大根飴

昨日から喉が痛くなりむかしからの民間療法で知られる「大根飴」をつくりました。ちょうど、自然農法で畑をなさっている方から新鮮な大根をいただいたこともありそれを蜂蜜と一緒に仕込みました。御蔭さまで、今朝は随分喉の痛みが緩和されて快復傾向です。

この大根飴の効果は、科学的には大根に含まれているイソチオシアネートが炎症を鎮めてくれるといいます。また、はちみつと一緒に組み合わせることでその殺菌作用や抗菌作用が働きより快復を速めてくれるといいます。

このイソチオシアネートという1つの成分のことをいうのではなく、ある分子構造が共通している「イソチオシアネート類」と呼ばれる仲間の総称のことです。辛み成分の中に含まれており、アブラナ科の中に多くあるといわれます。私が取り組んでいる伝統在来種の日子鷹菜の中にも大量のイソチオシアネートの元になる成分が入っています。

また大根は消化酵素が働きやすくなり、胃腸にとても効果があります。よく食べすぎや体調不良などの時は、私は大根おろしをお蕎麦に入れて食べます。すると、しばらくするとお腹の調子がよくなってきます。これも大根と蕎麦の組み合わせが絶妙であるからです。

民間療法の素晴らしさは、その組み合わせにこそあります。一つの材料と別の何かのバランスが見事に調和するとそれが大きな薬になります。副作用も少なく、効果は絶大です。

また冬至の翌日から休眠中だったぬか床を甦生し、ぬか漬けをはじめました。この時期のぬか漬けの主役はやっぱり大根です。ぬかの発酵も胃腸に効果がありますが、その漬けこまれた菌と一緒に大根を食べるもの身体が喜びます。

この一年、身体も酷使することばかりでした。身体を労うようにと、不調も訪れます。そんな時は、先人の智慧の結晶でもある民間療法が大きな助けになります。大根飴をいただきながら、年末に向けて心身を労っていきたいと思います。

冬至の巡礼

今日はこれからBAで冬至祭があるため、柚子の仕込みや準備をしています。今年は英彦山守静坊の敷地にある山伏柚子が大豊作だったのでその山伏柚子をつかってみんなで柚子三昧をします。

この柚子というのは、先人の智慧の結晶、むかしからの保存食です。日持ちがよく、あらゆる調理に使えます。柚子胡椒、柚子味噌、柚子茶など、工夫して柚子を健康保持に役立ててきました。

また柚子は、ゆず湯が有名ですがこれは科学的にも効果が認められていて柚子に含まれるリモネンという成分にリラックス効果があり、ビタミンCも豊富でお湯に入れることで皮膚から体内に吸収されるんです。また柚子の香りの成分も自律神経系に働き、ストレス解消や睡眠に効果があります。湯上りにも湯冷めしにくいともあり、最高です。これは平安時代頃から続いている行事ですが、柚子を太陽に見立ててその力に肖るという縁起ものです。

もともとこの冬至は、現代は知らない人の方が増えていますが実際にはこの日がもっとも一年のうちで大切な日でしたから今でいう正月のようにお祭りのような日だったといわれます。朝からお餅つきをし、柚子三昧で過ごし、夜は大晦日のように過ごし、翌日の朝日をお迎えして「明けましておめでとうございます」とご挨拶するのです。

明治以降に、スケジュールやカレンダーといった西洋の暦を中心にした時間だけをみるような生活に代わりましたが本来は自然や宇宙、星や太陽の運行にあわせていのちのリズムや自然の全体調和に合わせて私たちは暮らしを営んでいました。

冬至は、その太陽が甦生するという一年で最も大切な日。いつも以上に太陽に感謝しながら過ごせる最高の日です。この日こそ一年で最も豊かな日です。

私は暮らしフルネスの実践を通して、この冬至の豊かさに氣づきました。そしてその御蔭で、年々、暮らしが豊かになってきました。これは物質的な豊かさというよりも、太陽や空気、そして光や風や生きものたちとの触れ合いが増えた喜びです。

私たちは「意識」というものをいつもどのように保っているかで、感じるものが変わります。感性というものは、この「意識」によって左右されます。意識は実践や継続をするとき、主体的になりますが意識がどこを向いているか、どの境地でいるのかは人生の豊かさにとても大きな影響を与えるものです。

