場を磨く

弱っている場所や荒廃している場所が、活き活きと甦ると周囲の気配も空気も変化していくものです。不思議ですが、私たちの生きるところでは外すことはできない大切な場所というものがあります。

例えば、水が分岐するところにも神社を設けて清浄に保ち調えて祈ります。他にも、湧水が出てくるところ、あるいは巨石が鎮座するところなども同じです。

重要な場所には、それぞれに大きな役割がありその役割が全体を守っていたりするものです。風水なども、その原理や掟を守ります。

今では、観光的に便利で目立つ場所や商業的に繁盛をするところなどを大切な場所にして、むかしから守られてきた要所や場所をおざなりにしています。そこで気の流れも変わり、場所全体が荒廃に進んでいくものです。

人間だけがこの世にいるわけではないので、私たちは共生しながらもっとも自分たちの場所が居心地がよくなにはどうすればいいかを突き詰めてきました。そうすると、よくよく観察し大切な場所は丁寧にお手入れしていこうとする伝承が繋がります。

私が取り組んでいるのは、世間ではどうでもいいと思われて放棄され荒廃したところを地域全体最適や地球全体最適をみて、それを守り調えていくことで場所を守りその場づくりをしていこうとするものです。

子どもたちには、場を一つでも甦生し遺していく必要性を感じます。なぜなら、子どもたちは場によって育つからです。

場づくりは時間がかかり労力もかかりますが、場を磨き続けていきたいと思います。

大家族主義の徳

互譲互助という言葉を知りました。これは出光創業者の出光佐三さんの遺した言葉です。日本人は、本来、お互いを尊重しあい譲り合う和の精神がありました。それが個人主義で失われていくのは違うのではないかと、さらに和の精神を磨こうと発信されました。

出光興産のホームページには「互譲互助」がこう紹介されています。

『個人主義は利己主義になって、自分さえ良ければいい、自分が金を儲ければ人はどうでもいい、人を搾取しても自分が儲ければいいということになっている。ところが本当の個人主義というのは、そうではなくてお互いに良くなるという個人主義でなければならない。それから自由主義はわがまま勝手をするということになってしまった。それに権利思想は、利己、わがままを主張するための手段として人権を主張する。この立派な個人主義、自由主義、権利思想というものが悪用されているのが今の時代で、行き詰っている。

それで私はよく会議で言うんだが、「お互いという傘をかぶせてみたまえ。個人主義も結構じゃないか。個人が立派に力強くなっておって、そしてお互いのために尽くすというのが、日本の無我無私の道徳の根源である。自由に働いて能率を上げて、お互いのために尽くすというならこれまた結構である。それから自分が人間としてしっかり権利をもって、お互いのために尽くすというなら結構だ。」と言うんです。互譲互助、無我無私、義理人情、犠牲とかはみんな「お互い」からでてきている。

大家族主義なんていうのも「お互い」からでてきている。
その「お互い」ということを世界が探しているということなんだ。』

本当の個人主義とは何か、それはお互いが善くなると定義されています。そもそも自今主義は利己主義でもなければわがままするものでもない。権利思想が悪用されているというのです。

私はこの権利思想というものは、人権を含め、お互いを尊重しあうという意味で人としてとても大切なことだと感じています。しかし今の使われている権利は、戦うため、争うための材料になってしまっています。

そこで本来の意味に回帰しようと「お互い様」という日本の精神を説きます。みんなで自立するのはいいことだと、そうやって自立してお互いのために支え合うのが日本人の生き方ではないかと。そのうえで、自分の権利を保っていこうではないかと。その道の先にこそ、みんながお互い様で生きていこうとする大家族としての地球があるのではないかと、私はそう仰っているように思います。

自分の国や自分のことだけ、そのために奪い合い争い合うというのは平和的ではありませんし自然の掟に反するものです。自然は、よく観察するとお互い様で成り立っており、みんなそれぞれが尊重しあうなかでお互いに譲り合って助け合って存在しています。

例えば、野菜でもそれを育て見守り喜んで一生を歩んでいく過程でその作物や食料として私たちは食べていくことができます。そして種をいただき、その種を育てていくことで共に生のパートナーとしてお互いを見守り合う関係で家族になります。

