注ぎ方~お水の主人~

私たちは当たり前にあるものの可能性というものをどれくらい深めているかで、その意識の高さや生き方の磨き方がわかります。この当たり前というものは、普段あるものをどれくらいちゃんと活かしきっているか、どれくらい本気で一期一会に向き合っているかで変わってきます。これは自分の実体験をどこまで昇華できているか、そしてそこから本来は何かという真実や真髄を學ぶ境地に入っているかで変わってきます。

昨日は、ある方の紹介でお水をはじめすべての液体の注ぎ方を究めておられる人にお会いするご縁がありました。今年は辰年とのこともあり、お水に関係することに多く触れる機会になりましたが最も深い感銘と気づきをいただくご縁になりました。

そもそも私たちに元来具わっている感覚というものはどこから来ているのか、これは心の在処と結ばれています。私たちは感覚というものを通してあらゆるものを察知します。しかしそれはどのようにしているのか、知識では理解できるものではなく自分の中にある感覚が感受するときにはじめて感得するものです。つまりは最初からそれは存在している感覚があるということです。

その感覚のほとんどは、使う必要がなければ日頃は眠っているものです。つまりは使わないからそのまま使わないように自動調整されています。しかしある修練を積み、その感覚があることに気づき目覚めてしまうとその感覚が日常使いができるようになります。そしてその感覚を持っている人が、自分の指先や手を通して意識を投影させるとそれが他の人にもその感覚があったことを思い出させるのです。もちろん思い出すだけでそれを使うか磨くかはそのあとの練磨や修養次第ですがそれでも感覚が目覚める体験はその人の人生を大きく変えてしまいます。

人が究める、極まるというのはある一線を超えたところにあります。これは、感覚が研ぎ澄まされ感覚を活かせるということではないかと私は思います。感覚は、無限であり、感覚そのものは偉大な心の顕現する姿です。心を使えることや、心を使いこなすことは形を創ることです。私たちが象るものは心の現象が顕現するのです。

色々と昨日は今までのお水に関わる自らの関わり方や生き方、活かし方において深い反省があったことと、改めて学び直したことでその奥深さや美しさ、深い愛に感動しました。

職業や内容が異なっても、目指している生き方が同質の同志に邂逅できることほど仕合せなことはありません。心が躍動し感覚が鋭敏になるのもまた、ご縁と御蔭様のなず神業です。子どもたちや子孫へ、この古来からの智慧や大和心の生き方を伝承していきたいと思います。

自然治癒

先日から風邪をひいて休んでいます。原因は、1歳の子どもが鼻水やくしゃみをしていたのですがそこからウイルスをいただいたようです。思い返すと、子どもからよく風邪をもらっていました。幼いときはあらゆる感染症をもらっては免疫を強くしていました。私たちは、今では過剰に殺菌や滅菌、ワクチンなどで徹底的に外部から感染症を予防しようとしますが少し前までは自己免疫力を高める方がいいことを知っていました。

過剰にウイルスを怖がったり、目に見えない菌のことを気にしすぎたりという方がよほど感染症よりも問題が大きくなったように思います。現代は自然治癒という治療をする医師がほとんどいなくなりました。その理由は様々ですが、一つはお金が深く関係しているように思います。また目に見えて即効性があり診断できるという便利さもあるように思います。

かつて、紀元前460年前ほどの人物に「ヒポクラテス」という人がいました。この方は、「医学の父」、「医聖」、「疫学の祖」などと呼ばれています。また古代ギリシアで初めて、呪術や迷信を廃し、観察や臨床を重視する医療を開拓した人物だと言われます。

