世界の法螺貝

法螺貝というものは、とても不思議な存在です。法螺道を深めていると、新たな発見ばかりで興味が全く尽きません。私は炭も深めていて今でもその奥深さに感動することばかりですが法螺貝も同様に感動ばかりです。

そもそも法螺貝というものは、不思議な法具です。海の姿が貝になり、螺旋で宇宙の真理を顕し、空洞空間に息を吹き込めばその音が場を調え響きは風になります。人間が言葉を発する前に、この法具に息を吹き込めばそれが自然の声として世界全体に共鳴し波動を放ちます。

法螺貝の世界各地の伝説を色々と調べてみるとわかってくるものがあります。インドでは宇宙秩序と戦の号令、仏教では法の響き、ハワイでは首長や儀礼の到来、中南米では風と創造、ギリシャでは海の制御なども法螺貝が行います。

各地の神話に登場し、昨年訪問したスリランカではアーユルヴェーダの祖であるダナワンタリも法螺貝を手に持ち、不老不死の妙薬をつくりました。まさにいのちの根源に法螺貝を用います。

インドや日本では軍貝として戦に使われてきました。これは単なる号令や合図だけではないことがわかります。法螺貝で心を調えていのちのやり取りをするという神聖な音でもあったはずです。かつて戦国武将たちが八幡大菩薩や毘沙門天などを旗や鎧に掲げて戦をするように正義や真理と向き合うのに法螺貝が使われたのです。そして戦が終われた鎮魂の法螺を吹き、神霊を供養しました。

また仏教では真理に氣づかせる法音、驚覚の法具とし無明の眠りから衆生を目覚めさせるものとして法螺貝が用いられます。つまり覚醒の象徴とされたのです。宇宙の実体を正しく回転する宇宙秩序として法螺貝がその顕現した存在となったのでしょう。

他にはハワイ・ポリネシアの法螺貝は「海と王権」の象徴となっていました。海から到来し、貝の音としてその振動や波動、共鳴に畏敬の念を持つ。法螺貝がなれば、海の王の到来として神話の時代を懐かしみ静かに受け容れるのです。

そして中南米やギリシャでは、法螺貝は「風・創造・地下世界」の象徴ともなります。アステカの風神エエカトルやトリトンが法螺貝を持ちます。これは風の神が顕現したものが法螺貝であるということです。ひとたび、空洞の殻に息を通すと風になる地下世界・風・創世神話ときれいに結びつくというものです。

法螺貝は、太古の人類にとってはまさに自然の神秘そのものを扱える至高の道具であり神具でした。だからこそ、悠久の歳月にこの智慧は今の人々の間に遺って伝承されてきたのです。

日本の山伏が法螺貝を立て、お山で吹くのはその名残なのです。

英彦山で法螺貝を創り、仙螺講を実践していますがこれらのご縁を持つ子孫たちが結集してくるのを感じます。ご縁は不思議で、法螺貝が導くように法音も広がっていきます。

子どもたちや子孫たちが先祖の智慧がいつまでも使い続けることができるように自分の使命も役割も全うしていきます。

徳治の世

むかしの五穀田の実践を通して、安藤昌益先生を深めていますが同時に石田梅岩先生のことも学んでいます。どちらも江戸時代の人物ですが、それぞれに一理ある考え方があり両方から間を学んでいます。

そもそもこの世の中は変化しますし、状況やバランスもその時々で変化しますから変化しないものは存在していません。これといって固定した思想を持てば、そこで変化の摂理からは離れてしまいます。それは不自然なことです。

自然というものは、その時々で変化することが自然ですからその時々で出てくる真理もまた一つの真理ということです。それを私は「一理ががある」と認識するようにしています。

つまり、どの話を聴いても、どの本を聴いても、どれも一理あるとし學ぶのです。

例えば、安藤昌益先生の直耕というのは人類全員がみんな自分の食べるものは自分で耕すことこそ自然であるといいました。石田梅岩は人類がそれぞれに与えられている役割を果たしていくことが道徳倫理に適い自然であるともいいました。これらは、それぞれに一理あります。しかし、全部がその真理だけでは現実や事実とは乖離していきます。

