聴福人の実践

先日、あることで松下幸之助さんの生前の講演動画を拝見する機会がありました。そこでは、私心を消すことについて謙虚にお話をされておられ色々と省みる機会になりました。

そもそも私心というのは、小我やエゴなど自分がという己の存在を過少過大評価をしている状態のことです。何物もでもない、存在している自分をよほどの存在として独善的になっていくと私心に囚われた状態になります。

本当の自信を持つというのは、難しいことでそれだけ日々に自分というものと向き合い、自分の中の私心がどうなっているのかを見つめ続ける必要があるように思います。

松下幸之助さんも、自分の私心が毎日出てくるからそれを危険だと思って気を付けていると。賢い人こそ、危険であるから要注意であると。賢いからこそ会社をつぶすことがあると、使い方次第であると仰っていました。

確かに、今の能力も才能もそして自分というものもそれをどう使うかというのは心が決めるものです。それを世のため人のため、そして社会のため世界のためにと自分を天から預かりものとして使うときは私心はなくなっていきます。しかし、それを自分のものだからと勘違いして特別な存在だと勘違いしてしまうと私心にまみれて判断がすべて己の方に引き寄せようと欲望に吞まれます。

この世のすべてはみんな天が与えた存在であると自覚すれば、天命というものの声も聴けるように思います。しかし、天命がわからなくなるのは自分勝手、得手勝手に勘違いし視野が狭くなるからのようにも思います。

視野の広さとは、自分はとても小さな存在と思えるとき視野は広がります。永遠から結ばれている先祖からの自分を感じたり、この世のすべてのいのちは繋がっていると感じたり、宇宙や星々、光や道を感じるときもそう感じます。しかし便利さや自分の権利が当然のような環境の世の中では、そういう感覚は麻痺してみんな私心まみれ我欲まみれになりたいように思います。

夏目漱石が晩年の境地に「則天去私」(天に則り私を去る=てんにのっとりわたくしをさる)ということを語っておられます。天命に生きることの要諦で、亡くなるまでずっとその道に挑戦されたことを想像できます。

また松下幸之助さんを尊敬されておられた稲盛和夫さんもこう仰っています。

「私心を捨てて、世のため人のためによかれと思って行う行為は、誰も妨げることができず、逆に天が助けてくれる。」

動機善なりか、私心なかりしかと、自問自答を日々に繰り返されたいたそうです。毎日、私心はないかと自分に尋ねるというのは本当に大切なことだと反省するばかりです。

最後に、私が大好きな良寛さんの遺した言葉だそうです。

「おらがおらがの「が」を捨て、おかげおかげの「げ」で生きよ」

感謝や御蔭様というのは、私心を毎日お手入れすることに似ています。自己の徳を磨いていくのは、それが天命であることを忘れないようにしていくためかもしれません。

よくよく反省して、自ら勘違いしないように周囲の声に耳を澄ませ、聴福人の実践を真摯に取り組んでいきたいと思います。

本当の自分に近づく

人間は自分の力を過信するときに、同時に慢心が生まれます。この過信と慢心は別の意味のように語られます。つまり過信は自分の力を信じすぎる、慢心は自分を信じすぎておごり高ぶるという具合でしょうか。しかし、実際にこの過信も慢心も同じ意味です。

そうではない姿とは何か、それは謙虚です。

この謙虚さというのは、ある意味自分というものの理解を正しくしているものです。例えば、自分ではないと思えるということです。今の自分があるのは、ご縁、ご先祖様、お導き、仲間や家族、あるいは私であればお山やお家、風土や先人の遺徳、自然、太陽、お水、あらゆるものが自分ではないものになっていきます。

その時、私たちは御蔭様に気づき、有難いと自然に感謝ができます。そういう自分ではないものの存在に気づくとき、その中にあり「活かされている自分」というものに出会います。