自然を観察するかのように人間や病気の根源を見つめられた方だったように思います。それは彼の遺した言葉からもわかります。

「私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである」

「病気は、人間が自らの力をもって自然に治すものであり、医者はこれを手助けするものである」

「人間がありのままの自然体で自然の中で生活をすれば120歳まで生きられる」

「人間は誰でも体の中に百人の名医を持っている」

「人は自然から遠ざかるほど病気に近づく」

また、病気の原因はほとんどが食べ物から来るといいました。

「食べ物について知らない人が、どうして人の病気について理解できようか」

「食べ物で治せない病気は、医者でも治せない」

「汝の食事を薬とし、汝の薬は食事とせよ」

「病気は食事療法と運動によって治療できる」

「病人に食べさせると、病気を養う事になる。一方、食事を与えなければ、病気は早く治る」

医食同源という言葉は今では知られていますが、2500年前からもずっと今でも病気の原因も治癒の理由も変わっていません。どれだけ科学が進化したとしても、余計なことをして病気を増やしたから病院も医者も増えたわけで人間が人間らしくしていたらほとんど医者も病院も必要ないということでしょう。

現代の日本の病院の数は8000か所以上、薬局は6万か所以上です。薬やサプリばかりを購入する時代になりました。私も反省することが多いのですが、コンビのように便利になった薬に容易に手を出してしまいます。余計なことをしておいて、また余計なことをして病気になりやすい体質にしています。

自然治癒や自然免疫は、今の時代こそ最先端の医療の仕組みになるものです。そういう意味で、お山の力を使って治癒したりあるいはお水の力で予防したり歩くことで未病にしたりと工夫はいくらでもできます。そして薬の字にあるように、身近な薬草を食べることであらゆる病気をうまく調和させていくこともできるのです。

子孫のためにも、今こそ温故知新して本来の自然治癒の素晴らしさを伝承していきたいと思います。

いのちを結ぶ

偶像崇拝というものがあります。ウィキペディアには「偶像を崇拝する行為である。 概説. 偶像という語には「人形」「生贄」「人間 に似せた物」などいくつかの意味があるが、ここでは 木材 や 土 、 金属 など具体的な物質で形どられた像のうち 崇拝的対象 をかたどったものをさす」とあります。

この偶像崇拝を禁止している宗教や宗派はたくさんあります。実際には日本にも仏像などがたくさんありますが、実際には仏陀そのものは偶像崇拝をすべきではないと言っていたそうです。実際に、目に観えないものの方が多いこの世界において目に見えるものにして、それを崇拝するというのは意味がないともいうのでしょう。

しかし実際に何か神様が観える人と観えない人では、そもそも何を言っているのかよく分からないということになるのかもしれません。自然でも感性が鋭敏で自然のあらゆる元氣のようなものを直感的に感応している人もいれば、都会生活が慣れてあまり感覚ではなく知識ばかりで理屈でなければよくわからない人もいます。

人にも色々とあって、その見え方も感じ方も異なるのです。私自身は偶像崇拝というものの見方をしていることはなく、どちらかというといのちが宿っている依り代という感覚で観ています。

古いものをたくさんお手入れするために手で接していると、その物が単なる物体としての物ではなくそこには別の魂のようなものが宿っているのを指先から感じることが多々あります。特に、長い時間人々に愛されてきた道具たちや、職人さんたちが手掛けてきた様々な思いが詰まったもの、それは仏像などの像に限らず建具や椅子などのような暮らしの道具の中にも宿っているのを感じます。また身近では、石ころや巨石、また場所や遺跡などでも感じることができます。そこには目には観えませんが歳月というものが入っているのです。思い出と呼んでもいいかもしれません。記憶のようになりそこに宿るのです。それを思い出すかのように記憶媒体となってそのものに宿るのです。

私たちの肉体をはじめ山川草木なども、何かが宿っているのを感じるのは誰でもわかります。虫が死んで亡骸になっている様子に、そうなる前には何かが宿っていたのを感じるものです。これは魂の依り代ともいえます。宿っているものを感じて、それを祈るのは私は偶像崇拝ではなくいのちの結びだと感じます。

私たちは日々に、あらゆるものといのちを結びます。このブログを書いている今は、ヨモギをお茶にして飲んでいますがヨモギの持っているいのちと結んでいます。祈ることまではしていませんが、美味しく身体も温まり癒されます。これはお水の中にヨモギのいのちが宿りそれを取り入れることで私もヨモギと結ばれているのです。

