講という信仰

この二日間、大阪で歴史のある修験道の講のお手伝いをする機会がありました。英彦山を先導して歩き、私が感じる信仰の場所をご案内し共に修行し、共に笑い、共に食べ、共に歩き、共によき時間を過ごしました。

私は講というものは、三浦梅園先生の慈悲無尽講から学んでいましたが実際に歴史のある講の方々をご接待することで講の本質を垣間見ることができました。

そもそも修験道とは何かということにおいては、験を修める道とありますから読んで字の通りでしょう。では講とは何かということです。私は、この講とは別に「結」というものを宿坊の茅葺の葺き替えで学びました。宿坊は、機械や重機など何も入れないような場所にあるので200人の人の手でみんなでバケツリレーのようにして2000本ほど萱を運びました。みんなが力を合わせて助け合い生きていく仕組み、まさにそこに結の智慧を感じました。

この結に近いものがあるのが講ですが、講の方がもっと強い信仰を持っているように感じます。現代では、推し活動(おし活)というものがあります。先日も、ある若いピアニストをみんなで推して支えようと活動をしている人とお会いしました。その方々はそのピアニストのために全力で推して経済的にも精神的にも全身全霊で応援して支えておられました。各地のコンサートには駆けつけ、練習風景はSNSで発信し、まるで家族の一員のように見守っていました。

信仰というものは、人間が生きる支えになるものです。信仰があるから人は元氣になり、若々しくも瑞々しくもなり青春をし続けていきます。まさに信仰とは、好きであることです。

好きなことがあることは、人生を真に豊かにします。それは好きな人いることでも同じですし、好きなことをしている人も同様です。好きなことが同じ人が集まると、そこには自由闊達な集団が誕生します。

本来、無理をして組織などつくらなくても人は好きなことで集団をつくるものです。私の周りには、左官集団などの伝統職人集団や、音楽関係集団、波動を学ぶ集団、またあらゆる分野のオタク集団があります。どの集団も、自然発生的に集まっていてとても自由です。そして同じ目的で集まった人たちは、共感しあい助け合う場ができます。

時代が変わっても、人の本質は変わりません。

暮らしの中で信仰があること好きなことがあることはとても仕合せなことです。私もあまり現代の組織論や集団、外部から評価される信仰や宗教などに惑わされず、好きに遊行を生きていきたいと思います。

ありがとうございます。

暮らしが神事

昨日は、夏至祭を行いました。宿坊をはじめその周辺の片付けをし、場を調えました。宿坊周辺は、先日の暴風で枝木や落ち葉が散乱して大変な荒れようでした。いくつかの場所では落石もあり、直系80センチほどの丸い岩が上から転がっている場所もありました。また古くなった大木も折れていたりと、自然の間引きとその威力にはいつも驚かされます。お山が大きいのと放置期間が長いため、片づけても片づけても片づけることばかりです。

古木の守静坊のしだれ桜が心配でしたが、一つも折れている枝がなく旺盛な葉をつけてはいまずがしなやかに風をいなしたのでしょう。桜とは一緒に見守り合う関係になってはや4年目ですが、植物や木々はとても正直です。お互いに思いやれば、それに応え合います。この世は、関係性によって信頼が生まれ、そして信用や信仰が醸成されます。

信じあうということや、見守り合うということはお互いが「信じる」という絆を持つために大切な行為であり人間の徳の原点かもしれません。

現代、信仰というとすぐに宗教を思い浮かべます。しかし私は真の宗教は、暮らしや文化、生活習慣に渾然一体となって根付いているものではないかと感じます。例えば、食事の時に感謝で手を合わせることや、お互いにご挨拶をしてお辞儀をすること、お布団を畳んだり、靴をそろえたり、またはもったいないやありがたい、おもてなしなどの日々に使う言葉の中にも信仰を感じます。

信仰というと、何が正しくて何が正しくないかなどすぐに対立構造や両義性ばかりが語られます。お互い様や御蔭様というものがなければ、世界の紛争や戦争はなくなることはありません。個人のレベルでさえ、人間は欲望や煩悩、権威や権力、お金の力によっていつまでも禍根を増やしていきます。

