捨聖の甦生

空也上人の生き方に憧れて遊行を実践した人物に、一遍上人がいます。この人物は鎌倉時代の方ですから空也上人が逝去されてから270年後の人物になります。一遍上人特に止住する寺をもたず、一生涯全国を巡り、衆生済度のため民衆に踊り念仏をすすめ、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、捨聖(すてひじり)といわれた方です。

その一遍上人が門人への説法で空也上人がどういう人物であったかを語られています。そこには、こうあります。

「また上人、空也上人は吾が先達なりとて、かの御詞を心にそめて口ずさび給ひき。空也の御詞に云(いわく)『心無所縁(中略)譲四儀於菩提《心に所縁なければ、日の暮るるに随つて止まり、身に所住なければ、夜の明くるに随つて去る。忍辱の衣厚ければ杖木瓦石を痛しとせず。慈悲の室深ければ、罵詈誹謗を聞かず。口に信(まか)する三昧なれば、市中もこれ道場。声に随ふ見仏なれば、息精即ち念珠なり。夜々の仏の来迎を待ち、朝々最後の近づくを喜ぶ。三業を天運に任せ、四儀を菩提に譲る》』と。

木造空也上人像にある、口から迸る六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)の実践とはこのような遊行の姿を示されたことがわかります。暮らしの中で、生き方として念仏の生き方を実践されたことが何よりも尊いと感じます。遊行のなかで如何に暮らしの徳を磨いていくか、まるで仏陀のような生きざまに感銘を受けます。

またこうもいいます。

『求名領衆(中略)更盗賊怖《名を求め衆を領すれば身心疲れ、功を積み善を修すれば希望多し。孤独にして境界なきにはしかず。称名して万事を抛(なげう)つにはしかず。間居の隠士は貧を楽とし、禅観の幽室は静なるを友とす。藤衣・紙の衾はこれ浄服、求め易くして、さらに盗賊の怖れなしと》』

閑居で暮らせば貧も楽しく、座禅のように暮らせば静寂であることが仕合せである。シンプルな衣装や紙の袋は手に入りやすく清浄である、それに盗賊に奪われるものもないとあります。

「上人これらの法語によりて、身命を山野に捨て、居住を風雲にまかせ、機縁に随て徒衆を領し給ふといへども、心に諸縁を遠離し、身に一塵もたくはへず、絹帛の類を膚にふれず、金銀の具を手に取る事なく、酒肉五辛をたちて、十重の戒珠をみがき給へりと云々。」

このように空也上人は、いのちは山野に捨て居住を持たず云々とあります。つまりは、色々なものを手放してそぎ落とされて顕現した徳そのものの姿があったように思います。

今の時代でも空也上人のような生き方ができるでしょうか。この時代のことに思いを馳せてみると、政治的な宗教が盛んな世の中で民衆の中で何も持たずにただ遊行している姿で歩んでいく僧がいる。

文字も読めず学識もそんなにない民衆に、さらにいうなら言葉も異なり地域の特殊な文化があるなかで普遍的な徳の生き方を伝道し伝承していく、ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけでいいと。そして上記のような、六波羅蜜の姿を体現してみせること。

そぎ落とした先にあったのがこの念仏だったと思うと、今の時代でもこれはとても大切なことがわかります。知識をつけて、みんな言葉も文化も理解している世の中ですが苦しみは相変わらず増え、さらに執着や欲望や争いは際限なく拡大を続けています。

手放したりそぎ落としていくというのは、私の言葉では「磨く」といいます。磨いてシンプルにしていくことは、足るを知る暮らしを甦生することになり一人一人が徳に目覚める生き方になっていくように思います。

先人の遺徳を偲び、その道を後から踏みしめながら道を甦生させていきたいと思います。

 

遊行の源流

暮らしの中の遊行巡礼をはじめると、空也上人とのご縁が出てきました。もともとこの空也上人という方は平安時代中期に活躍した念仏僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも呼ばれています。生れは延喜3年(903)とされ、醍醐天皇の皇子とも言われています。