冬至に祈り、暮らす人々は、意識が太陽から離れません。太陽の周りを巡りながら一緒に太陽と銀河を旅しているのが私たちですから一周巡るたびにまた一ついのちは磨かれていきます。

一期一会の冬至の巡礼を味わって過ごしていきたいと思います。

元氣の根源

「志を立てて以て万事の源と為す。」これは、吉田松陰の言葉です。これはすべての根源は志を立てることだという意味です。この文章はいとこが元服するときに贈った言葉だと言われます。またその続きには、「士の行は質実、欺かざるを以て要と為し、巧詐、過ちを文るを以て恥と為す。」とあります。これは立派な大人として、誠実で素直、決して自他を欺かず、騙したり嘘をつくことは恥ずかしいという意味です。

この志という字は、そもそもどのような成り立ちかを考えるとその心が向かうところという意味です。そしてこの心とは何か、これは氣であると孟子はいいます。孟子は、その言葉の中で「志は気の帥なり。」といいます。

これは万物全ては氣で満ちており、志が立つのならばその氣はこれに従うとあります。つまり志こそがすべての氣の源泉であるという意味です。志とは、心が向かうところと書きましたが心が目指すところがしっかりと定まり醸成されているのなら氣は満ち溢れてくるという意味でしょう。

吉田松陰はこうもいいます。

志専らならずんば、業盛なること能はず」

これは志に集中していないのならば、どのような事業も学問も大成することはありえないと。ここでもすべては志だといいます。また「己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る。恐るるにたらず」ともいいます。これは、自分の中に志が立っているのならそうではない人はみんな自然にいなくなっていくもので怖がったり不安になる必要は全くないという意味です。

志こそ氣の正体ですから、立志の人物は元氣に充ちているということでしょう。この元氣があればどのようなことも実現できると信じるのです。できるかできないかを悩む前に、志はどうなっているのかと初心を確認することが吉田松陰の學問の真髄で姿勢だったのでしょう。

最後にこういいます。

「志定まれば氣ますます盛んなり」と。

志さえあるのなら、どのような環境下や状況下でも氣は常に充実しているのだと。まさに、志を実践することこそが第一義でありそれ以外はないという生き方。もう逝去されだいぶ経ちますが吉田松陰の志は後世を生きる私たちの心にも元氣を分けてくれているように思います。

よくよく元氣の根源を振り返り、その志を磨き上げていきたいと思います。

 

家祈祷の意味

家運というものがあります。私は古民家甦生をして家には運というものがあることに気づきました。最初は、見た目だけの雰囲気や場所などを意識していましたが実際に手掛けてお手入れを続けているとそこには確かに家運というものを感じます。

家は末代までと祈祷するのが、家祈祷です。それぞれの初代が棟上げのときに大工棟梁や家人らと共に家の行く末を祈りました。そこにはその家の子孫たちの家運長久を祈る人たちの祈りや願いがあります。そして一家の平安と無事を祈り続けてきた家人たちの暮らしがありました。

それが代々を重ねることで豪壮になり、時には衰退していきました。栄枯盛衰を繰り返しながらも、家は続き、次の人へとそのいのちのバトンを渡していきます。一家というものは、どこの範囲までを一家とするのか。血筋の集まりもあれば、同じ目的で生きる仲間の時もあれば、その家の飯を食べた人というものまであります。

家運を高め磨くことで、その家は力をいつまでも貯え力を発揮するのです。

ではそのように家運を高めるのか、それは日々の暮らしをどのようにその家で行うのか、そして祈るのか、味わうのかに関係してきます。

一つには、お手入れという掃除があります。これは感謝することです。感謝を具体的な行動にするとき、人はお手入れやお掃除をします。そのものや場所、道具に深く感謝して時には修繕し、時には調えて、丁寧に磨きあげていきます。玄関や床の間など、また厨房の煤払いをします。

そしてもう一つの祈りは、日々にそこに何か偉大な存在がいるかのように尊敬しながら手を合わせて暮らします。主人の生き方がその場に投影していきます。味わうのは、その家が喜ぶように暮らし味わうことです。一緒にその時代を生きる思い出を彩る家庭として、家での思い出を深く味わい盡すことで元氣が出てきます。家は喜ぶことで、イキイキするのです。