私は、仏像などもよく拝みますがこれもいのちの依り代としてその場所に宿っているものと結ばれていくからです。結ばれることで私たちはその一部になった感覚を持つことができます。宇宙をはじめ、地球を含め、私たちはありとあらゆるものと結ばれる存在です。

丁寧にその場所やその依り代と接し、お手入れすることはとても仕合せなことです。ご縁を大切にいのちを結んでいきたいと思います。

愛と美しさ~魂の実践者~

昨日は、ご縁あって魂の実践者、サティシュクマールさんにお会いしてお話をすることができました。88歳とは思えない、快活で明朗、そして寛容で柔和な姿にも感銘を受けました。どの言葉も強い波動があり、声から伝わってくる熱意や情熱に圧倒されました。

お話もとてもシンプルでこの世の現実をよく直視しておられ澱みなく真理や真実を語っておられました。またその状況をよく分析し、自分はどう生きるかということもはっきりと伝道しておられます。実践から出てくるその言葉も、深く玩味して一つ一つを丁寧に歩んできた道から得られた知恵に満ちています。

私をご指導してくださったメンターの方々と全く同じように、安心することやお任せすること、今に集中すること、一歩ずつ丹誠を籠めて歩んでいくことなど生き方を優先するうえで大切なアドバイスをしていただきました。

環境活動家とも言われますが、環境活動はその主軸が人間になっています。しかし実際には自然から學ぶ環境活動家こそが本来の地球と一体なっている人間の使命だとも言われます。

私たちの身体の全ては、他の生き物たちと同じ素材と元素でできています。私たちも地球の一部です。そして大地を歩くとき、私たちは足から地球と結ばれています。地球から離れません。地球のものがなければ生きていけないのです。それは地球の循環といういのちの中で私たちも存在しているからともいえます。

そして何かをすることが役に立つのではなく、私たちがそのままであることが真に役に立つことといわれます。一つのりんごの木があり、そのりんごはただそこにあるだけで葉を落とし、根をはり、実をつけ、活き活きと枯れても養分になり周囲の生き物たちや自然に恩恵をあたえ一切の無駄もなくゴミなども出しません。自然は完全無比です。それを私は徳と呼びます。

サティシュさんがいう、ゆっくり味わい、小さく身近なものを大切にし、簡素でシンプル、迷いがない暮らしを生きることは自然そのものの徳の在り方だと私は感じます。私たちは親祖から今に至るまで自然の徳が循環するのを観てその偉大な叡智に救われてきました。

私も今、暮らしフルネスという実践をしていますが、お話の全てに共感するところしかなくさらにこれからも自然に深く真摯に精通していきたいと強い覚悟を持ち直す一期一会になりました。

日本の先人たちが、見つめてきたものを私も見つめる中でさらにそれをこの時代に甦生させて子孫たちへの道を切り拓き伝承していくことにいのちを没頭していきたいと思います。

仲間や同志、ご縁に深く感謝しています。私も、愛と美しさをいつまでも忘れないで最期の日までかんながらの道を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

 

懴悔懴悔六根清浄

私たちは一日に一度、あるいは何度も自分の行いや日常の一言一句や振る舞いを内省することで自分の心を見つめることができます。これは有名な論語の「曾子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」にあるように何度も何度も自分の真心を確認するのです。

そうやって自分本来の生き方を守っていくなかで、本来の自分はどう思ったかと二つの自分と一つに対話をして調和していくことが安心立命の精進になっているということでしょう。

お山での修行の一つには、お山を歩きながら懺悔懺悔六根清浄(さんげさんげろっこんしょうじょう)というものがあります。この懴悔の語源は元々はサンスクリット語(梵語)の「クシャーマ」(耐え忍んで許すこと)からきているといいます。元々は懺摩という言葉が悔やむ意味で、それがそのまま「懺悔」となりました。

悔やむという字はの意味は、自分の行いや過ちに対して心を痛めることをいいます。そしてこの「悔」の字は心臓の象形である「りっしんべん」に髪飾りをつけて結髪する女性の象形である「毎」を組み合わせ、「心が暗くなる」や「くやむ」を意味する会意兼形声文字として成り立った漢字だといいます。