思いやりをもって歩んでいくことで、このお互い様がはじまりそこに譲り合いという知恵が生まれます。権利と勝ち負けではなく、尊重と譲り合いが世界をつくるのです。

時代が変わっていろいろと世の中も毒がたまってきています。毒を取り除くには、日頃から毒を出すかのように浄化し続けることが必要です。この出光佐三さんの大家族主義というのはまさに今の時代に求められている気がしています。

子どもたちの健やかな未来のためにもお互いというところをさらに突き詰め、徳積循環経済の仕組みに挑戦を続けていきたいと思います。

意識の世界

人間の意識というものは、変わっていくものです。例えば、資源豊富なジャングルの中や海のそばで生活すると意識が変わっていきます。あるいは、大都市や人工的につくられた場所で生活しても意識が変わります。

この意識というものは、また無意識というものがあります。一般的に、起きているときに持っている感覚が意識で、眠っているというか潜在的に深いところに存在しているものを無意識ともいいます。自律神経や副交感神経のようなもので、意識もまたその深浅や広狭もあるのでしょう。

ただ、どのような意識で日常を過ごすかというのはその人が決められるものです。

昨年、ある呼吸法を深めている方が来られてある体験をしたときに自律神経はコントロールできるというお話をお聴きしました。その方は、真冬でも裸で高山に登頂することができる仕組みを体得されています。

その仕組みを体験すると、無意識と呼ばれるようなものを呼び覚ましてそれを意識の場所で維持することができるというものです。

人間の身体というのは、100パーセントで使うことはできません。脳も10パーセントくらいしか使っていないといいます。身体も制限しながら壊れないように使っています。

私たちは何を削り何をしないか、そしてどこを用いてどう活かすかということをつねに調整しています。まさに意識の世界です。どんな意識で生きていくかというのは、どのような暮らしをしていくかということを似ています。意識を変えるには、暮らしを変えていくのが一番の近道です。

何を優先してどれを大事にし、どういう生き方を実践するかというのはその人の覚悟が必要ですがその覚悟は意識の継続ができるかどうかです。継続は力ありといいますが、継続できることこそ意識を変えることと同じだと私は思います。

時代が変わっても、意識というものは変わりません。戦争がなくならないように、意識はいつまでも継続してそれが存在しています。反対に縄文時代のように、そもそも争いという意識がなかった時代もあります。

今はそんな時代ではありませんが、意識は変えることはできますからここから子孫のためにも意識を醸成して伝道していきたいと思います。

見極める目

物事を観察するのに、何が本質で何が本質ではないかを見極める目というものがあります。私たちは知識が増えていくうちに、あるがままのものが見えなくなっていくものです。それは知識によって知るという行為で現実が曇っていくからです。現実が曇るというのは、澱んでいる水のようにも似ています。

つまり透明で澄んだ状態ではないので見えるには見えるけれど明瞭に本質が見えないということです。それは心の状態にも影響していきます。そもそも心というのは何もなければ常に自然と同様にあるがままのものが観えるものです。

むかしの人たちはそれが観えていたからこそ、その自然や野生が持つ力を知り、それを活用して暮らしを営んできました。いのちの持つ循環やその効果などもあるがままに澄んで観えていたようにも思います。その証拠に、今でも先住民族や野生がのこっている人たちはその感覚が残っています。

しかし長い時間をかけて感覚ではなく、知識によって知ることを優先されてくると頭ではわかっても実際には観えないという状態がはじまります。こうなってくると、現実が曇ってきてよくわからないことを共同で信仰するかのように理解する社会になってきます。

例えば、地震や自然災害などは本来は畏敬と共にむかしの人たちは備えましたが今では一週間程度の備蓄と多少の装備と訓練すれば大丈夫のような感覚になっています。そんなはずはなく、現実にその時が来たらなぜそんなところに住んだのかやなぜ現実がわからなかったのかと曇りが取れます。

東日本大震災の時も、津波に原発とあの揺れと犠牲の大きさに私たちは自分自身の現実が曇っていたことに気づいた人がたくさんいたように思います。その澱みに気づいて心を澄ませて人生を換えた人も多くいたように思います。知識が通用せず、如何に知恵が大切かということにも目覚めた人も多かったように思います。