本来、それぞれが日々に丁寧に自分自身の暮らしを調えていく中で信仰の実践をしていればそこに禍根や争いは発生せず、お互いに心穏やかにいられるものです。宿坊周辺を調えたあとは、土地や場所、お山の神様、そして太陽に深く祈ります。ご供物を捧げ、いただいている恩恵や恩徳に感謝します。ご先祖様に御礼をして、お水をはじめ火や土などの精霊にも感謝します。夏至の太陽の光は、雲に隠れて穏やかでしたが確かに太陽の見守りを感じてみんなで喜びを分かち合いました。

優しい光と風が吹き抜けて、心身が調うのを実感しました。有難い静かなひと時は、いつも日常の暮らしの中の一期一会に存在します。

また沈んでいく太陽を眺める間は人生を振り返ることに似ています。この一日をどのように過ごしてきたか、どれだけたくさんの存在に助けられているか。美しいもの、善いもの、循環する徳に包まれていることなどを深く感じられます。

畢竟、私が人生で取り組んでいるのは、暮らしの中の神事です。そもそも暮らしが神事なのです。その神事は宗教ではなく、まさに暮らしそのものを神事のように生きることです。暮らしフルネスは、暮らしを神事として実行し実践することです。

今日は、これから新たな田んぼで仲間たちとお田植祭です。伝承してきた古来からの祝詞をみんなと一緒に捧げ、唄いながら、笑いながら、田んぼの元氣をいただきながら一日を暮らします。千葉の田んぼや一緒に生きる仲間たちのことを思いながら稲を一本、一本手植えしていきます。

忙しい日々の中でも、太陽や月や土を忘れず丁寧に暮らしは誰にでもできます。

さあ、これから準備万端、田のかみさぁと英彦山ガラガラをもって田んぼと遊びます。

おめでとうございます。

杣と仙

山のお手入れをする人たちを「杣」(そま)と呼びます。この杣という語はもともと木を植え付けて材木をとる山そのものという意味になります。

古来から人間社会において建築用の木材が大量に必要なときに、木を伐採する必要があります。そのためには、その伐採するための重要な木材を管理する場所が必要です。それを「杣山」(そまやま)といいました。

そこで採れる木を杣木(そまぎ)といい、その杣によって生業とする人たちと杣人(そまびと、そまうど)と呼びました。

この杣は、古来よりお山を守る大切な生業の一つでした。自然と共生し、お山の暮らしを支えた大切な存在です。樵(きこり)とも呼ばれますが、神様が宿る依り代としての木を尊敬し丁寧に扱い、お山のお手入れを通してお山を中心にできた地域の伝統的な暮らしが穏やかに伝承され安心できるようにしてきました。今ではその存在はほとんど見かけません。お山は放置されるか観光地化しゴミを捨てる人たちによって汚れ、荒れ果ててここ数年の水害で土砂崩れが頻発しています。お山で暮らすのは、金銭的にもできないということでお山を捨てて都市に移動した結果、杣人もいなくなりました。当然、山伏などもほとんど暮らしていません。

現在、私も英彦山の守静坊からお山のお手入れをしていますがまるでやっているのはこのかつての杣人と同じです。かつての杣人たちは、霊峰や杜のなかで暮らし、木々や森林資源を活かして生活していました。お山と一体になっていたのです。

枯れ木や倒木を片付けて燃料にしたり、木材を加工して生活文化に必要な道具をつくったり、炭焼きや薬草の採取などお山で自然と調和する暮らしを守っていました。その調和する暮らしそのものが、自然への畏敬や感謝に溢れておりそれが地域の伝統文化や行事、神事、そして智慧を守ってきました。それを山岳信仰と呼ぶのでしょう。

現代では区別や分業化が進み林業となって、お金のための森林伐採がメインになっていますがかつての杣人たちはお山の仙人のような風格があったようにも直感します。

お山にいるとお山の恵みを感じない日はありません。美しく澄んだ空氣に、清らかなお水、またあらゆる動植物や昆虫まで多様に活き活きと生活をして循環を支えます。このお山の恩恵を大切に見守っていこうとするのが杣人、そして仙人の役割ではないかと私は思います。

私が今、取り組んでいるお山の甦生はまさにこの杣人や仙人の暮らしを甦生することです。すでに薬草が増え、炭焼き、法螺貝づくり、お山のご神木を見守る神事や山岳の智慧の伝承など活氣づいています。

子孫たちに如何に自然の恩恵を譲り渡していくか。現代文明が終焉に入り、歪んだ物質至上主義の世の中もちらほらと綻びはじめています。コロナをはじめ感染症の背景にあるもの、食料危機という名の拝金主義、田んぼを農薬で汚し新築ばかりを建てては智慧を捨てていく現状。

子どもたちのためにもそろそろ氣づいて行動していく時節ではないかと私は思いますが皆さんはどう思われますか?