自分で勝手に生きているのではないし、自分の力だけで生きてきたのではないという事実を知るのです。

その事実を知るとき、人は過信や慢心というものから遠ざかり現実を受け入れ真実を見つめることができます。

どうしても自分に意識が行き過ぎれば、人は過信となり、そして自分の力でのみ乗り越えられると思えば慢心となります。結局は、事実として人は誰かの助けによって共生の原理によって存在しますから現実に苦しめられるだけになります。

だからこそ現実を直視して、活かされている自分のままでいることに徹することで事は成就していくのでしょう。それが謙虚さであり、本当の自分を知るということになると思います。

色々と勘違いして、私もまだまだ迷い悩む日々ですが常に初心や原点を磨きながら、周囲の御蔭さまと有難さに感謝をして本当の自分に近づいていきたいと思います。

場を磨く

弱っている場所や荒廃している場所が、活き活きと甦ると周囲の気配も空気も変化していくものです。不思議ですが、私たちの生きるところでは外すことはできない大切な場所というものがあります。

例えば、水が分岐するところにも神社を設けて清浄に保ち調えて祈ります。他にも、湧水が出てくるところ、あるいは巨石が鎮座するところなども同じです。

重要な場所には、それぞれに大きな役割がありその役割が全体を守っていたりするものです。風水なども、その原理や掟を守ります。

今では、観光的に便利で目立つ場所や商業的に繁盛をするところなどを大切な場所にして、むかしから守られてきた要所や場所をおざなりにしています。そこで気の流れも変わり、場所全体が荒廃に進んでいくものです。

人間だけがこの世にいるわけではないので、私たちは共生しながらもっとも自分たちの場所が居心地がよくなにはどうすればいいかを突き詰めてきました。そうすると、よくよく観察し大切な場所は丁寧にお手入れしていこうとする伝承が繋がります。

私が取り組んでいるのは、世間ではどうでもいいと思われて放棄され荒廃したところを地域全体最適や地球全体最適をみて、それを守り調えていくことで場所を守りその場づくりをしていこうとするものです。

子どもたちには、場を一つでも甦生し遺していく必要性を感じます。なぜなら、子どもたちは場によって育つからです。

場づくりは時間がかかり労力もかかりますが、場を磨き続けていきたいと思います。

大家族主義の徳

互譲互助という言葉を知りました。これは出光創業者の出光佐三さんの遺した言葉です。日本人は、本来、お互いを尊重しあい譲り合う和の精神がありました。それが個人主義で失われていくのは違うのではないかと、さらに和の精神を磨こうと発信されました。

出光興産のホームページには「互譲互助」がこう紹介されています。

『個人主義は利己主義になって、自分さえ良ければいい、自分が金を儲ければ人はどうでもいい、人を搾取しても自分が儲ければいいということになっている。ところが本当の個人主義というのは、そうではなくてお互いに良くなるという個人主義でなければならない。それから自由主義はわがまま勝手をするということになってしまった。それに権利思想は、利己、わがままを主張するための手段として人権を主張する。この立派な個人主義、自由主義、権利思想というものが悪用されているのが今の時代で、行き詰っている。

それで私はよく会議で言うんだが、「お互いという傘をかぶせてみたまえ。個人主義も結構じゃないか。個人が立派に力強くなっておって、そしてお互いのために尽くすというのが、日本の無我無私の道徳の根源である。自由に働いて能率を上げて、お互いのために尽くすというならこれまた結構である。それから自分が人間としてしっかり権利をもって、お互いのために尽くすというなら結構だ。」と言うんです。互譲互助、無我無私、義理人情、犠牲とかはみんな「お互い」からでてきている。

大家族主義なんていうのも「お互い」からでてきている。
その「お互い」ということを世界が探しているということなんだ。』

本当の個人主義とは何か、それはお互いが善くなると定義されています。そもそも自今主義は利己主義でもなければわがままするものでもない。権利思想が悪用されているというのです。