例えば、現実や事実の世の中では人類は全員が農家ができるわけではありません。土地もなければ水もないところに住む人もいます。山を守るために働く人もいれば、小さな島に住む人もいます。それぞれの環境が異なりますから全員が同じようにはできません。しかし思想で観れば、自然の循環に入っていくということを前提にするということを言いたいのかもしれません。私も今度の田んぼでは、場をつくります。これはいつもの徳の場です。すべてのいのちが活き活きと互生で助け合えるような場です。これは自然の循環の力をいただくための一つにしたのではないかと私は思います。

また石田梅岩は人間社會そのものを自然にできないかと考えました。これは自然の中で自律して共生できるように、それぞれが道徳倫理や規範をもつべきだと。商人であれば、武士道のように商人も道を実践すること。正直に素直に、自己を律して自然界の生き物たちのように取りすぎず貪らず生き方そのものを心学といいそれを実践していくことで自然循環そのものと社会を和合していこうとしていたように私は思います。

大切なことは、それぞれの矛盾をよく観察しながらそれぞれの一理を素直に学び、その中の智慧を洞察していくことではないかと思います。

人間は、それぞれのいのちがあり役目もあり個性も徳も異なります。それを組み合わせて一つの偉大な社會を創造します。だからこそ、それぞれから学び、そのどれもを「聴ける」人を育てることが持続可能な世の中にしていくことではないかと私は思います。

私が「聴福人」という実践を広げているのもその理由です。

引き続き、それぞれの徳を活かして徳治の世に近づけていきたいと思います。

法螺の法音

今週の土曜日には、日子山仙螺講の法螺貝講習会が場の道場で行われます。御蔭様で英彦山にて法螺貝を持つ羅漢もすでに六十五羅漢ほどになり、ますます法螺による氣づきや目覚めの法音は波動を通して多くの人々や場に共鳴をはじめています。

音というものは、一般的に言う楽器の音というものだけではありません。法音といって、真理の声ともいうものの一つでもあります。仏教などでも説法の声、読経の声、さらには浄土で風・鳥・樹林の音までもが法を説くものとして受け取られています。

例えば、自然に入り静かなお山のせせらぎや鳥のさえずる声で突然ハッと氣づかさられることがあります。あるいは、夕陽の沈むときの波の音、あるいは星空と大宇宙を見上げるときの風のゆらぎなど、音はあらゆる中に溢れていますがその中には真理そのものの法音が溢れています。

その中に、法螺貝の音というものがあります。

法螺貝は楽器ではなく、法具といわれます。なぜ法具といわれるかは、それは法音を放つ存在だからです。そして法螺貝は、その法音を宿す人の音が法螺貝によって和合し唯一無二の真理に辿り着きます。すると、先ほどのように自然の音で人々を目覚めさせるような存在になるのです。

それを「三昧法螺声」といいます。この三昧とは法螺と一体になっている境地で出す法音ということです。

私たちは日々に音によって目覚め、音によって今を知ります。そして音によって自己を学び、音によって静寂の本質を悟ります。この音というものは、波動ともいい、あるいは周波数ともいい、またあるいは心や魂とも呼びます。そもそも原初からある根源的なものの一つです。

音は宇宙のように私たちがまだわかってないことの方が遥かに多く存在します。しかし法螺貝に触れ、法螺貝を先生として音を学べば、その深く広大な智慧の一角に触れることができます。

法螺貝を學ぶのは、法螺道を歩むことです。

定期的に場に私が集め、集まるのは、その場を感じることが何よりも法音を学び直すことになるからです。

道は無窮、そして実践は永遠。

霊峰日子山のご加護を受けつつ、法螺の法音を響かせていきたいと思います。

命根と世根

福岡県飯塚市赤松にある「むかしの五穀田」の田んぼの準備をはじめました。霊山、関の山の吹きおろしの爽やかな風を浴びながらの農作業は格別です。田んぼと共にある古民家和楽の御蔭で、農作業の休憩がとても癒され仲間たちとの時間もさらに豊かになりそうな予感です。ご縁というのは有難くいつも絶妙なタイミングに包まれます。