暮らしフルネスと私が提唱のは、むやみに危機感を煽りたいのではなく本来は暮らすだけで仕合せだった古来からの智慧に原点回帰した方が喜びも仕合せも増えますよという意味でもあります。みんな自然と共生していたころの懐かしい未来に憧れていたものです。いつの時代も心の豊かさは自然との共生の中にこそ存在します。

杣から学び直し、仙からやり直していけたらいいですね。

 

日子山仙螺

私の手でつくる鳴動法螺貝の数も次第に増えてきました。一つ一つにいのりといのちを籠めてつくりますが、どの法螺貝にもその法螺貝の音や徳性がありその波動や鳴動には感動するばかりです。

英彦山の守静坊で、弁財天と英彦山三所権現、瀬織津姫や造化三神に供物を捧げ法螺貝を安置して祈祷します。そのあと、全てが調ってから唄口を合わせて調律し唯一無二の鳴動法螺貝をつくりこみます。

一つつくるのにかなりの心身のエネルギーを使うので、大量生産はできません。しかし、一つできるとその鳴動は持ち主の人生を守ります。

かつて法螺貝は、龍の一種であり貝の中には龍が潜んでいると信じられていた伝承があります。龍宮に棲み、海の中で寿命を全うしその後に鳴動し昇天するものとして信じられてきました。つまり、龍の抜け殻ともいえます。そこから雨乞いや水に関係する神様として様々な厄災を祓い清め、その振動によって様々な病気などを快癒していったともいわれます。

現代の科学では振動するものや周波数、また波動が場や身体に影響を与えることが少しずつ解明されてきました。

この法螺貝の神秘は、まさにいにしえの伝説の龍と深い関係があるのです。

私が手掛ける法螺貝には命名をすることにしました。

その名は「日子山仙螺」(ひこさんせんら)です。霊峰日子山の場でいのり法螺貝を甦生させ、仙人の霊力を持つ貝にしていこうという覚悟からです。

お山の暮らしを丁寧に守り、場をととのえ、縁者たちのいのちを仙人のお山から見守ることは徳を磨くことにもなるでしょう。

法螺貝が人一人を変え、そして真の平和な時代をつくることを信じて一つ一つ真心を籠めて手を入れていきたいと思います。

道徳とは何か

この二日間、仲間と共に遊行を行いました。中国や台湾からの方も参加して、お山を歩き、いのりを味わいました。一期一会のめぐりあわせに豊かさと仕合せを感じました。

人はそれぞれの道をそれぞれに歩むものです。

しかしその時、一瞬のズレもなく絶妙に出会います。お互いに必要なタイミングで最幸の瞬間に邂逅するのです。それをご縁ともいいます。ご縁は、人とだけではなく場とも出会います。天候、光の加減、星の運行、つながる歴史、とても書ききれないほどの膨大な奇跡の連続です。

それを感じて生きる人は、常に一期一会の生き方をしているともいえます。そもそも修験道をはじめ、すべての道は生き方のことです。どのような生き方をしているか、その実践や実践者たちの背中には學びの原点や根源があるものです。

そしてそれは同じ場、同じ時、同じご縁を味わい盡す時にこそ顕現するものです。

道をどのように歩むのか、それが學ぶということの本質です。

そして徳というのは、その歩み方のなかで何を最も大切にするかということです。

例えば、素直であること、謙虚であること、正直であること、思いやること、助け合うこと、真心でいること、心身を清め続けることなどが徳になります。

道徳というのは、本来は言葉や単語で理解し説明するものではなく実践を通して學び続けていく人間のいのちのいのりです。

いのちのいのりには、答えはなく生き方があるだけです。

生き方を學ぶ人たちが、いつの時代にも道を結んで螺旋のように歩んでいきます。

一期一会は、真の幸福の道ということでしょう。

このまま丁寧な暮らしを続けて、最期の瞬間まで人間らしく生きていきたいと思います。

お水の権現

今朝はBAの前にある鳥羽池(八龍権現池)には冬の風物詩でもある蒸気霧が発生しました。ここ数日の寒さは特に厳しく、この桜の時季に初冬の景色が重なりとても幻想的です。