私はこの権利思想というものは、人権を含め、お互いを尊重しあうという意味で人としてとても大切なことだと感じています。しかし今の使われている権利は、戦うため、争うための材料になってしまっています。

そこで本来の意味に回帰しようと「お互い様」という日本の精神を説きます。みんなで自立するのはいいことだと、そうやって自立してお互いのために支え合うのが日本人の生き方ではないかと。そのうえで、自分の権利を保っていこうではないかと。その道の先にこそ、みんながお互い様で生きていこうとする大家族としての地球があるのではないかと、私はそう仰っているように思います。

自分の国や自分のことだけ、そのために奪い合い争い合うというのは平和的ではありませんし自然の掟に反するものです。自然は、よく観察するとお互い様で成り立っており、みんなそれぞれが尊重しあうなかでお互いに譲り合って助け合って存在しています。

例えば、野菜でもそれを育て見守り喜んで一生を歩んでいく過程でその作物や食料として私たちは食べていくことができます。そして種をいただき、その種を育てていくことで共に生のパートナーとしてお互いを見守り合う関係で家族になります。

思いやりをもって歩んでいくことで、このお互い様がはじまりそこに譲り合いという知恵が生まれます。権利と勝ち負けではなく、尊重と譲り合いが世界をつくるのです。

時代が変わっていろいろと世の中も毒がたまってきています。毒を取り除くには、日頃から毒を出すかのように浄化し続けることが必要です。この出光佐三さんの大家族主義というのはまさに今の時代に求められている気がしています。

子どもたちの健やかな未来のためにもお互いというところをさらに突き詰め、徳積循環経済の仕組みに挑戦を続けていきたいと思います。

未来の可能性

未来の可能性というものは、今の自分の能力で推し量ることはできません。それは未来が予測できないことと似ています。今の自分が、今こうなっていることを40年前やもっと前に予測できたかといえばほとんど予測できていません。そこには数多くの奇跡やお導きがあり、今に結んでいます。

ビジョンというものは、方向性を決めるものですがこうなると未来が予測できるものではないように思います。しかし、そうなると未来を信じるのだからその信じるものを実現するために自分の能力を磨いていくのです。

そうやって人は成長し、進化していくものであろうと思います。

しかし、あまりにも高い理想や現実の世界の価値観とかけ離れたようなことに取り組もうとなると未来の可能性がどんどん小さく感じるものです。本当に実現するのか、実際には不可能ではないかと不安にもなるものです。

実際には、小さく感じても小さなことからコツコツと挑戦をし積み重ねて可能性を広げていきます。特に自然を相手にしてみるとわかりますが、思いどおりなどにはいかず、自分を謙虚に素直に改善していくしかありません。

そうやってコツコツと取り組んでいると暮らしが次第に変わってきます。日々の日常の中で、変化が出てきます。その変化こそ、未来の可能性ともいえるものです。

実践するというのは、日常の暮らしから変わっていくものです。

時間がかかっても、未来の可能性を信じて知恵を活かす新たな能力を磨いていきたいと思います。

憧れ

暮らしを追及していると、生き方に出会います。生き方は暮らし方になっているからです。そして生き方を見つめていると死に方と向き合います。死に方は暮らし方の延長にあるからです。そして生き様というものが顕れ、死に様というものでその縁起を覚えます。

私が尊敬する人たちは、みんな生き様が見事な方でした。ここ10年で私が憧れた人たちが次々とお亡くなりになりました。ごく自然に、距離を持ち、そして静かに穏やかに逝かれました。

生きているときに常にこれが最期のような感覚をいただき、お別れするときは今世はもうお会いできないのではないかという寂しさがありました。そうしてまたお会いしたいと思ったときにまたタイミングがきてお会いすると、出会えた喜びに生まれ変わったような気がいつもしました。しかしもうお会いできないという状況になると、まるで深山の巨樹のようにまだそこに存在して見守ってくれているのではないかという気配があるものです。