もともと空也上人は、「優婆塞」と呼ばれ、「俗聖(ぞくひじり)」とも呼ばれていました。得度しても僧名の光勝を名乗らず自らは空也の沙弥(しゃみ)を名乗っていたといいます。

「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路や橋、井戸や寺院をつくり町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝承されています。そして遊行のありさまは絵画や彫刻にあるように短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持ち行われていたといいます。この遊行の鑑のような生き方をなさっておられた方でその後の一遍上人などにも多大な影響を与えています。

有名なものに木造空也上人立像があります。死後250年以上経ってから制作されたものですがまるで、目の前にいるかのような一度見ると忘れられない像です。これは運慶の四男 康勝の作といわれます。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで遊行する姿です。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられています。

これは「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、空也上人が阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているからだといいます。

六波羅蜜を遊行を通して実践し、それがその時代の人々の心を癒し苦しみを安らげ、心魂を鎮めたのかもしれません。

また私は鞍馬寺に深いご縁がありますが、空也上人が鞍馬山に閑居されていた話も知りました。その閑居していたときに、いつも鳴いている鹿を愛していましたが定盛という猟師が射殺しました。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったといいます。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったともあります。これは英彦山の伝説とも似ていて共通点があります。そのことから鞍馬寺は浄土教の聖地として発展したといいます。鞍馬山にはその旧跡という「空也の平」という名の場所もあるそうです。

大分では国東に空也上人の開基した興満山興導寺というお寺もあります。また九重町の宝泉寺では空也上人が諸国遊行の途中この場所に経ちより農家に宿泊したお礼として持っていた杖を大地に立てたといいます。その杖がのちの大杉となり、天禄三年(972)この地に大地震がありその大杉が倒れたあと根元より突然温泉が湧出したといいます。そこで驚いた村人たちは、わき出る温泉のほとりに一宇の寺院を建立して空也上人が宝の泉を下さったということで寺を平原山宝泉寺と定 め本尊に空也上人と大日如来を安置したという伝承もあります。

歩きはじめて、まさかのご縁がこの空也上人でした。てっきり法連上人かと思い込んでいましたから、道はやはり歩いてみなければわかりません。引き続き、遊行を深めながら知恵を学び直していきたいと思います。

徳の戦略 

江戸中期の徳の実践家で思想家の三浦梅園に、「悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る」があります。これは、西洋ではグレシャムの法則といって、「悪貨は良貨を駆逐する」が同じように有名です。私は、徳積循環経済に取り組み、ブロックチェーンの技術を徳で活用していますからこの辺の話は参考にしています。

そもそもこの三浦梅園が自著「価原」でなぜこういうことを言ったのか、それはこの明和9年(1772年)から発行された、南鐐二朱判は一両当りの含有銀量が21.6匁であり、同時期に流通していた元文丁銀の一両当り27.6匁と比較して不足している悪貨であったといいます。このことが南鐐二朱判を広く流通させ、このような計数銀貨が次第に秤量銀貨である丁銀を駆逐していったということもあったといいます。これよりも前の元禄8年(1695年)に行われた品位低下を伴う元禄の改鋳後にもまた良質の慶長金銀は退蔵され、品位の劣る元禄金銀のみが流通したともあります。

そしてグレシャムの法則の方は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来しています。これを19世紀イギリスの経済学者・ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し「グレシャムの法則」と命名してできた言葉です。

他にも調べると、似たようなことは古代ギリシアでも行われていました。劇作家アリストパネスは、その自作の登場人物に「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる」という台詞を与え、当時のアテナイで行われていた陶片追放(オストラシズム)を批判していたといいます。

今の時代もまた似たようなものです。これは貨幣に限らないことは半世紀ほど試しに人生を生きてみるとよくわかります。市井のなかで、「本物」と呼ばれる自然な人たちはみんな私心がありません。世間で騒がれている有名な本物風の人ばかりが情報消費に奔走し、あるいは流通し、同様に消費されていきます。実際の本物は粛々と自分の持ち場を実践し磨き上げ場をととのえています。そこには消費はありません。