思い返せば子どもたちのためにと千葉県神崎で自然酒の寺田本家の酒米を一緒につくる農家と冬季湛水の無農薬無肥料で一緒にお米づくりをするご縁から今では故郷で同じ道を続けています。

昨日は、美しい関の山からのお水をこれからどのように管理していくかを調えました。澄み切ったお水があってはじめて美味しいお米になることを再実感しました。

昨年参加してくださった多くの徳積仲間たちが安心してお米づくりができるように色々とこれから場を磨いていきます。

「自然真営道」という著書を遺した江戸時代の人物に安藤昌益さんという方がいます。この方は、自然や人とは何かということを突き詰めた人物です。私は同じ時代の三浦梅園先生を尊敬していますが、この安藤昌益さんのことも尊敬しています。

あまりにも普遍なこと言い、時代的にも進み過ぎている思想を持つ人たちはその時代には認められ受け容れられるものではありません。しかし300年経った今になると、その思想や実践が如何に今の時代に必要なことかがよく分かります。時が真実を証明するのです。

三浦梅園先生の300周年では国東半島にある生家でシンポジウムをして学び直しましたが、むかしの五穀田では安藤昌益先生を改めて仲間たちと学び直してみようと思っています。

まず自然真営道とは何か、これは読んで字のごとくで「自然とは、真実の営みという道である」ということ。では営道とは何か、それは「互生」であるといいます。例えば、天と地、男と女、雄と雌など二つが一つであるということ。つまりお互いがお互いを活かし合って存在になっていることといいました。

原文はこうあります。

めうハ互性ナリ、だうは互性ノかんナリ。是レガ土活眞ノ自行ニシテ、不教ふけう不習ふしふ不増ふぞう不減ふげんひとルナリ。故ニ是レヲ「自然」トフ。

私も同感で、水は二つの性質が一つで水となります。絶対零度で固まるものと固まらない水があるといいます。火も燃えている眼に見えるものと、遠赤外線のような見えないものがあります。二つが調和しあって一つになるところに互生の真理があるのです。

そして安藤昌益先生は、ここから人の互生の道として「直耕」の実践を説きます。

是レ活眞、無始・無終ノ直耕ちよくかうナリ。故ニ轉定くわいじつせいげつ八轉八方横逆ニ運囘うんくわいスル轉定ハ、土活眞ノ全體ぜんたいナリ。

故ニ活眞、自行シテ轉定ヲツクリ、轉定ヲ以テ四體したい四肢しし府藏ふざう神靈しんれい情行じやうかうト爲シ、つね通囘轉つうくわいてん・横囘・逆囘央土ト一極いつきよくシテ、逆發穀ぎやくはつこく、通開男女ヒト、横囘四類、逆立草木ト、生生直耕シテやむコト無シ。

故ニじんぶつ各各かくかくことごとク活眞ノ分體ぶんたいナリ。是レヲ「營道えいだう」ト謂フ。故ニ、八氣互性ハ自然、活眞ハ無二活むにくわつ不住一ふぢゆういつノ自行、じんぶつ、生生ハ營道ナリ

安藤昌益先生は「人はまず自分の食べるものを自分で耕し生産する農を営むことがあってこそはじめて自然となる」としました。その中に人類の真の平等は存在すると言い切りました。自分で耕さなくなると不耕貪食になっていくと。そして直耕し農を実践することで互生を通してお互いに活かしあい真の営道になると説きます。それを「活真人」となるともいいました。

活真人の互生によってのみ自然の世を実現するとしそれが永続してこの地球で仕合せに生きる智慧であるとしたのです。しかしこれをそのまま説くことは、あまりにも本質的過ぎてその時代も、いや今の時代も危険思想や狂人と呼ばれるものかもしれません。

例えば、今でも呼吸さえ調和していればすべての生物の病気は治癒するなどといえば奇人や詐欺だと言われたりするのと同じです。真実というものは、真実であればあるほどに都合が悪いものを浮き出させるものです。