ある方は、光のように、ある方は風のように、ある方は土のように逝かれました。生き方はそのまま死に方になり、生き様はそのままに死に様になりました。

これらはすべてその人の初心が顕現しているとも言えます。どのような初心を以って道を歩んでいくのか、その初心の余韻が場に薫ります。

私たちはその人になることはありません。しかしその人の歩んできた道を共にした経験によって歩き方も変わっていきます。振り返ってみたら、自分もまた歩き方がだいぶ変わってきました。歳をとり、若い時のように歩いていくことはできません。歳相応に歩いていきますが、気が付くと無理ばかりをしているようにも思います。

初心を忘れてはいけないと、歩き方を歩き様を振り返っては反省の日々です。

憧れた大人になるように、そして子どもたちの憧れるような大人になれるようにどう生きるか、どう死ぬか、そしてどう逝くかを見つめています。

盂蘭盆会の準備に入り、夏の風が吹いてくると日が強くなり死が身近に感じられます。日々の小さなことに感謝して前を向いて歩んでいきたいと思います。

時代の中のバトン

本物とお金という関係があります。これは真心と言葉という関係にも似ています。本物に価値をつけてお金にする作業によって本物はお金に置き換えられるようになっていきます。同様に真心も言葉で飾って上手にデザインすれば真心に置き換えられるようになっていきます。しかし、本来は本物や真心というものは何物にもかえられないものであるのは明らかです。これはいのちとお金でも同じです。いくらお金をもらえるからといのちと交換といわれてもかえられないのと似ています。

私たちは目先の損得というもので物事を判断することが増えています。長い目で観てというのは目先の損得よりも大切なものを優先しようとする生き方です。しかし、国家や政治をみていたら本来は長い目でみて対応していく必要がある事案が短期的で目先の問題ばかりを解決しようとするあまり先ほどのような置き換えられないものまで無理やりに置き換えて済まそうとする世の中になっています。

例えば、気候変動や自然災害が発生すると今までの生活が一変します。食べ物がなくなり、今までの豊富な物流が止まり、資源のあるなしで急に危機が訪れます。それまでは肥料も農薬も物流も経済もインターネットもすべて整っていましたがそれをも破壊するような災害に出会うと人は無力です。しかしそんな時こそ、先人が乗り越えてきた知恵の出番です。

食料の保存、薬草などの医療、自然と循環する暮らし、相互扶助の仕組みやあるものを活かす工夫など知恵が活躍するのです。

今の時代は人類にとって滅亡の危機に直面するような災害には遭遇していません。戦後は物が豊富にになりなんでも捨てては消費することの繰り返しでしたからより危機のイメージもありません。

しかし長い目で思索をすると、先人の知恵が如何に大切になってくるのがわかります。短期的には今の便利な道具や知識が価値があると思ってしまいますが、長期的に見たらやはり先人の知恵の方が確かです。

換えのきかないもの換えないようにすることや、伝承すべきことをちゃんと伝承することは有事の時に必ず大きな手助けになって子孫を守るはずです。自分たちの代ではないから知恵はいらないと捨て去り蔑ろにするのではなく、子孫のためにもしもがあるから今から調えていこうとすることで目先の損得に負けない克己心も磨かれるように思います。

一人一人は小さな存在ですが、先人たちの繋いできたバトンを子孫へそのまま渡せるように時代的に意味もなく価値がなくなったものでも変わらずに丁寧に伝承していきたいと思います。

病気の正体

現代人の病気のほとんどは、がん・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病、そして精神疾患があります。どれも理由ははっきりしていますが、その環境は取り除かずに病気を退治しようとするのでこれらの病気を扱う病院はいつもいっぱいです。それに医療費の負担も増え、そのうち何のために働いているのかと気づくほどにみんな病気に近づいていくかもしれません。