こうやって家運を高めていくことで、私たちはその恩恵も御蔭様もいただき仕合せや豊かさを味わえます。そして、その大切な節目を一家で大切に過ごすことが家祈祷です。

今日明日は、一年の感謝を家祈祷をしながら過ごします。日本人のやまと心ややまと魂を結ぶ暮らしフルネスの実践を子どもたちや子孫へと伝承していきたいと思います。

井戸の豊かさ

昨日は、井戸の無事を祈願した神龍八大龍王神社に御礼参りに伺ってきました。今回の井戸は、最初から困難続きで不可能とも思え何度も諦めそうになることの連続でした。何度も絶体絶命で神様頼みをするなかで、何とか最期まで掘り抜くことができお水も申し分ないほどに湧き出るところまでになりました。

振り返ると、元々その場所は酒蔵で大量のお水が出ていたこと。そしてかつては家が繁栄していたのを井戸仕舞いをして衰退してしまったこと。室内に井戸があったといってもどこに埋まっているのかまったくわからなかったこと。また霊視できるある方から偉大な龍神がいて命の危険があること、傲慢さに気を付けるようにとご連絡をいただいたこと。何度も井戸を甦生するかどうかをギリギリまで議論し、最終的には何のためにやるのかと何度も吟味して決心し井戸掘りを費用度外視、歳月度外視で覚悟して取り組むことになったこと、他にも色々とありました。

気が付けば一年二か月という歳月を経て、約17メートルほど掘り下げた見事な井戸になりました。そしてこれをすべて手掘りで完成させました。今の時代、機械ボーリングで簡単便利に井戸は掘りますがむかしはみんなで井戸はいのちある存在として神事のように手掘りで掘り下げていきました。途中に岩盤があればそれを何とかしなければなりませんし、もしも作業中に井戸の周囲の土が崩壊すれば窒息死してしまいます。あらゆるリスクを想定して慎重に進めていましたが、保険にも加入しいざとなったらと私自身も後かたずけの覚悟を決めていました。井戸掘り職人の方は、天涯孤独の身であり心配ないと言われましたが常に心は井戸に置きいのちの安全を祈願し続けました。

井戸職人からは時には、落雷で停電して井戸内のワイヤーが宙ぶらりになったこと、また急激に水量が増して危険だったこと、ポンプが泥水を吸い上げられなくなったこと、その他にも井戸掘り道具が壊れたり梯子が使えなくなったりとありとあらゆることが発生し困難を極めたことなどを聴き、昨日は祝杯を酌み交わし、ずっと泣き笑いしながら苦労を分かち合い、労い合いました。

畢竟すべてが終わってみると、最期までみんなで諦めなかったこと、だからこそ今、この瞬間があると感動してそこには不思議な多くの御蔭様があったことに深く感謝しました。

自然を相手に何かをするというのは、常に謙虚な気持ちで真摯に取り組んでいくことの連続です。思い通りにはならず、思った以上のご縁に巡り会い続けます。振り返ると、とても豊かなことであり一生涯の人生においてこのような仕合せはありません。

ある独りは、いいものを提供したいと願い、またある独りは、頼まれた以上は無欲に信頼に応えるといい、またある独りは丸ごと全てを最期まで信じ切るといい、その三人が独立自尊して力を合わせたからこそこの井戸は完成しました。まさにお水の神様、辰年に相応しい目出度い最幸の一年になりました。

さあ、ここからがいよいよ本番で家の甦生に入ります。

この井戸とお水に見守られながら建築や修繕に取り組めることは有難く、この上ない喜びもあります。そのお水が活かされるように、隅々まで心を運びながら来夏ころの老舗開業に向けて真心を貫ていきたいと思います。

心から井戸の豊かさとすべてのご縁に感謝しています。

注ぎ方~お水の主人~

私たちは当たり前にあるものの可能性というものをどれくらい深めているかで、その意識の高さや生き方の磨き方がわかります。この当たり前というものは、普段あるものをどれくらいちゃんと活かしきっているか、どれくらい本気で一期一会に向き合っているかで変わってきます。これは自分の実体験をどこまで昇華できているか、そしてそこから本来は何かという真実や真髄を學ぶ境地に入っているかで変わってきます。

昨日は、ある方の紹介でお水をはじめすべての液体の注ぎ方を究めておられる人にお会いするご縁がありました。今年は辰年とのこともあり、お水に関係することに多く触れる機会になりましたが最も深い感銘と気づきをいただくご縁になりました。