「むかしの五穀田」に話を戻せば、田んぼでは稲を育てます。稲のことを安藤昌益先生は命根(いのちのね)といいます。これを略して命根(いね)です。人は稲の精から生まれ、稲を食して命を養うから、稲は命根(いのちのね)となるとし、またお米のことを世根(よのね)と書いて米(よね)呼びます。人は耕して米をつくり、これを食して人の世をつくることから、米は世根(よのね)となる。

自然真営道を學ぶことは、この命根と世根を創造し共生する社會を甦生することでもあります。私はこの自然真営道をかんながらの道で綴ります。

ということで、これからまた徳積仲間を集めて場をつくります。4月15日には最初の耕耘をはじめ苗床づくりをします。田植えは6月下旬の予定です。今年は、自然農法のお米と自然農のお米、古代米、地域のお米の5種類を育てる予定です。

共に学びたい、また子どもたちのため徳を譲りたいと思うご縁のある方々はそれぞれに準備をお願いします。

自然の順応

世界では気候変動がますます著しくなってきています。環境研究者たちが予測するよりもはるかに速い変化が起き、地球環境は変化しています。もともと変化というのは緩やかにはじまり、次第に早くなっていきます。その理由は、雪崩のように小さな変化も時間が経つと大きな変化になっていくように自然は微細からはじまり偉大になります。

動植物たちは、微細な変化をよく観察して変化していきます。本能的に自然に合わせて自分の方を変化していき共生していくからです。

日頃見ているような畑や田んぼも気候変動に合わせて変化を已みません。土中の微生物をはじめ、草草、昆虫の配置や分布図まで地球全体の変化に合わせて変化をしています。

人間には何も変わっていないように見えていても、毎日、一瞬一瞬で変化をしています。

日本の伝統的な家屋、つまり江戸時代くらいまでの古民家に住んで暮らしていると外との境界線が緩やかで自然を常に取り入れていますから変化を感じやすくなっているものです。

昨夜の春の嵐でも風の動きや雨の強さ、明らかにここ数年とは異なる変化に気づきます。

環境の変化にあわせて、何を準備して調えていけばいいか。自然をよく観察して自分の心身をまず調えていく必要があります。日々の暮らしを丁寧に紡いでいくのは、自然と共に自己をお手入れしていくことに似ています。

自然の自浄作用は偉大ですから、任せながらどこまで順応していくか。試練は続きますが、常に今から学んでいきたいと思います。

反りて省みる

人は何かの出来事の原因を自分にも何か非があったかもしれないと思うと素直に反省していくものです。その反対に、自分はまったく悪くないと相手のせいにしたり、責任を押し付けたりすると反省することはありません。

この反省という言葉は、「反(そ)りて省(かえり)みる」といいます。語源は中国の古典『論語』にある「吾日に吾が身を三省す」に由来で自身の言行を振り返り検討することを意味しています。

人は反りて省みると智慧と改善が産まれます。

まだまだ成長できるところがある、まだまだ学び直すところがあると氣づくのです。もしも反省をできないとどうなるか、それは成長ができなくなり周囲から信頼関係を失い孤立していくともいいます。

反省しないことのデメリットは、いつまでも変わらないということです。人は素直に謙虚に学べば変わります。原因や問題、そして自分の蒔いた種が何かを学びます。すると次には何を氣をつければいいか、自分の何が原因だったかと改善をしていくことができます。それによって人格を磨いて高めていくことも可能です。

しかし反省しなければ、何も変わりません。また同じことを繰り返していきます。そのうち、同じことの繰り返しに周囲が氣づいて孤立していきます。より頑固になっていき、さらには誰も本当のことを言わなくなり信頼関係が失われるのです。

正直さというものは、本来はただ自分が思っている価値観の中での正しさだけを貫けばいいわけではありません。そこには「思いやり」や配慮があります。思いやりがあるなかで如何に正直でいるか、まずは優先するのは思いやりということでしょう。思いやりがある場は自己防衛する必要がありません。安心するからです。