しかし歳月が過ぎ、また似たような知識ばかりを詰め込んでいるうちに気づくと曇り澱んできて元の木阿弥になります。

だからこそ如何に人間は曇らないように澱まないように心を澄ませていく暮らしを実践し日々を調えていくかにかかっているように思います。今は、自然災害が猛威をふるい、そして地球環境も人間社会も大変革期に入っているからです。

子どもたちが安心して未来を今を曇らせないように自然に寄り添った生き方、自己を磨き澄ませていくことの大切さなどを伝承していきたいと思います。

視野を広げる

塩野七生さんという歴史作家がいます。「ローマ人の物語」というローマの1300年の興亡を描き切った方です。私も読めていないのですが、文章のところどころに視野の広さや戦略のこと、政治と軍事のこと、本当に深く洞察されております。

歴史は、よく見直し洞察すると現代でも起きている戦争や政治の混迷などほとんど似ていることが発生します。似ているということは、過去から深く洞察し歴史から学べるということです。

「戦略は、現状を正確に把握していさえすれば 立てられるというものではない。 過去、現在、未来を視野に入れたうえで、 それらを統合して立てるものである。そうでないと、たとえ勝利しても それを有機的に活用することができない。 活用できないと、戦闘には勝ったが戦争には負けたということになってしまいがちだ。 「自覚」が重要なのは、これこそが一貫した戦略の支柱になるからで、 それが確立していないと、 戦争の長期化につながりやすい。戦争は、攻められる側だけでなく、 攻める側にとっても悪である。 「悪」なのだから、早く終わらせることが何よりもの「善」になるのだった。」

本来の戦略とは統合されているものということ。統合できる視野があることを洞察されています。今のウクライナやロシアの戦争もまた、どのように終わらせればいいか、どの視野でこれをリーダーたちが理解できるかどうかによります。

「兵士を率いて敵陣に突撃する一個中隊の隊長ならば、 政治とは何たるかを知らなくても 立派に職務を果せる。 しかし、軍務とは何たるかを知らないでは、政治は絶対に行えない。 軍人は政治を理解していなくもかまわないが、 政治家は軍事を理解しないでは政治を行えない。人間性のこの現実を知っていたローマ人は、 昔から、軍務と政務の間に境界をつくらず、この間の往来が自由であるからこそ生れる、 現実的で広い視野をもつ 人材の育成のほうを重視したのであった。」

政務と軍務も本来は統合されたものです。それを分業することで視野が狭くなります。広い視野とは、分けないということ。それは一体であるという認識を持つことです。違いを認め合い、お互いの持ち味を活かすことこそ視野の広さを醸成していきます。

組織を含め、分けていくのは簡単ですが分けることで視野はどんどん狭くなるものです。どうやって共生するか、そして統合し思いやりのあるいい状態を創造するかに視野は育つように思います。

他にも塩野七生さんの遺した言葉があります。共感するものばかりです。

「危機を打開するには、何をどうやるか、よりも、何をどう一貫してやりつづけるか、のほうが重要です。」

「戦争は、死ぬためにやるのではなく、生きるためにやるのである。戦争が死ぬためにやるものに変わりはじめると、醒めた理性も居場所を失ってくるから、すべてが狂ってくる。」

「 100%の満足を持つなんて、自然ではない。天地創造主の神様だって幾分かの不満足は持ったに違いない。本当の仕事とは、こんな具合で少々の不満足を内包してこそ、実のあるものになるのだと思う。」
「危機の時代は、指導者が頻繁に変わる。首をすげ代えれば、危機も打開できるかと、人々は夢見るのであろうか。だがこれは、夢であって現実ではない。」
どれも高い視野で語られている言葉です。ローマという国がどのように興亡したのか。そこには歴史の深い教訓があります。人類は今こそ、歴史に学び直す必要性を感じています。
身近な実践から見つめていきたいと思います。

経世済民と暮らしフルネス

徳が循環する経済をと取り組んでいますが、もともとはこの世はすべて徳が循環することでいのちが繁栄しているともいえます。経済を単なるビジネスという視点で観るのか、それとも経世済民というように暮らしや幸福として観るのかではその結果も目的も変わります。

そもそも貨幣経済は方法論ですが、はじまりは政治が深くかかわっています。つまり、どのように社会を修めていくかという仕組みです。これは、すでに中国で論語の大学で「古之欲明徳於天下者、先治其国、欲其国者、先斉其家。欲其家者、先脩其身」と示されています。有名な一説、「修身斉家治国平天下」です。

