともすべては自分が引き受けるといい、そして善いことであれば他者と分かち合え与えるのがいい。我欲や自我や自分などは忘れてしまい、人によかれと思うことをしつくしなさい。まさにそれこそが慈悲や思いやりの極みです。」と。

この反対の行為は我欲自利でしょうか。反対のことを書いてみればすぐにわかります。「嫌なことからすぐに逃げ、悪事はすべて他人のせいにし、善いことや手柄はすべて自分の力だと吹聴する。自分の利益だけを追求し、他者には一切それを分かち合おうとしない。目先の我欲や自我に呑まれ、執着を手放せず周囲に迷惑をかけつづける。それが無慈悲の極みである」

人間というものは、あっという間に初心や理念を見失うと道に迷うものです。道に迷わないようにするために、常に謙虚に内省を続け、素直にすべての人の話に耳を傾けて心を澄ましていき反省をしていきます。実践というものは、素直に自分の至らなさや誠が濁っていないかを確認しそれをすぐに改めることでもあります。

論語の中にこういう一説があります。

「子曰わく、君子重からざれば、則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。」

これは意訳ですがこうです。「孔子は言われた、君子は軽々しい態度をとると威厳がなくなります。学んでいる人は謙虚になり頑固にはならない。真心を盡そうと精進することこそを最も大切な初心とし、自分よりも劣っている人たちを集めて囲われ、自分の気分がいいからとそれらの人たちを友達にしてはいけない。もしも過ちに気づいたのならすぐに改めることに遠慮などはいらない、間違いはすぐに直せばいいのだ。それが人として生き方である」と。

困難から逃げると嫌なことを逃げる人ばかりが集まってきます。困難を引き受けると、周囲は心の負担が軽くなり心安らかになっていきます。そして幸福や喜びを分かち合い、深い信頼関係と絆を得ることができます。それが恩恵を分かち合うことであり、忘己利他の極みなのかもしれません。

人は自分の利益のみを追い求めると、自利に走っていきます。自利とは自分勝手な欲望に呑まれることです。最澄様はまず自分勝手な欲望を手放すこと、それが修行の本懐であると言ったのかもしれません。

時代が変わっても人間の本質や性分はなかなか変わらないからこそ、自戒を持って歩んでいきましょうという今でも大切な道の生き方としての遺誡の一つになったのかもしれません。

私もかんながらの道の一人、そして目指す聴福人として、心で聴き対話を忘れない実践を続けていきたいと思います。

時の声

自然には時節というものがあります。時がすべてを調整して万事を運びます。これを運ともいいます。よいタイミングがよいことがあり、わるいタイミングではわるいことがある。よいものわるいも時の運ということです。時機ではないものに執着をして、必死になっても裏目に出てはかえって運もわるくなることがあります。そういう時は、時を待ち、よくよく時節を観察していくのがいいように私は思います。

松下幸之助さんがこのような言葉を遺しています。

「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つ事は僥倖を待つに等しい。静かに春を待つ桜は、一瞬の休みもなく力を蓄えている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。」と。

よい時が必ず来るからそれまで静かに待つこと。そして静かに待つというのは、力を蓄える時機であるという啓示。じっくりと、それまで自重して謙虚に内省と実践に専念していくということでしょう。備えあれば憂いなしということもあります。つまり備える時として丁寧に調えて準備していればそのうちまた好機が到来するということでしょう。さらにいえば、備えていたからこそ好機は向こうからやってくるということ。

自然界は、誰にも平等に何度も何度も挑戦する機会やご縁を与えてくれます。一つが終われば、また一つがやってくる。すべてはその時のための準備であったと言えるように、日々に怠らず努めては静かに待つことが肝要ということでしょう。

時を待つ境地というのは、時の経過で真実や答えを見せてくださる鬨までよくよく観察するということです。時は必ず本質をあぶり出し、真実を教えてくれます。時は静かに動き、時は穏やかに流れます。時薬というものもありますが、時が癒し全てを解決していくのです。

時はまるでお水のようです。

お水が流れていくことで、また静かに透明になります。濁ったものが流されると、何が濁っているのかがわかり、どこで濁ったのかもわかります。現在、妙見神社の治水工事が行われていますが、濁りの原因が取り除かれるのを今は静かに待っています。