仏教では、僧侶が日々に懴悔し仏様にゆるしを請い、自分の犯した罪を仏の前に告白し悔い改めるときに使われる言葉ともいいます。

もともと懺悔は現代は「ザンゲ」になっていますが、江戸時代中期以降までは「サンゲ」と呼ばれていました。

山伏たちが山歩きをしながら「懺悔懺悔六根清浄」と唱えるのは、自分の日々の行いを振り返り色々な日常で発生してきた罪穢れの数々を見つめ直していると心が痛みます。それをお山の清浄な場において悔い改めて耐え忍んで許していこうという声掛けによって心を清々しく浄化して新たな生に生きていこうとする覚悟の歩みのように私は感じます。

私も、一日の中でつい感情に呑まれそうになり、気分で行動や言動が揺さぶられてしまうことがありそんな時は振り返ると自分の立ち振る舞いを思い出し心が痛み反省します。感情の御蔭で私たちは色々なことを深く味わい今生の精彩を感じることができますが同時に心は静かに生き方を見つめ続けています。その両輪を丁寧に味わい盡していくなかにこそ、本来の自分というものを和合していくことができるようにも思います。

これから二日間、大切な仲間たちと一緒に日子山を歩きます。秋の清浄なお山の元氣をいただきながら、真心と感情を和合する仕合せを味わい盡していきたいと思います。

ありがとうございます。

 

宇宙は無尽蔵

昨日、スリランカから来客がありその方の生き方のことをお聴きするなかで宇宙意識というものがありました。私たちは元々、宇宙と一体になっている、それはこの自分の肉体はじめすべてと結ばれているというのです。

この方は、仏教徒ではありますが宗教色は強くないといいます。つまりこれが絶対として組織を優先し他を排斥することはなく、他宗教の方々とも親しくお付き合いをしています。

NGOを自分で立ち上げ、障碍者や産まれながらに病気や怪我などで苦しむ方々への治療や車いすの提供など、慈善活動をなさっておられます。結婚もして子どもも二人いて、ご自身の生活もありながら自分の食べるものを減らしその分で少しずつ寄附を続けておられるそうです。

中国の債務の罠でスリランカは国家全体が疲弊し、貧富の差は開き、汚職がお金によって蔓延し貧しい方々は飢餓などでも苦しんでいるといいます。特にその中でも福祉が必要な人たちのところに手が行き届かない状態だといいます。

彼になぜ、そこまで慈善活動をするのかをお聴きするとそれは宇宙の意識だからということでした。また自分の生き方として真善美を生きたいということです。自分が善いことをすることはそのまま世界が善くなり、自分も守られるし幸福や幸運を得られるということです。

確かにこれは当たり前の真理です。しかし人間は、欲望に呑まれ他人との比較のなかで自分を見失っていくものです。すると、宇宙意識というものよりも自分の眼先の利益や損得勘定に走り徳を積むことなどを忘れてしまうのかもしれません。

実際に宇宙意識というものが何か、現代は量子力学の研究が進むにつれて潜在意識と呼ばれるものが実際には脳でではなく、脳の管を通して宇宙全体と繋がっているという量子もつれが発生することが分かってきました。意識は脳内だけでできているのではなく、何か偉大な全体意識と常に結ばれて交流しているということ。また脳のほとんどすべては潜在意識で、顕在意識は1~2パーセントだとも言われます。つまり、私たちが知っている最先端の脳科学の情報はこのわずか数パーセントの知識しか解明できていないのです。他の大多数の機能は一体何をしているのか、そこに宇宙意識があると直観するのです。この直観もまた宇宙意識があるからです。

いにしえの仏陀の教えの中に「阿頼耶識」というものがあります。これは人間の全ての感覚の一番深いところの意識です、言い換えれば潜在意識に近いように思います。まず六識というものがあり、それは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、顕在意識です。それに次が、末那識というものでこれは自我意識のことといいます。この世の欲望や自律神経などもその一部です。そしてその全てを含んだ奥にある八識目が阿頼耶識です。