まず自らを修め、家を修め、国を修める道こそ天下が幸福になると。そのためには経済をどう修めるかということを説くのです。国東にある三浦梅園もまた、その著書、価原のなかで道徳と経済の意味を説いています。

この道徳経済の一致は、他にも二宮尊徳や渋沢栄一、石田梅岩なども同様に実践と意味を発信してきました。結局たどり着くのは、何のための経済か、そもそもこの仕組みの初心は何かということを忘れるから何度も時代を超えて説かれるのです。

人間は、置かれた環境の中で多くの刷り込みを受けます。今の時代であれば、お金持ちというだけで大きな立場が得られて誰からも勝手に尊敬されます。良し悪しなどは、関係なく社会のなかで大きな地位や名誉、立場をえます。しかし、政治を考えたとき、何を規範にするか、どう修めるかをみんなで取り組むことで本来の政治は調いました。

徳を実践する人がいない世の中になれば、どうなるでしょうか。便利さや効率、そして合理的な判断が優先され政治はずる賢い人たちが世の中を統治するようになります。国家が乱れ、戦争が起きるのはそういう状態になっているときでしょう。それは歴史が何度も何度も証明しています。

だからこそ、国を修めるためには先ほどの修身斉家治国平天下という道徳=経済、つまり経世済民の思想と実践が必要だと何度も語られるのです。人は、油断をすると実体がないものを実態があるかのように仮想かして現実を塗り替えます。自然と不自然がわからなくなるのもそこからです。

本来、何が自然であるのか、何が当たり前であるのか、そういうところから今を見つめ直し、どうあるべきかをみんなで考えて取り組むのが学問の本質のように私は思います。

子孫のことを思えば、先人がどのような道を歩んできたかを観てもらい、その道が今どのようになっているのかを検証する必要を感じています。つまり歴史に学び、故人の遺志を伝承するということです。

小さなところから、ご縁のあるところから、徳の循環する経済、徳積経済と暮らしフルネスを体験を通して弘めていきたいと思います。

病気の正体

現代人の病気のほとんどは、がん・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病、そして精神疾患があります。どれも理由ははっきりしていますが、その環境は取り除かずに病気を退治しようとするのでこれらの病気を扱う病院はいつもいっぱいです。それに医療費の負担も増え、そのうち何のために働いているのかと気づくほどにみんな病気に近づいていくかもしれません。

本来の健康は、未病であり、病気にならないような暮らしを調えていくことによります。病気になる生き方には、他人軸といった評価や期待、空気を読みすぎたり、比較されたり自分に厳しすぎて自己を大切にしなかったことなどで頑張り無理がたたり心身が病んでいきます。もちろん、いくら気を付けていても自分のいる環境がそういうところにいる場合は知らず知らずのうちに影響を受けて病気になることもあります。

自分というものを大切にしていれば、環境の影響があっても自分というものを持ち続けることもできるかもしれません。しかし人間は弱いもので、欲望もあり感情もありますからそんなに強いメンタルを維持することはなかなかできません。

そういう時は、自分にもお手入れが必要になります。自分のお手入れというものは、日々に自己の心と対話をする習慣をもったり、身体の声を確認する時間があったり、あるいは環境を変えて心身を調える場に身を置いたりなど工夫はできます。

私の場合は、ライトワークとして徳の循環する経済圏を創生していますから意識的に水や火を用いて自然から離れないよう、不自然と自然が何かを常に確認する機会に恵まれています。そして場づくりで風水をよく感じて、気の流れが澱まないように気を付けています。そもそも病気というのは、気の流れの澱みから発生するのではないかと私は直感しています。気が流れれば、病気は次第に快復していくからです。

例えば水でいえば、澱むことで水は腐ります。私たちは水を纏い循環することで生きていますが、排水や排出ができないと病気になります。植物も同じく、水というものがいのちの中心でありその水の流れ方がどうなっているのかというのはとても大切です。

暮らしフルネスを実践していますが、これはメンタルヘルスにも大いに役立ちます。そもそもむかしの先祖たちは病気を一番、気を付けていました。今では仕事を一番気にして病気になるという悪循環ですが本来は健康であることが一番であったのです。

健康でなければ喜びもしあわせもありません。常に健康で自他が喜び合う中に徳もあります。子どもたちのためにも、暮らしフルネスを伝道して子孫へと先人の生き方の知恵を伝承していきたいと思います。