これからも時の声を信じて歩んでいきたいと思います。

思い出と祈り

今回の古民家甦生では新しい出会いやご縁もたくさんありました。大変で苦しかった体験もありましたが、実際にはいただいている方の奇跡に感謝することばかりです。

まずこの2年半かけてお米のことを深く學び、お米に関わる人たちと接する機会がありました。日本人が何よりも大切にしてきた主食、それを守る人たちに会いました。農家をはじめ、食を扱い、啓蒙し、先人の知恵を大切にする人々。志に刺激を受け、私も日本の田んぼを改めて守ろうという意識を持つことができました。

そして職人さんたちとの新たな出会い、信頼できる仲間と共に理念を共有し心を籠めて建物を創る喜び、楽しかったです。場は、その場を創る人の心が宿ります。私の心を汲んでいただき、納得のいくまで妥協せずにお付き合いいただき見事に調和した姿を観るのは仕合せでした。

また商品開発をするのにもたくさんの試食をはじめ、試作、智慧を働かせて何度も何度も諦めずにチャレンジできました。愉快で気の合う仲間と和気藹々と意見を出し合い取り組むこと。実力のある方ばかりが集まり、何でもできそうな自信と誇りを持ち直すことができました。

素材との出会いや一期一会の組み合わせ、理念とアイデアを想像しては見事に集まってくるご縁。この取り組みの最も楽しいひと時です。私は、生き方として座右が一期一会ですからご縁が重なり組み合わせることで発生する「妙」を観るのが大好きです。

これからいよいよ店舗がはじまり、私の手は離れていきますが心は楽しかった思い出、有難かった感謝に満ちています。いつまでもあの場が、日本のお米の発信地になり、子どもたちの未来に伝統が継承され、いつまでも自然に元氣が湧きだすように祈ります。

おめでとうございます。

お水への感謝

浮羽の老舗兵四郎のお披露目会で古民家甦生の報告をすることができました。思えば、2年半の間、お水に見守られた有難いご縁になりました。浮羽は、大雪で吹雪いており時時に美しい太陽の清々しい光が舞い降り場を照らしてくれました。

今回の甦生で一番思い出に残っているシーンは、井戸掘りだったのは間違いありません。1年半もかけて、ずっとお水が甦生するように祈り、何度も井戸に入り、井戸に祈り、井戸を掘る職人と一緒に誠実に盡しました。最初は、井戸のあった場所が見つからず、周辺を何度も数メートルほどみんなで掘りましたが出てこず、諦めた頃にむかしの井戸であっただろう掘り穴が出てきました。またその井戸が空気抜きがされていないこともわかり、苦しかったであろうことも感じご供養祈祷をしました。

そこから砂や土を取り出し18メートルほど掘っているとお水が湧きました。そのお水が透明で美しく、顔を洗い口に入れるとその清らかさに感動して泣いていました。これだけ長い時間をかけて井戸を掘った理由は、井戸職人さんの体調をはじめ、道具を集めたり、無理せずに日を選んだり、定期的にご祈祷をして穏やかに取り組むようにしたこともあります。

井戸を掘っている間は、常にお酒やお塩、法螺貝を吹いては事故や怪我がないように祈り続けました。不思議なことに、一番奥ふかい場所から一つの勾玉のような石が出てきて台座もありました。誰かが井戸を埋める前に、安置したのではないかとし今でもその石と台座を大切にお祀りしています。

また井戸検査も見事な結果で、もちろん飲用もでき水質は近隣の名選百水の清水湧水に勝るとも劣らないほどです。

お水は調理や生活するには十分なほどの水量もあり、これから老舗兵四郎の店舗で用いられます。お水がまた流れはじめ、暮らしの中で循環すると思うと感無量で言葉にできません。

私たちはお水があってこそ生きていくことができます。

あまりにも身近にありすぎて、感謝をする機会も減っているように思います。しかし私は有難いことに井戸を掘る機会に恵まれたことでお水が湧きでることの本当の有難さを學ぶご縁をいただいてきました。

此の世のどのようなものよりもお水が尊い存在であることも井戸が教えてくれました。

昨日は、井戸の蓋を開けありがとうございますと話しかけました。清らかにあがってくる空気を感じながら、お酒を法螺貝に汲んで井戸と酌み交わしました。波動や鳴動で振動を揺らすと、余韻が場の全体に響き渡ります。