よく考えてみると、直観というものやタイミング、或いはご縁というものはどこからやってきてなぜそれをそうだと感じるのか。それは阿頼耶識や宇宙意識が関与していることはすぐに自明します。もともと、仏教の面白さは現代でいう科学的研究によって理論を組み立てていることです。現代では西洋の科学が本物で、かつての古代の科学はスピリチュアルなどといわれますが私に言わせれば、今でも最先端の科学です。それを別の視点から現代でも科学研究が進んでいるだけということでしょう。

話を戻せば、宇宙意識はこの全体の一部として自分たちが存在している証拠ということになります。これは仏陀に「山川草木悉皆成仏」があり、「山も川も草も木も皆悉く仏に成る」という意味です。その理由は結びとしてすべてのいのちは宇宙の一部であるからということで明らかになります。

宇宙の一部だからこそ、私たちは仏(宇宙)でありこの世に存在するあらゆるものは宇宙そのものであるという意味でしょう。私たちは、宇宙そのものの意識に触れることができるのなら真の心の平和を得られるように思います。比較もせず、自分の真心のままに自分を生き切ることができる。そういう生き方の道の中には、あらゆる宇宙が入っていて宇宙の一部としての役割を果たそうとするいのちがあります。

全体の宇宙(蔵)は無尽蔵です。

スリランカと日本は離れていますが、宇宙は離れていません。意識を常に共にしているのなら、一緒一体にそれぞれの場所で私たちは意識もつれによって真善美に結ばれます。それが私が実践しているかんながらの道でもあります。

子孫や子どもたちがいつまでも宇宙蔵の守護の恩恵が得られるように、丁寧に暮らしを結んでいきたいと思います。

改めて、ご縁に感謝しています。

真の文明

文明という言葉があります。これを辞書で調べると、文明(英: civilization、ラテン語: civilizatio)は、「人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す」こととあります。漢語でのこの「文明」の意味は、「学問や教養があって人格的に磨かれ世の中に開かれ精神的物質的にも豊かになっていること」をいいます。元々のラテン語のcivilization「野蛮な生活の粗野さから回復した文明的な状態」ともいいます。ローマ時代のこの意味は、都市化のことを指しています。つまり野生的なものに対しての人工的な都市のことを文明と呼んでいたといいます。

この文明というものは、4大文明をはじめ世界にたくさん存在していました。そのほとんどは滅んでいますが、この文明とは本当は何かということです。そしてこの文明を考えるときに発生する豊かさの真の意味は何かということです。

現在、一般的に文明人と呼ばれる人たちの特徴は経済的に発展した都市で生活する上流階級の知識層の人たちのことを指しています。逆に、非文明人とは山村の奥に棲むような数千年も同じような暮らしをしている民族のことをいいます。欧米では、帝国主義の時代にこれでもかと文明人が野蛮人を掃討するといって伝統的にその土地や自然と共生してきた民族たちを追い出しあるいは再教育して文明というものを刷り込んでいきました。

電気も使わない、ガソリンもガスも使わず都市社会に参画できない存在を否定してきました。今では、日本の隅々、世界の果てまで人類の便利な機械や道具が行渡っています。そうやって物質的に豊かになって、今度は人口が増えていきました。それを今度は減らそうとして文明人が今度は文明人を掃討しようとする始末です。

そもそもこの文明人の意味は、人格者であるともいえます。明治の文明開化とありましたが、実際には人格開花ではないことはすぐにわかります。明治のころに破壊したそれまでの日本の文化や伝統、伝承はこの文明という言葉によって別の価値観に入れ替えられました。先ほどのローマ文明のように、「都市化」することに集中したのです。

今ではどんな地域の地方でも、東京にあるような店舗が大きな道路の両脇に立ち並び、工業団地をはじめ今では山もソーラーパネルで埋めつくされています。

結局、ローマをはじめ文明が滅んだ理由を調べるとそこにはすべて豊かさのことが関係しています。同じ豊かさでも、何を豊かさとするのかで国の行く末は変わっていくのです。ブータンなどは、国民総幸福度を発展の基準にしています。そこには心の豊かさが欠かせません。そもそも何が人類の本当の幸福なのかということを見つめ調和、バランスを保ってこそ文明を語る資格があるのではないかと私は思います。