そもそも私たちに元来具わっている感覚というものはどこから来ているのか、これは心の在処と結ばれています。私たちは感覚というものを通してあらゆるものを察知します。しかしそれはどのようにしているのか、知識では理解できるものではなく自分の中にある感覚が感受するときにはじめて感得するものです。つまりは最初からそれは存在している感覚があるということです。

その感覚のほとんどは、使う必要がなければ日頃は眠っているものです。つまりは使わないからそのまま使わないように自動調整されています。しかしある修練を積み、その感覚があることに気づき目覚めてしまうとその感覚が日常使いができるようになります。そしてその感覚を持っている人が、自分の指先や手を通して意識を投影させるとそれが他の人にもその感覚があったことを思い出させるのです。もちろん思い出すだけでそれを使うか磨くかはそのあとの練磨や修養次第ですがそれでも感覚が目覚める体験はその人の人生を大きく変えてしまいます。

人が究める、極まるというのはある一線を超えたところにあります。これは、感覚が研ぎ澄まされ感覚を活かせるということではないかと私は思います。感覚は、無限であり、感覚そのものは偉大な心の顕現する姿です。心を使えることや、心を使いこなすことは形を創ることです。私たちが象るものは心の現象が顕現するのです。

色々と昨日は今までのお水に関わる自らの関わり方や生き方、活かし方において深い反省があったことと、改めて学び直したことでその奥深さや美しさ、深い愛に感動しました。

職業や内容が異なっても、目指している生き方が同質の同志に邂逅できることほど仕合せなことはありません。心が躍動し感覚が鋭敏になるのもまた、ご縁と御蔭様のなず神業です。子どもたちや子孫へ、この古来からの智慧や大和心の生き方を伝承していきたいと思います。

自然治癒

先日から風邪をひいて休んでいます。原因は、1歳の子どもが鼻水やくしゃみをしていたのですがそこからウイルスをいただいたようです。思い返すと、子どもからよく風邪をもらっていました。幼いときはあらゆる感染症をもらっては免疫を強くしていました。私たちは、今では過剰に殺菌や滅菌、ワクチンなどで徹底的に外部から感染症を予防しようとしますが少し前までは自己免疫力を高める方がいいことを知っていました。

過剰にウイルスを怖がったり、目に見えない菌のことを気にしすぎたりという方がよほど感染症よりも問題が大きくなったように思います。現代は自然治癒という治療をする医師がほとんどいなくなりました。その理由は様々ですが、一つはお金が深く関係しているように思います。また目に見えて即効性があり診断できるという便利さもあるように思います。

かつて、紀元前460年前ほどの人物に「ヒポクラテス」という人がいました。この方は、「医学の父」、「医聖」、「疫学の祖」などと呼ばれています。また古代ギリシアで初めて、呪術や迷信を廃し、観察や臨床を重視する医療を開拓した人物だと言われます。

自然を観察するかのように人間や病気の根源を見つめられた方だったように思います。それは彼の遺した言葉からもわかります。

「私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである」

「病気は、人間が自らの力をもって自然に治すものであり、医者はこれを手助けするものである」

「人間がありのままの自然体で自然の中で生活をすれば120歳まで生きられる」

「人間は誰でも体の中に百人の名医を持っている」

「人は自然から遠ざかるほど病気に近づく」

また、病気の原因はほとんどが食べ物から来るといいました。

「食べ物について知らない人が、どうして人の病気について理解できようか」

「食べ物で治せない病気は、医者でも治せない」

「汝の食事を薬とし、汝の薬は食事とせよ」

「病気は食事療法と運動によって治療できる」

「病人に食べさせると、病気を養う事になる。一方、食事を与えなければ、病気は早く治る」

医食同源という言葉は今では知られていますが、2500年前からもずっと今でも病気の原因も治癒の理由も変わっていません。どれだけ科学が進化したとしても、余計なことをして病気を増やしたから病院も医者も増えたわけで人間が人間らしくしていたらほとんど医者も病院も必要ないということでしょう。

現代の日本の病院の数は8000か所以上、薬局は6万か所以上です。薬やサプリばかりを購入する時代になりました。私も反省することが多いのですが、コンビのように便利になった薬に容易に手を出してしまいます。余計なことをしておいて、また余計なことをして病気になりやすい体質にしています。