毎朝、この場から八木山の龍王山と合わせてこの八龍権現池を拝んでいますがこの蒸気霧は一期一会です。この霧の特徴は冷気が温かい水面上に流れてきたときにできる霧で発生条件も空気と水の気温差が15度以上あり風があまり吹いておらず晴れていることが必要です。

よく考えてみると、私たちはお水に包まれてはじめて暮らしていくことができます。地球もお水に包まれ、自然も身体もお水に包まれます。お水はあらゆる形に姿を変えては常に循環を已みません。このあらゆる姿は決して雲や霧のような水蒸気や海や川などの液体のようなものだけではありません。ある時は、花になり、ある時は虫になり、またある時は菌になり、ある時は石などの物体にもなります。そして雪になりお湯になり、光にもなります。

今日は私の誕生日で人生を振り返っていますがこれまで道のりもまたずっとお水に守られてきたものでした。辰年の辰の刻に産まれ、龗神の多田の鎮座する妙見神社のお汐井川で遊び、氏神様でお水の親祖でもある水祖神社の境内で育ちました。大切な人生の節目は、お水の関係することばかりに導かれました。気が付くと、お水の湧くお山を守る活動をするようになり、井戸も5本ほど甦生させていただく機会に恵まれました。ここ数年では、滝行をはじめ石風呂サウナをつくりこれから薬草蒸気風呂の甦生に挑みます。日常では鉄瓶で炭火で沸かしたお湯を飲み、よく蕎麦打ちをして蕎麦を食べています。邸内社や自宅、宿坊のお供えのお水を換えることは欠かしません。

有難いことに、生まれてからこれまでずっとお水に見守られてきた人生でした。

この見守ってくださっているお水のことを私は総称して「龍神」と呼びます。

龍は単なる蛇のような鰐のようなドラゴンではなく、私たちのいのちの本体、「いのちのお水権現」です。

そしてお水は、自分の意識次第でどのようにも波動が変化します。変化の象徴もまたお水であり、あらゆるものに姿を変えることができ常に寄り添い離れないものもまたお水です。

誕生日を迎えた朝、鞍馬山の恩師の言葉を思い出しました。

「お水さんありがとう」

これからも残された刻をみおやの龍神と一緒に修行を続け、太古のむかしからの生きた智慧の伝承を子孫へと結んでいきたいと思います。

聴されて聴く

徳の真髄の一つに「聴されて聴く」というものがあります。この聴く(きく)は、聴す(ゆるす)とも呼びます。私は、聴福庵という庵を結び、聴福人という実践をしています。この実践は、あるがままを認め尊重して聴くという意味と共に自然にゆるされているという徳が循環するいのちを聴すというものです。

私が創造した一円対話という仕組みは、この聴く聴すという生き方をみんなで一緒に取り組んでいこうとしたものです。

そもそも私たちのいるすべては分かれているものはありません。人類は言葉の発明から文字が誕生し、文字を使うことで複雑に無限に分けて整理していくことで知識を得てきました。本来の言葉は、言霊であり精霊や霊性、つまりは自然あるがままでした。

自然からいのちや霊性を切り離して分析し、単なる物質や知識として認識することによって私たちはこの世の仕組みや真理を分かるようになりました。しかし同時に分かることによって本当のことが分からなく、あるいは分かった気になるようになりました。この分けるという手法は、分断の手法です。本来、和合したものを分けて理解する。しかし分けたものは元に戻りません。なぜならそもそも分かれていないものを分けているからです。そのことで、人類は争い続け、お互いを認め合えず尊重できず苦しみや憎しみが増えていきました。

例えば、ご縁というものも分かれていたり切れるものではありません。最初から永遠に結ばれ続けていてあらゆるご縁の導きによって今の私たちは生きています。つまり最初から分かれているものはこの世には存在しないのです。それを仏教では、羅網という道具で示したりもします。私はそれをブロックチェーンや自律分散の仕組みで示します。

私がこの聴すという言葉に最初に出会ったのは、高田山にある親鸞さんの手帳のメモ書きです。そこには、「しんじてきく、ゆるされてきく」と書かれていました。

これは何をいうものなのか、全身全霊に衝撃を受け感動し、そこから「聴」というのを真摯に深め続けて今があります。この聴は、聞くとは違います。徳に耳があります。よく自然や天や自分の内面の深い声を聴くことを意味します。

人類が平和になるには、聴くことです。聴けばほとんどのことは自然に解決します。何かきっと自分にもわからない深い理由があると心で認めるとき、お互いを深く尊重しあうことができます。それが「聴す」なのです。