私は日本文明の先人たちの暮らしを今でも甦生して、暮らしフルネスを実践していますが足るを知る暮らしや、自然と共生して予祝して全てを天にお任せする調和や和合の豊かさの中にこそ永続していく未来の在り方そのものの姿があると実感しています。それが今の私たちが存在し徳を伝承している証だからです。

子どもたちに遺していきたい未来は一体なにか、現実世界は主義を用いた一部の欲望者による搾取構造の真っただ中であったとしても、決して現実に負けずに人類の真の理想に向かって取り組むことこそこの世に自分が何のために産まれてきたのかを自明していくことになるように私は思います。

子どもたちの未来には、永続を約束されている真の文明を譲り遺していきたいものです。

自然の徳、人間の道

時代というのは、それぞれにそれぞれの課題があるものです。この時代の課題というのは、人間の世界のことです。人間の世界は何度も失敗をして滅んでいます。かつての遺跡を見ていたら、大繁栄した時代もそのうち必ず終焉を迎えています。今もその当時の価値観で繁栄している世界はありません。遺っているのは、自然と共生してきた自然と一体になっている人間の世界だけです。それ以外は、栄枯盛衰を何度も何度も続けています。

現在の時代は、産業革命以降の資本主義が席巻しています。それを変えようなどと言ったら途方もないことをといわれて諦めることがほとんどです。確かに、消費文明を発展させてきたこの百年以上の歳月、もはや空気のように消費することが価値があることとして認識されて価値観が仕上がっています。消費しないことは悪のようにいわれ、消費に加担しない真の生産者たちはみんなお金を得る機会が失われていきました。そうすることで循環者たちもいなくなりました。まさに時代は、資本主義が成熟した繁栄発展の真っただ中です。

しかし、これもいつまでも続くことはありません。栄枯盛衰があるように必ず滅ぶ時がやってきます。問題はそれがいつなのかということです。今、急に変わるということはないでしょう。よほどの天変地異や世界大戦などの破壊、あるいは宇宙からの別の何かの襲来など期待するくらいしか考えられません。しかし、実際には長い年月を歴史の視点で眺めてみるとそのうちあと100年もしないほどにもうこの価値観は消えて別の何かになっているはずです。

その別の何かというのは何か、それは今の人たちが静かにそれを実現する準備をはじめているのです。世の中全部を丸ごと一気に換えるというのは必要ありません。自分の足元で自分のできることで理想を信じて実践していけばいいのです。

私はそれを暮らしフルネスと徳積循環という実践で続けています。現実には、アニメの物語のように今の体制を変えるほどの大それたことはありません。しかし、長い歳月をかけて先覚者や先達たちが普遍的な道を歩んできたように、いつの日かその時代が来ると信じて道を切り拓いていくのです。

自然がいつまでも地球から失われないように、決して自然の徳は失われることはありません。あらゆる姿に形を変えて道が続いていきます。人間の時代は、一つの一生ですから気づいて変わるかどうかが私たちが試されているということでしょう。

そういう意味で、気づいていく機会はこれからもたくさん訪れます。特に子どもたちはその機会に恵まれていくはずです。そんな時、一つの選択肢として一つの別の生き方があること、あったこと、今でもあることをどう遺していくかが私たちの世代の使命と責任になるように思います。

ある意味、どうしようもないことは無理しても仕方がないので気楽に愉快に全てを天にお任せして自らの道を予祝しながら歩んでいきたいと思います。

どの時代にも遠くを観て、今を生き切る同志に励まされます。ありがとうございます。

 

徳の一眼

昨日は、徳積堂の十三夜祭を無事に開催することができました。御蔭さまで雨の予報が見事に夜は晴れて美しい月を眺めることができました。特に雲の切れ間からの安らかな光や、雲越しの月の虹の神々しさには深い美しさを感じました。