自然治癒や自然免疫は、今の時代こそ最先端の医療の仕組みになるものです。そういう意味で、お山の力を使って治癒したりあるいはお水の力で予防したり歩くことで未病にしたりと工夫はいくらでもできます。そして薬の字にあるように、身近な薬草を食べることであらゆる病気をうまく調和させていくこともできるのです。

子孫のためにも、今こそ温故知新して本来の自然治癒の素晴らしさを伝承していきたいと思います。

愛と美しさ~魂の実践者~

昨日は、ご縁あって魂の実践者、サティシュクマールさんにお会いしてお話をすることができました。88歳とは思えない、快活で明朗、そして寛容で柔和な姿にも感銘を受けました。どの言葉も強い波動があり、声から伝わってくる熱意や情熱に圧倒されました。

お話もとてもシンプルでこの世の現実をよく直視しておられ澱みなく真理や真実を語っておられました。またその状況をよく分析し、自分はどう生きるかということもはっきりと伝道しておられます。実践から出てくるその言葉も、深く玩味して一つ一つを丁寧に歩んできた道から得られた知恵に満ちています。

私をご指導してくださったメンターの方々と全く同じように、安心することやお任せすること、今に集中すること、一歩ずつ丹誠を籠めて歩んでいくことなど生き方を優先するうえで大切なアドバイスをしていただきました。

環境活動家とも言われますが、環境活動はその主軸が人間になっています。しかし実際には自然から學ぶ環境活動家こそが本来の地球と一体なっている人間の使命だとも言われます。

私たちの身体の全ては、他の生き物たちと同じ素材と元素でできています。私たちも地球の一部です。そして大地を歩くとき、私たちは足から地球と結ばれています。地球から離れません。地球のものがなければ生きていけないのです。それは地球の循環といういのちの中で私たちも存在しているからともいえます。

そして何かをすることが役に立つのではなく、私たちがそのままであることが真に役に立つことといわれます。一つのりんごの木があり、そのりんごはただそこにあるだけで葉を落とし、根をはり、実をつけ、活き活きと枯れても養分になり周囲の生き物たちや自然に恩恵をあたえ一切の無駄もなくゴミなども出しません。自然は完全無比です。それを私は徳と呼びます。

サティシュさんがいう、ゆっくり味わい、小さく身近なものを大切にし、簡素でシンプル、迷いがない暮らしを生きることは自然そのものの徳の在り方だと私は感じます。私たちは親祖から今に至るまで自然の徳が循環するのを観てその偉大な叡智に救われてきました。

私も今、暮らしフルネスという実践をしていますが、お話の全てに共感するところしかなくさらにこれからも自然に深く真摯に精通していきたいと強い覚悟を持ち直す一期一会になりました。

日本の先人たちが、見つめてきたものを私も見つめる中でさらにそれをこの時代に甦生させて子孫たちへの道を切り拓き伝承していくことにいのちを没頭していきたいと思います。

仲間や同志、ご縁に深く感謝しています。私も、愛と美しさをいつまでも忘れないで最期の日までかんながらの道を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

 

懴悔懴悔六根清浄

私たちは一日に一度、あるいは何度も自分の行いや日常の一言一句や振る舞いを内省することで自分の心を見つめることができます。これは有名な論語の「曾子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」にあるように何度も何度も自分の真心を確認するのです。

そうやって自分本来の生き方を守っていくなかで、本来の自分はどう思ったかと二つの自分と一つに対話をして調和していくことが安心立命の精進になっているということでしょう。

お山での修行の一つには、お山を歩きながら懺悔懺悔六根清浄(さんげさんげろっこんしょうじょう)というものがあります。この懴悔の語源は元々はサンスクリット語(梵語)の「クシャーマ」(耐え忍んで許すこと)からきているといいます。元々は懺摩という言葉が悔やむ意味で、それがそのまま「懺悔」となりました。

悔やむという字はの意味は、自分の行いや過ちに対して心を痛めることをいいます。そしてこの「悔」の字は心臓の象形である「りっしんべん」に髪飾りをつけて結髪する女性の象形である「毎」を組み合わせ、「心が暗くなる」や「くやむ」を意味する会意兼形声文字として成り立った漢字だといいます。