私の故郷にある聴福庵には、その聴で溢れています。そして徳積堂では、その聴福人の実践、一円対話を場で実現しています。

百聞は一見に如かずです。真剣に対話に興味のある仲間は訪ねてほしいと思います。

最後に、「聴福人とは聴くことは福であり、それが人である」という意味です。

子どもたちがこの先もずっと人になり幸福を味わいゆるされていることに感謝して道を歩んでいける人生を歩んでいけることを祈ります。

例大祭と5周年

久しぶりの大雪のなか、御蔭さまで無事に例大祭と徳積財団5周年記念を開催することができました。真っ白に光り輝く風景のなかで、美しい奉納音楽や神楽舞、祈りの時間は心に深く遺る有難い時間になりました。

思い返せば、何もなかったところからはじまり今ではたくさんの仲間や同志に恵まれています。それぞれに無二の役割があり、天命を全うするために徳を磨いておられる方々ばかりです。時折、道を生きる最中に場に立ち寄りその努力を分かち合い、苦労を労い合うことは心のエネルギーを充足させます。何かの偉大なものに見守られていると実感する場には、お互いを深く尊重しあう安らぎや元氣があります。

一人一人がそのような安心で健やかな元氣に充ちれば心も解放されます。心を解放していくことは、心を喜ばせていくことです。真のおもてなしというのは、心の解放があってこそです。

この例大祭は、みんなで協力しあっておもてなしの準備をはじめます。同じ釜の飯を食べ、綺麗に場を清め、静かに穏やかに暮らしを調えます。真っ白な雪の中、妙見神社のお汐井川に若水を汲みにいき、桜の薪に炭火をいれて火を熾します。その火を竈に移し、前日からお祓いして汲んでおいた井戸水を鉄鍋にいれてじっくりと昆布や高菜を煮出していきます。直来は、白いものとして御餅や素麺等、そして福茶などご準備します。

自然の恵みと薫りに包まれた仕合せな時間です。

祝詞にはじまり、岩笛、法螺貝、篠笛、そして鈴に太鼓と懐かしい音に包まれます。龍の舞に音楽、お祭りも賑やかで弥栄な一日でした。恵方も偶然にも、龍王山や龍神池、そして神社の方角にピタリと合っていました。5周年でしたが、またこの恵方になるのは次回は5年後の10周年の時です。周期の豊かさも味わう有難いひと時でした。

人間は見守り見守られるという感覚をお互いに持つことで自然と一体になっているかのような同じような安心感を得ていくものです。安心感は徳を活かしいのちを輝く場を創造していきます。どれだけ安心感の種を蒔いていくか、安心の場こそ懐かしい未来であり心のふるさとです。

これからも子どもたちに先人の生き方を譲り遺せるよう精進し、道を確かめ道を手入れし、真の人間らしさや人間性を高める場を弘げていきたいと思います。

 

 

人間らしさと人間性

スリランカから帰国して少しずつ道中の振り返りをしています。頭で理解するよりも体験から気づいた量が多いとそれを消化吸収していくのに時間がかかります。身体で得た感覚は、思想だけでなく価値観も変化させていきます。自分の変化が気づきそのものですから、何が変化したのかを振り返ると何に気づいたのかがはっきりするのです。

そもそも今回の旅は、ルーツを辿る旅でした。原初の仏陀をはじめ、神話からの人類の伝承を確認するためのものでした。その理由は、原点回帰をするためであったことと、温故知新してあらゆる複雑なものをシンプルにして甦生させていくためです。

徳積の起源であったり、暮らしの根源であったり、普遍的な大道の再確認であったり、そして新たな遊行の一歩を踏み出すことであったりと理由は様々でしたがそのどれもが存在している懐かしい旅でした。

原初の存在とは何か、それは人間らしさです。別の言い方だと人間性ともいいます。もっと言えば、人間とは何かということです。

今の人類は、人間らしさを失っているように思います。人間性というものもまた意識することはありません。しかし、今こそ私たちは徳に回帰し人間性を回復させる大切な時節を迎える必要があるのではないかと私は思います。

ワニアレットの長老をはじめ、スリランカでは人間性の美しい風景をたくさん見ることができました。そこには確かな人間らしい暮らしがあり、そして人間らしい生き方がありました。