甦生したお水と古民家が、子どもたちの未来に向けて徳を発揮し、豊かさや喜びが場に満ちることを信じて蓋を閉じました。

一期一会の井戸とのご縁に深く深く感謝しています。

ありがとうございました。

老舗兵四郎の甦生

浮羽の古民家がお披露目会の準備に入りました。思えば、2年半もかけてたくさんの方々のお力をお借りしてここまで甦生できました。本当に感謝しかありません。最初に、叔父さんからお声がけがありこの古民家はどう思いますかと尋ねられました。その時、素晴らしい古民家ですよとお伝えしてから今があります。

古民家がどう素晴らしいかというのは、役割をまだ持っていてさらに生きようとする意志が家にあるということ。同時にその主人がその意志を活かそうと覚悟を決めていること。このふたつさえあれば、私は甦生できますと応えます。

もちろん、実際には取り掛かろうとするとあらゆる問題が山積みでちょっと手軽にや、片手間でなどできることではありません。まさに全身全霊、身を粉にして取り組みます。その理由は一緒に取り組んでくださる職人さんたちにとっても大変な仕事で、できないことや無理なことばかりを要求することが多くなるからです。

具体的な無理な要求とは、そのものを活かしてほしいや、できる限り壊さないこと、目的や理念から外れないこと、我を出さず家の声に合わせてもらうこと、禍転じて福にしていくような働き方で取り組んでもらうこと含め、様々な注文を出していきます。

だからこそ、それを言うあなたはどうなのか、その背中はどうなっているのかの信頼を姿かたち実践で共感してもらい安心してお志事に取り組んでいただく必要があるからです。

しかしそのプロセスを通して、一緒に苦しみ、一緒に歓び、一緒に智慧を出し、一緒に感動し、一緒に感謝するという場が産まれます。そういうことの一つ一つが、実を結び、最期には生き方のようなものを纏った家や場が完成するのです。

そして生き方を纏った家はまるで生き物のようにそこで暮らしをはじめます。その暮らしを共に生きるのがその場の主人と家族です。

物語は新たに続きだし、永遠となります。

つまり甦って生きるということ。

これらの日々の記憶は、真摯に真剣に至誠を生き切ったからこそ語り継がれます。

この浮羽の古民家、老舗兵四郎が日本をはじめ世界の子どもたちの成長を見守る偉大な存在としてこの先も甦生し続けることを祈念しています。

 

無理をしない

無理をしないというのはとてもいい言葉です。理に適っていないという意味になります。では何が理に適っているのか。物事は筋道というものがあったり、道理というものがあります。自然があるがままに道理に逆らわないように、不自然であることが理に適っていないということです。

例えば、真冬に田んぼにお米を蒔いても芽はでてきませんし、真夏に冬眠させることもできません。現代であれば、科学の力で人工物をつかったり電気や燃料を大量に用いては無理にでもそれを実現することができるのかもしれません。しかし、それは無理をしているのであり理に適っているわけではありません。

何か不自然だと大いに感じることがあるのなら、私は朝令暮改であっても善いと思っています。

自然というものは、不自然というものを教えてくれるものです。日々に季節の変化を眺めていたら、風が吹いていないときには船は帆があっても船は進んでいきません。風が吹くのを静かに待つしかありません。また土が育っていなければ作物は育ちません。土が育つのを丁寧に見守るしかありません。

そのように道理をよく観察してその道理に適っているかどうかをよくよく洞察するのです。

人生というのは、誰にしろ節目というものがあります。言い換えれタイミングというものです。タイミングが合っているかどうかを見極めるのは、自然かどうかを見究めるということです。

その見極めは、自然や自己との正対や内省が必要です。つまり、これは果たして自然かどうか、天道地理に沿っているか、義理人情の筋道は適っているか、天地人の状態はどうかなど、常に全体快適や一期一会のご縁の状況を結んで適宜判断していきます。

私の生き方、かんながらの道というのはそういうことです。

道を歩むというのは、日々の変化に順応して自己を変化し続けていくという実践です。カグヤという会社の御蔭で精進をさせていただけます。

誠に感謝です。