しかし疑心暗鬼ばかりが横行し思いやりが失われみんなが自己防衛をするような環境になれば、すぐに相手を攻撃しては責任をなすりつけあうようになります。継続的な不安は無責任や責任転嫁の温床になります。

だからこそ、安心できるように自らがまず自らに責任を持ち、自分に何か原因があるのではないかと矢印を自分以外の全方向に向ける前に自己に反省してみるということが大事なのでしょう。

人間、何歳になっても、この反省というものは道を歩む中で羅針盤のように大切なものです。論語で語られるように、振り返りこそ学びの極意として丁寧に取り組んでいきたいと思います。

記憶の蓄積~種取り~

自然農の高菜が開花の時季を迎えています。背丈ほどある菜の花が一斉に畑を黄色に変えてとてもきれいです。種取りをする御蔭で私は花を楽しみ、種まで見守ることができます。

ほとんどの農家は種取りまでしていません。種は購入するものになっているからです。種は購入した方が、すぐに畑が耕せて別の季節の種を蒔けます。しかし種取りまですると、季節が被るので畑が全部使えません。効率と収量を優先していたら種まで取る時間と労力がもったいないと思うのでしょう。

しかし本来は、この種取りに大きな意味があります。

畑の中で過ごした一年の暮らしや体験が種に記憶として刻まれていきます。その記憶には、育つのを見守ってくれた場や人のことも刻まれます。同時に様々なその土地の環境、虫や周辺の植物や風の吹き方から光の差し方、あるいは土中環境まで記憶します。もっと言えば、地球全体の気候の変化にまで記録され順応するため翌年の準備をしていけます。

高菜は1200年前からこの土地に根付いていますが、1200年の記憶の中から最適な状態を探して翌年の変化になっていくのです。

そして多様な種を展開して、生き残るため生き延びるためにその場所で一年を実験してよく生きた種、よく順応したものが残っていくという仕組みになっています。

種取りまでしていると、最終的にどのような種がいいかがわかってきます。たとえば、高菜であれば在来種のため紫やトゲなどがあるものがあります。葉も肉厚のものとシャープなものがあります。

どのような高菜がもっとも強かったか、また一斉にではなく時間差で花も咲き、大きくもなりますからみんなそれぞれの個性で順応します。

在来種の種が豊かで価値があるのは、一つとして同じものがないということです。現代の購入する種は、DNAをいじり、無理に改良しては同じ種にします。一年で終わりだからかまた購入します。これは場所も気候変動も人も関係しませんが、記憶が蓄積していきません。

記憶が蓄積するというのは、それだけ子孫たちが生き残る可能性のために必要な大切な時間なのです。

人間も同じように扱われ始めていないか、改めて在来種や種取りからよくよく本質を学び直していきたいと思います。

花は桜木

今朝の雨で枝垂れ桜の満開のお花も散り始めています。花は儚く、風情があります。人は美しいものに儚さを思うものです。同時に、散り際の美しさはその輝きを増していきます。

この枝垂れ桜のある場所は、お水が豊富です。水分が多い谷だからこそ、花びらがよりキラキラと透明感を増しています。それがこの春分の時季の太陽に照らされひらひらと舞い落ちる様子に光が反射してより澄み切った雰囲気を醸し出します。

また散っていく花びらの後に、新芽が出ています。新芽が出るために花が落ち着ていくのか、花が落ちて新芽が出るのか、その一期一会の美しさもあります。

特に美しいのは、雨上がりの後の穏やかな気配に包まれた桜の存在です。

まるで刻が止まったかのように静寂に包まれ、重力が失われたように力が抜けて場が和らぎます。季節の移り変わりを眺めることは、いのちの循環を見つめることに似ています。

英彦山の深山幽谷にある孤高の一本桜というのは、そこに在るだけで時を超えた繋がりを感じるものです。

お花が散る最中の美しさに魅了されたご縁のある方々が何かを感じて静かに見つめています。

一休宗純の言葉が思い返されます。

「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」

桜木の徳を味わいながら残りのひと時を永遠に。

場とお水

場づくりというものは人もその場に関係するものです。人がどのような場にするかという心が場に投影されます。その人がいなくなれば当然、場は変わります。つまり場は関係性と意識によって保たれるということです。