私たちは父や母など、あらゆるものに見出していきます。昨日の美しい月はまるで母のようでしたが、私たちは海を母とも呼び、また母なる大地とも呼びます。母というのは、あらゆる自然の中にありその母を見出すとき私たちは懐かしい何かを感じています。

十三夜には何か、懐かしいものを感じるのは私だけではないはずです。昨夜は収穫を祝い、感謝してみんなで豊かな実りを味わいました。その時に、得られる安堵感は特別でした。

私たちは秋の実りがあるから冬を越せます。春から夏と、自然の恩恵を得て食べ物が得られることを如何に喜んでいたか。そしてこの秋に、実りがあって収穫したものがあることにどれだけ安心して仕合せを感じたか。夜空を見あげれば、美しい月が出て、それまでの苦労を見守ってくださっている清々しい姿に観音様のような存在を感じたのかもしれません。

今では、何でもお金なのでお金があるかないかで実りを感じています。しかしかつては、自然と共生し自然の恩恵の一部をいただいて暮らしていましたから食べ物があるかどうかが何よりも重要なことでした。それは大変ではありましたが、人間も自然と一緒一体になって生きてきていた時代ともいえます。

自然と共生するのは深い安心があるものです。この安心感は、自然のリズムで共に生きる仲間たちやいのちが循環していることを感じていたからのように思います。まるで、子どもが安心できる父母と共に暮らしているように私たちは自然を父母として共に暮らしていくなかに真の安心を得ていたのでしょう。

厳しい自然と慈しむ自然、子どもはこの厳父と慈母の中にあってこそ安心してすくすくと健やかに育つことができるのでしょう。

今年の十五夜祭も十三夜祭も、そんな自然への感謝に満たされた豊かな暮らしになりました。忙しい日常だからこそ、心はいつも自然のリズムでありたいものです。

慈しみの母の月を感じるほどに徳が循環する世の中にまた一歩、前進していける仕合せを味わえます。一眼は遠く歴史の彼方を、そして一眼は脚下の実践をと真摯に徳の一眼を精進をしていきたいと思います。

月の徳 十三夜

今日は、徳積堂で十三夜祭をします。生憎の朝から雨で、果たして月がどうなるのか、ここ数日間ずっと月待ちです。しかしこの月待ちという心の中には、豊かな風情があります。月をじっと待つ心境は、どこかなるにまかせた気持ちがあったり、夜の中の見守りに対する安心、また一期一会の出会いへの感謝などがあります。

平安時代、宇多天皇の世くらいからこの十三夜ははじまっているようですが私はこの後半の月の方が懐かしさを感じます。十五夜から十三夜までを月待ちするのも、暮らしフルネスの風情の一つになっているからかもしれません。

むかしの人たちは、この十三夜をどのように感じていたのか。私が尊敬している西行法師にはこういう和歌が遺っています。

「雲きえし秋の中ばの空よりも月は今宵ぞ名に負へりける」(西行法師)

確かに、十五夜は雲一つない眩いばかりの満月でしたが、十三夜はどこか雲に隠れたり雨の影響があったりと弱弱しい中でも美しく煌びやかな様子に風情があります。また十五夜は男名月といい、十三夜は女名月ともいいます。この「十五夜」の月と「十三夜」の月をあわせて「二夜の月」といって両方の月を同じ場所で見ると縁起が良いと伝承されてきました。

そしてどちらもお月様に感謝して収穫を祝うお祭りでした。十五夜は芋名月で芋三昧でしたが、十三夜は豆や栗などをお供えする豆名月、栗名月ともいいます。なんとなく、十三夜のお月さまの方が、豆や栗のような感じがするもの不思議です。

むかしの先人たちは、見立てによってあらゆる月を連想しそれを味わったのでしょう。今日は、夜は雨なら様々なものを月に見立ててみんなでこの十三夜を味わっていきたいと思います。

最後に松尾芭蕉はこういう和歌を遺しています。

「夜竊(ひそか)に虫は月下の栗を穿(うが)つ」

今年は栗がたくさんあり、お供えしていますが虫たちもたくさんいます。人間だけでなく、みんなでお月さまのもとに集まり分け合いながら月の徳を循環させていきたいと思います。