本来の健康は、未病であり、病気にならないような暮らしを調えていくことによります。病気になる生き方には、他人軸といった評価や期待、空気を読みすぎたり、比較されたり自分に厳しすぎて自己を大切にしなかったことなどで頑張り無理がたたり心身が病んでいきます。もちろん、いくら気を付けていても自分のいる環境がそういうところにいる場合は知らず知らずのうちに影響を受けて病気になることもあります。

自分というものを大切にしていれば、環境の影響があっても自分というものを持ち続けることもできるかもしれません。しかし人間は弱いもので、欲望もあり感情もありますからそんなに強いメンタルを維持することはなかなかできません。

そういう時は、自分にもお手入れが必要になります。自分のお手入れというものは、日々に自己の心と対話をする習慣をもったり、身体の声を確認する時間があったり、あるいは環境を変えて心身を調える場に身を置いたりなど工夫はできます。

私の場合は、ライトワークとして徳の循環する経済圏を創生していますから意識的に水や火を用いて自然から離れないよう、不自然と自然が何かを常に確認する機会に恵まれています。そして場づくりで風水をよく感じて、気の流れが澱まないように気を付けています。そもそも病気というのは、気の流れの澱みから発生するのではないかと私は直感しています。気が流れれば、病気は次第に快復していくからです。

例えば水でいえば、澱むことで水は腐ります。私たちは水を纏い循環することで生きていますが、排水や排出ができないと病気になります。植物も同じく、水というものがいのちの中心でありその水の流れ方がどうなっているのかというのはとても大切です。

暮らしフルネスを実践していますが、これはメンタルヘルスにも大いに役立ちます。そもそもむかしの先祖たちは病気を一番、気を付けていました。今では仕事を一番気にして病気になるという悪循環ですが本来は健康であることが一番であったのです。

健康でなければ喜びもしあわせもありません。常に健康で自他が喜び合う中に徳もあります。子どもたちのためにも、暮らしフルネスを伝道して子孫へと先人の生き方の知恵を伝承していきたいと思います。

私の伝統

私は色々なものを甦生していますがその一つの伝統というものがあります。そもそも伝統というものの定義は曖昧なものだと最近は感じています。最初からすべてのことはほとんど伝統ともいえます。誰が農業をはじめたのか、誰が林業をはじめたのか、創業100年とか500年とかいいますが、実際には農業はもう人類がはじまったくらいからありますから数万年あるいはもっと長く続いている伝統です。

10年でも伝統といえば、1000年でも伝統という。しかしその伝統とは、結局は続いているということを言っているように思います。むかし、誰かが発明したものが今でも採用され続けてどこかで使われているということです。

そしてそこにまた逆説があることがわかります。誰も採用しないものは伝統ではないとかということです。採用されないものを伝統だからと遺そうとするのは無理があるように思います。文化財の保存なども、私の場合はすぐに活用しようとしますがその活用を否定する人もいます。しかし活用を否定して伝統を守るというのは不可能ではないかと私は思うのです。一時的に、誰も採用しないので保存しておこうとするのはわかります。しかし実際には、活用しようとすると法律や日本独特の空気感で新しいことをするなと言わんばかりの声もでます。

本来、伝統とはその都度、新しく磨き上げていくものです。なぜなら、採用し続ける状態、活用し続ける状態を維持していかなければならないからです。

私も古民家を扱えば、色々な専門家からあれは間違い、これはわかっていないだのご指摘いただくことがあります。もちろん、それは学び、深め、理由を理解しますがそのうえで自分の好きなように改善します。なぜならそれが活用だからです。他にも、宿坊を甦生するとどうしても世間から見れば宗教染みたことをやってしまっていたりします。別に特定の宗教や宗派、ルールなど周囲を気にしていたら何もしない方がいいということになってしまいます。何もしなかったら活用できませんから維持存続することもできません。そうなれば伝統はそこで終わってしまいます。