仏教では、僧侶が日々に懴悔し仏様にゆるしを請い、自分の犯した罪を仏の前に告白し悔い改めるときに使われる言葉ともいいます。

もともと懺悔は現代は「ザンゲ」になっていますが、江戸時代中期以降までは「サンゲ」と呼ばれていました。

山伏たちが山歩きをしながら「懺悔懺悔六根清浄」と唱えるのは、自分の日々の行いを振り返り色々な日常で発生してきた罪穢れの数々を見つめ直していると心が痛みます。それをお山の清浄な場において悔い改めて耐え忍んで許していこうという声掛けによって心を清々しく浄化して新たな生に生きていこうとする覚悟の歩みのように私は感じます。

私も、一日の中でつい感情に呑まれそうになり、気分で行動や言動が揺さぶられてしまうことがありそんな時は振り返ると自分の立ち振る舞いを思い出し心が痛み反省します。感情の御蔭で私たちは色々なことを深く味わい今生の精彩を感じることができますが同時に心は静かに生き方を見つめ続けています。その両輪を丁寧に味わい盡していくなかにこそ、本来の自分というものを和合していくことができるようにも思います。

これから二日間、大切な仲間たちと一緒に日子山を歩きます。秋の清浄なお山の元氣をいただきながら、真心と感情を和合する仕合せを味わい盡していきたいと思います。

ありがとうございます。

 

真の文明

文明という言葉があります。これを辞書で調べると、文明(英: civilization、ラテン語: civilizatio)は、「人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す」こととあります。漢語でのこの「文明」の意味は、「学問や教養があって人格的に磨かれ世の中に開かれ精神的物質的にも豊かになっていること」をいいます。元々のラテン語のcivilization「野蛮な生活の粗野さから回復した文明的な状態」ともいいます。ローマ時代のこの意味は、都市化のことを指しています。つまり野生的なものに対しての人工的な都市のことを文明と呼んでいたといいます。

この文明というものは、4大文明をはじめ世界にたくさん存在していました。そのほとんどは滅んでいますが、この文明とは本当は何かということです。そしてこの文明を考えるときに発生する豊かさの真の意味は何かということです。

現在、一般的に文明人と呼ばれる人たちの特徴は経済的に発展した都市で生活する上流階級の知識層の人たちのことを指しています。逆に、非文明人とは山村の奥に棲むような数千年も同じような暮らしをしている民族のことをいいます。欧米では、帝国主義の時代にこれでもかと文明人が野蛮人を掃討するといって伝統的にその土地や自然と共生してきた民族たちを追い出しあるいは再教育して文明というものを刷り込んでいきました。

電気も使わない、ガソリンもガスも使わず都市社会に参画できない存在を否定してきました。今では、日本の隅々、世界の果てまで人類の便利な機械や道具が行渡っています。そうやって物質的に豊かになって、今度は人口が増えていきました。それを今度は減らそうとして文明人が今度は文明人を掃討しようとする始末です。

そもそもこの文明人の意味は、人格者であるともいえます。明治の文明開化とありましたが、実際には人格開花ではないことはすぐにわかります。明治のころに破壊したそれまでの日本の文化や伝統、伝承はこの文明という言葉によって別の価値観に入れ替えられました。先ほどのローマ文明のように、「都市化」することに集中したのです。

今ではどんな地域の地方でも、東京にあるような店舗が大きな道路の両脇に立ち並び、工業団地をはじめ今では山もソーラーパネルで埋めつくされています。

結局、ローマをはじめ文明が滅んだ理由を調べるとそこにはすべて豊かさのことが関係しています。同じ豊かさでも、何を豊かさとするのかで国の行く末は変わっていくのです。ブータンなどは、国民総幸福度を発展の基準にしています。そこには心の豊かさが欠かせません。そもそも何が人類の本当の幸福なのかということを見つめ調和、バランスを保ってこそ文明を語る資格があるのではないかと私は思います。

私は日本文明の先人たちの暮らしを今でも甦生して、暮らしフルネスを実践していますが足るを知る暮らしや、自然と共生して予祝して全てを天にお任せする調和や和合の豊かさの中にこそ永続していく未来の在り方そのものの姿があると実感しています。それが今の私たちが存在し徳を伝承している証だからです。

子どもたちに遺していきたい未来は一体なにか、現実世界は主義を用いた一部の欲望者による搾取構造の真っただ中であったとしても、決して現実に負けずに人類の真の理想に向かって取り組むことこそこの世に自分が何のために産まれてきたのかを自明していくことになるように私は思います。

子どもたちの未来には、永続を約束されている真の文明を譲り遺していきたいものです。