お金やビジネス、富の独占や情報化、便利化など人間性を失うリスクに直面してももはやそんなことをどうでもいいかのように日常に多忙に流されていきます。私は決して文明の発明は悪だとは思っていません。しかしそのことにより人間らしさや人間性を喪失することは、真の豊かさや仕合せを手放す結果につながっているようにも感じるのです。

人間はこの地球に生きることを許され、自然と共に寄り添いながら一緒に天寿を全うする仕合せをいただいている存在です。この奇跡はなにものにも代えがたく、人間であることが最幸の歓びです。

人間が人間らしくあるとは一体どういうことか。それは人間が人間性を失わずに生きているということです。人間が人間性を失えば、それは生きた屍であり、希望をうしなった人形のようなものになります。人間らしさや人間性は、私たちがこの世に「生きている」という証明であり実感です。

生きている実感は、日々の暮らしや徳を積む中に存在します。だからこそ、私たちは文明とのバランスを真摯に保ち、人間らしさや人間性を失わないような生き方をこの時代でも実践していくことが平和や共生や自然との循環を保つ最大で最高の唯一の方法になるのでしょう。

私たちが今生きているように子どもたちも未来を生きます。その子どもたちがいつまでもこの世の幸福を謳歌できるように、今の私たちがどのような生き方を実践していくのかは方向性を決める最も大切な真理です。

人間らしさ、人間性をどう磨いていくか、それは私たちが決めます。

これから引き続き暮らしフルネスを通して真心の丁寧な暮らしを積み重ね、徳が循環するような布施と托鉢の遊行をさらに巡礼していきます。

一期一会の仏縁と地縁に感謝して、私の天寿を全うしていきたいと思います。

波動を調える

今年一年を振り返って見ると御蔭様で新たなご縁に恵まれてとても充実した一年になりました。その「新たな」というのは、「新たな意識で出会ったご縁」ということです。ご縁は自分の波動や意識が大きな影響を与えています。日頃の暮らしで何を観て何を考えて何を食べてというように、自分が日々に調えている波動や意識によって出会うご縁も変化します。

例えば、霊峰英彦山の宿坊に棲み静かに光や水の音に耳を傾け空気を深く吸い込み静かに座禅をしているとお山の気配を感じます。お山の気配とは、お山の呼吸のことです。その呼吸に自分も一緒に包まれていると、そのお山の波動になっていきます。

すると、それまで見えていた景色が変わり今まで観えなかったものが観えてきます。同時にあらゆる感覚が変わり、刻の流れや場の雰囲気すら変わります。場がその波動を調えて変えていくのです。

何だかスピリチュアルな話だと思われそうですが、実際に人間の身体感覚というのはどこまででも鋭敏になります。直観というものもまた、鋭敏な神経が見事に波動と調和して事前に洞察させたり感得させるように思います。シンクロニシティやテレパシーなど超能力のように閃きが迸ります。

話をご縁に戻せば、それだけご縁というのは次元を超えてあらゆる波動と巡り会っているということでしょう。そうして暮らしていると、似たような波動の人たちが集まってきます。さらに深く言えば、同じ身体感覚や神経を研ぎ澄ませて鋭敏にしているような仙人のような人たちと出会うのです。

仙人というのは、単なる能力が秀でた俗世から距離を置いた人として解脱したような存在と思われていますが実際にはそうではありません。当然、波動を高め徳を磨いていますから人間として深い魅力があり思いやりを持ちます。同時に、生き方を見つめ、生き方を優先していますから道を一人歩んでいます。

有難いことに仙人苦楽部を続けていると、よく仙人に出会います。そして私も仙人のような暮らしに近づいていきました。私たちは誰もが仙人としてのポテンシャルを秘めています。それが開花するかどうかは自分の波動をどうするかに由ります。そしてその波動を調えるのに暮らしの改革が必要です。別に仙人になったら何かいいことがあるのか、便利な何かがあるのかと思われるかもしれませんがそんなものはありません。

ただ仙人は、お山であればお山がどう生きて自然を守り豊かないのちを育んでいるのかを察知でき喜びを深く味わえます。また伝統的な先人たちの智慧に包まれ仕合せを深く味わえます。つまり永遠に豊かな心で生きていくことができるように思うのです。

好奇心というものもまた、仙人たる由縁の一つです。来年も、好奇心を存分に発揮して原初の道を求道し丁寧な暮らしを実践し波動を調え、新たな出会いを大切にしていく一年にしていきたいと思います。

今年も本当にお世話になりました。改めて感謝申し上げます。