私が考える伝統は、活用ありきなのです。活用するというのは、ちゃんと自分のものにしてそれを新しくし、使い続ける創意工夫をしていくということです。その時、それまでとは形が変わってしまうかもしれません。もちろん先人の知恵や技術、そして思想や真心などは当然尊重して尊敬していますがどう使うかはその時々の人たちの全身全霊ですから同じことはできません。

同じことなどは存在しないのですが、同じことを形だけ続けることよりも先人たちと同じようにその時代を真摯に生きてその真心と丹精を込めた生き方を実践していくことで人事を盡すことしかできないと私は感じます。

そもそも伝統とは革新のことです。つまり伝統=革新なのです。だからこそ、私の取り組んでいる仕組みは、これからの伝統を創造しようとする人たちの仕組みの参考になるのでしょう。

子どもたちや子孫を第一優先して取り組むからこそ、私は色々と批判や非難をされても、ご迷惑を多少おかけして人間関係でも少し距離を置かせていただいていてもこれは自分の使命だと思い取り組んでいます。

先人たちが譲り遺してくださった未来を、そのままにさらに新たにしてもっと先の未来のために創造を挑戦していきたいと思います。

徳の宝

明日の守静坊の夏至祭の準備で宿坊を調えています。もともとこの宿坊の伝承では、夏至に太陽の光を鏡に受けるという行事があったといわれています。今は、もう文献も残っていませんがそれを甦生させてみようと試みています。

本来、神事というものは形式が問題ではなくその本質が何だったかを学び直すことのように思います。繰り返し伝承されるものは、形式が問題ではなくその伝承したものの本体をどう承ることができたかということによります。伝える方がいなくなったのなら、伝える側が使ってきた道具たちやものたちに物語を謙虚に教えてもらいそれをなぞりかたどるなかでその真心を直感していくものです。

私が甦生をするときは、まずよく「聴く」ことからはじめます。この聴くは単なる思い込みを外すだけではなく、そのものがどうしたいのか、何のためにあるのか、もともとはどうだったのかと深く丁寧に時間をかけて取り組んでいきます。そうしていると、早ければ数日、遅くても数年から十数年で次第にその本質にたどり着くまでの情報やご縁があちこちから集まってきます。

そのためには、そのものへの敬意や畏敬の心が必要です。何かを学ぶというのは、それだけそのものから学ばせてもらうための心の姿勢が大切になります。わかるとかわからないとかという心情ではなく、真心に対して真摯に応えるという真剣さが必要になります。それは深く礼を盡して、純粋で素直、そして謙虚であるかという心の基本が立っているかどうかによります。

自然から学ぶ、自然から聴くというのもまた同様です。

今回の夏至祭もまた、どのようなものであったのか。それを今、辿っていますが太陽の徳を感じています。太陽は、広大無辺に私たちいのちがあるものを遍くすべてに徳を与え続けます。その姿は見返りのないあるがままのものです。

そして夏至は、その太陽の光がもっとも長く、高く、広く、私たちの今いる場所を照らしてくれています。植物たちや木々を英彦山の山中でよく観察していたらこの太陽に徳に報いようと一生懸命に成長しているのを感じます。成長するというのは、この果てしなく広大な太陽の恩徳をいただいているからだと気づきます。

一年に一度、私たちは徳の存在に気づくことがこのお祭りの本質であり、そしてその徳を一年、そして一生忘れないで暮らしていこうとする意識こそ太陽を拝む生き方なのかもしれません。カラスもまた、太陽の使いや太陽に住む鳥ともいわれます。英彦山には烏尾観音や烏天狗の伝承もあります。太陽と深く結ばれ、太陽に祈る文化があったように私は思います。

当たり前に気付ける感性、もともとある存在をいつも感じる感性は、徳を磨く中にこそあります。今の時代は変人だと思われるかもしれませんが、太古のむかしからつながっている物語を今の時代も変わらずに実践し、子孫たちへ徳の宝を結んでいきたいと思います。