場ができると何が起きるか、それは田んぼや畑であればすぐにわかります。

好循環する場は、すべてのいのちが活き活きと躍動します。それぞれが自分らしく生きて、周囲を活かします。それはその場をそのようにする意識とお手入れがあるからです。場をどのように調えるかは、そこでどのような意識でお手入れをするかにかかっています。

例えば、神聖な場には神聖な場に相応しい意識と手入れがあります。その場にどのように接しているか、そして祈っているのか、または振舞うか、その一挙手一投足に微細な意識が宿りそれが場の全体に影響を与えるのです。

その場が濁らないようにするのが場守の仕事です。

私の取り組む場の道場はそれを磨き學ぶ場所でもあります。私たちの意識というものはすべての存在と結ばれ繋がっています。人の関係性も心も、そしてご縁も時もすべて結ばれたままに活動しています。

だからこそ関係性があることを忘れずにそこに大切に守りたいものがあることをみんなで意識して取り組むことで場が醸成されまるで神が宿るようになります。神が宿る場は、居るだけで清浄で清々しく、あらゆるもののいのちを元氣にします。しかしもしもその神が去るようなら場は濁り澱み、厄神などが隙をみて入ってくるかのように様々なトラブルに見舞われます。

特に古民家においては、井戸というものがあります。井戸は水神、龍神の棲まう場所です。家はお水がなければ生きてはいけません。そのお水に感謝して、お水が喜ぶように祈りお手入れを怠らなければ家は繁栄していきます。その逆に、お水を粗末にしてしまえば家は衰退します。お水は家の人々の関係性を潤し、豊かにするものです。そのお水を如何に日々に大切にお祀りするか。

私はいつもお水に恵まれ、お水に包まれ、いつも龍神や水神の存在を身近に感じています。だからこそ、日々のいのりの中心はお水と共にあります。

お水が教えてくださっている真理、清らかで澄み切った真心を大切に生きること。穢れはお水によって流され赤心を甦生すること。

当たり前ではない存在、その場に感謝を巡らせお水の大切さを伝承していきたいと思います。

桜の徳

樹齢230年の桜を見守っていると、時の流れを感じるものです。最初は小さな苗木から老木と呼ばれるほどの風格を持っています。同じように四季を巡り春には花を咲かせ、今も花を咲かせます。

その花を眺める人は変わっていきますが、花は誰が来ようが来まいが咲かせます。

230年の歳月を考えてみると、人間であれば苗木の時が初代としても少なくても5代目以降の子孫が今の桜を観ることになります。そして同じように200年後にはまた10代目以降の子孫が観るのでしょう。

桜を守るということは、どの代がやってきたのと同じように桜と寄り添い生きていくということでしょう。

私はある意味天命として古民家を甦生しています。それまでの暮らしをお手入れしてそのまま今に温故知新して子孫へと伝承しています。

その中で代が継がれていくというのは、その暮らしや生き方を守っていくということです。代々がそれぞれに桜を見守ってきたように、自分も桜を見守るのです。

もしも自分の方が桜よりも長生きだとしたらどうするでしょうか。もしも自分の寿命が1000年あり、桜が500年だとしたらどうするでしょうか。

きっと、私なら桜の苗木を育て見守るでしょう。それが途絶えないように、また美しい姿で生き続けられるようにと場を調えます。今は桜の方が長生きですから次の人間が現れてくれるように美しい心を育て見守っているのでしょう。

人の心の中にこそ、桜の徳は存在するのです。

結局、関係性いうのはお互いが見守り合いバトンを渡していくように伝承されていきます。

伝える側と、承る側の一生の契りと一期一会です。

美意識というものは徳意識でもあります。

長い歳月の中でどちらかが先にこの世を去ったとしても美しい心の風景を見守り合っていこうとする譲り合い、救い合い、分かち合い、許しあう慈愛の真心です。

桜との出会いを大切に生きる日本人が多いこと、先人たちの真心にただただ感謝です。