私の伝統

私は色々なものを甦生していますがその一つの伝統というものがあります。そもそも伝統というものの定義は曖昧なものだと最近は感じています。最初からすべてのことはほとんど伝統ともいえます。誰が農業をはじめたのか、誰が林業をはじめたのか、創業100年とか500年とかいいますが、実際には農業はもう人類がはじまったくらいからありますから数万年あるいはもっと長く続いている伝統です。

10年でも伝統といえば、1000年でも伝統という。しかしその伝統とは、結局は続いているということを言っているように思います。むかし、誰かが発明したものが今でも採用され続けてどこかで使われているということです。

そしてそこにまた逆説があることがわかります。誰も採用しないものは伝統ではないとかということです。採用されないものを伝統だからと遺そうとするのは無理があるように思います。文化財の保存なども、私の場合はすぐに活用しようとしますがその活用を否定する人もいます。しかし活用を否定して伝統を守るというのは不可能ではないかと私は思うのです。一時的に、誰も採用しないので保存しておこうとするのはわかります。しかし実際には、活用しようとすると法律や日本独特の空気感で新しいことをするなと言わんばかりの声もでます。

本来、伝統とはその都度、新しく磨き上げていくものです。なぜなら、採用し続ける状態、活用し続ける状態を維持していかなければならないからです。

私も古民家を扱えば、色々な専門家からあれは間違い、これはわかっていないだのご指摘いただくことがあります。もちろん、それは学び、深め、理由を理解しますがそのうえで自分の好きなように改善します。なぜならそれが活用だからです。他にも、宿坊を甦生するとどうしても世間から見れば宗教染みたことをやってしまっていたりします。別に特定の宗教や宗派、ルールなど周囲を気にしていたら何もしない方がいいということになってしまいます。何もしなかったら活用できませんから維持存続することもできません。そうなれば伝統はそこで終わってしまいます。

私が考える伝統は、活用ありきなのです。活用するというのは、ちゃんと自分のものにしてそれを新しくし、使い続ける創意工夫をしていくということです。その時、それまでとは形が変わってしまうかもしれません。もちろん先人の知恵や技術、そして思想や真心などは当然尊重して尊敬していますがどう使うかはその時々の人たちの全身全霊ですから同じことはできません。

同じことなどは存在しないのですが、同じことを形だけ続けることよりも先人たちと同じようにその時代を真摯に生きてその真心と丹精を込めた生き方を実践していくことで人事を盡すことしかできないと私は感じます。

そもそも伝統とは革新のことです。つまり伝統=革新なのです。だからこそ、私の取り組んでいる仕組みは、これからの伝統を創造しようとする人たちの仕組みの参考になるのでしょう。

子どもたちや子孫を第一優先して取り組むからこそ、私は色々と批判や非難をされても、ご迷惑を多少おかけして人間関係でも少し距離を置かせていただいていてもこれは自分の使命だと思い取り組んでいます。

先人たちが譲り遺してくださった未来を、そのままにさらに新たにしてもっと先の未来のために創造を挑戦していきたいと思います。

徳の宝

明日の守静坊の夏至祭の準備で宿坊を調えています。もともとこの宿坊の伝承では、夏至に太陽の光を鏡に受けるという行事があったといわれています。今は、もう文献も残っていませんがそれを甦生させてみようと試みています。

本来、神事というものは形式が問題ではなくその本質が何だったかを学び直すことのように思います。繰り返し伝承されるものは、形式が問題ではなくその伝承したものの本体をどう承ることができたかということによります。伝える方がいなくなったのなら、伝える側が使ってきた道具たちやものたちに物語を謙虚に教えてもらいそれをなぞりかたどるなかでその真心を直感していくものです。

私が甦生をするときは、まずよく「聴く」ことからはじめます。この聴くは単なる思い込みを外すだけではなく、そのものがどうしたいのか、何のためにあるのか、もともとはどうだったのかと深く丁寧に時間をかけて取り組んでいきます。そうしていると、早ければ数日、遅くても数年から十数年で次第にその本質にたどり着くまでの情報やご縁があちこちから集まってきます。

そのためには、そのものへの敬意や畏敬の心が必要です。何かを学ぶというのは、それだけそのものから学ばせてもらうための心の姿勢が大切になります。わかるとかわからないとかという心情ではなく、真心に対して真摯に応えるという真剣さが必要になります。それは深く礼を盡して、純粋で素直、そして謙虚であるかという心の基本が立っているかどうかによります。

自然から学ぶ、自然から聴くというのもまた同様です。

今回の夏至祭もまた、どのようなものであったのか。それを今、辿っていますが太陽の徳を感じています。太陽は、広大無辺に私たちいのちがあるものを遍くすべてに徳を与え続けます。その姿は見返りのないあるがままのものです。

そして夏至は、その太陽の光がもっとも長く、高く、広く、私たちの今いる場所を照らしてくれています。植物たちや木々を英彦山の山中でよく観察していたらこの太陽に徳に報いようと一生懸命に成長しているのを感じます。成長するというのは、この果てしなく広大な太陽の恩徳をいただいているからだと気づきます。

一年に一度、私たちは徳の存在に気づくことがこのお祭りの本質であり、そしてその徳を一年、そして一生忘れないで暮らしていこうとする意識こそ太陽を拝む生き方なのかもしれません。カラスもまた、太陽の使いや太陽に住む鳥ともいわれます。英彦山には烏尾観音や烏天狗の伝承もあります。太陽と深く結ばれ、太陽に祈る文化があったように私は思います。

当たり前に気付ける感性、もともとある存在をいつも感じる感性は、徳を磨く中にこそあります。今の時代は変人だと思われるかもしれませんが、太古のむかしからつながっている物語を今の時代も変わらずに実践し、子孫たちへ徳の宝を結んでいきたいと思います。

保存食の知恵

燻製の歴史を考えてみると、どこからどう誕生したのかを想像してみます。歴史をたどれば、今から13000年前くらいの石器時代にその原型があるともいわれます。それから古代ローマに入り、ゲルマン人が塩を使い保存し、その後はスパイスが混じり今のような燻製の形になっているともいわれます。

随分長くこの燻製という調理法は大切に伝承されてきました。煙を嫌う生き物たち、煙が如何に防虫防カビ、除菌などにすぐれているかに気づいた先人たちの知恵の御蔭で今私たちはこの調理法をもっています。

他には発酵や乾燥、冷凍、焼く、水で洗う、干すなどもすべて常温保存のための知恵です。特に水が多い日本では、水を上手に活かして保存していきました。どんぐりなどのアクの強いものも水にさらすことで食べれるようにし冬の間の保存食にしました。干し野菜や焼き米なども同様です。

つまりは、今のように冷蔵庫や保存料、防腐剤などがなかった時代、如何に栄養がありいのちが充実し飢餓や飢饉から身を守ろうかと生み出した知恵でもあります。特に燻製は、動物性の肉を保存するには最適でした。普通にしていたら腐ります。それが燻製になると腐りにくくなります。そこには熟成という知恵が働きます。

この熟成は肉の中に酵素という物質があり、それが肉のタンパク質を分解し旨み成分であるアミノ酸に変わる工程のことをいいます。酵素がタンパク質を分解するには日数が必要です、その間、腐敗に傾かないように塩漬けにしておきます。この塩漬けは、水分を脱水し味をよくするためです。水分が残ると腐敗がつよくなりますから、そこに塩を入れて腐敗の微生物たちをおとなしくさせておくうちに熟成するのです。

なぜ人は熟成するものを美味しいと感じるかというと、化学的にはタンパク質がアミノ酸やペプチドに変化し増量するからだといわれます。人間の舌はこのアミノ酸を旨味として捉えておいしいと感じるからだといわれます。また人間の体はのたんぱく質は、そのままでは吸収されずペプチド・アミノ酸に分解され吸収されますが熟成肉はすでにアミノ酸になっているのでそのまま栄養が吸収されるそうです。

肉は腐る前が一番うまいという言葉もあります。この熟成の技術は、食べるものをよく観察することで得られるように思います。むかしの人たちは、どこまで食べれるか、いつまで食べれるか、そしてどうすれば長持ちするかとその3つを真摯に研究してきたように思います。

今のような飽食の時代、ありあまり食料を捨てている時代にはわからなくなっているでしょうが本来は食べるという営みの源流はこの保存食の知恵にこそあります。

子どもたちに保存食の意味を伝承していきたいと思います。