そういう人たちは、世の中では流通せずにそれぞれに徳を積み、そうではないものばかりが資本主義経済を拡大させていきます。そもそも人間の欲望と、この金本位制というのは表裏一体の関係です。そして金本位制を廃止してもなお、人間は欲望のストッパーを外してはお金を大量に発行して無理やり国家を繁栄させ続けようとします。すでに、この仕組みで動く世界経済は破綻をしているのは火を見るよりも明らかです。国家間の戦争も歴史を省みればなぜ発生するのかもわかります。

かつて国富論というものをアダムスミスが定義提唱し、富は消費財ということになりました。この辺くらいから資本主義の行く末は語られはじめました。如何に現代が新しい資本主義など世間で騒いでみても、そもそものはじまりをよく観ればその顛末は理解できるものです。ジャッジするわけではありませんが、歪みを見つめる必要性を感じます。

実際の経済とは、経世済民のことです。その経世済民を支えるものは、相互扶助であり互譲互助です。つまりは、人は助け合いによって道と徳を為すとき真に富むということです。この時の富むは消費財ではなく、絶対的な生産であり、徳の醸成です。そういうものがないのに経済だけをブラッシュアップしても片手落ちです。

本来、テクノロジーとは何のために産まれるのか。それはお金を増やすためではありません、世の中を調和するためです。だからこそ、どのように調和するかを考えるのが技術まで昇華できる哲学者たちであり、思想を形にする実践者たちです。

私はその調和を志しているからこそ、ブロックチェーンで三浦梅園の生き方を発信していきたいと思っているのです。そこには先人への深い配慮や思いやりが生きています。

先人たちのこれらの叡智、そして知恵は何世代先の子孫のために書き綴られそれは魂と共に今も私たちの中に生きています。少しでも子孫たちの未来が今よりも善くなるように私の人生の使命を果たしていきたいと思います。

純善たる伝承

レッジョエミリア教育というものがあります。これは、イタリアのローリス・マラグッツィという人物の思想や実践が一つの形として表現されたものです。

もともとこのレッジョエミリアは、第2次世界大戦後1946年の北イタリアの町の名前です。その街の郊外のヴィラ・チェラという村でガレキの中から復興を志し、幼児教育に力を入れようと熱心な親や町の人々が教育者、専門家と一体になって立ち上げたことがはじまりでした。このチェラでは、戦後に住民たちが戦争で残った石やレンガを使って、幼稚園を建てるためにドイツ兵が残した戦車やトラック、馬などを売って運営資金にしていたといいます。その後の数年間でレッジョ・エミリアでは女性たちを中心にして60にも及ぶ幼稚園が開園・運営されました。

戦争で子どもたちを保育する場所を自分たちの手で母親たちが主体的に復興するのです。そしてようやく1963年にイタリアで最初の公立の幼児学校がこのレッジョ・エミリアで誕生しました。そこから公立の幼児学校はイタリア全土に広まっていきました。

そもそもイタリアは元々昔から地方分権が強い場所でレッジョ・エミリアはファシスト政権に対する「レジスタンス運動」の本拠地で市民たちの自治意識が高い土地だったといいます。

その当時、教師やジャーナリストとして活動していたレッジョエミリア教育の中心となるローリス・マラグッツィは地域の教育活動に尽力していきます。

このローリス・マラグッツィは「100の言葉」という詩を書きその理念や哲学の中心になるものを残しました。そこにはこうあります。

「子どもには 百とおりある。
子どもには 百のことば 百の手 百の考え 百の考え方 遊び方や話し方
百いつでも百の聞き方 驚き方 愛し方 歌ったり理解するのに 百の喜び
発見するのに 百の世界 発明するのに 百の世界 夢見るのに 百の世界がある
子どもには 百のことばがある…それからもっともっともっと…

けれど九十九は奪われる
学校や文化が 頭とからだを ばらばらにする

そして子どもに言う 手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい 話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい 愛したり驚いたりは 復活祭とクリスマスだけ

そして子どもに言う 目の前にある世界を発見しなさい
そして百のうち 九十九を奪ってしまう

そして子どもに言う 遊びと仕事 現実と空想 科学と想像 空と大地 道理と夢は 一緒にはならないものだと つまり百なんかないと言う

子どもはいう でも 百はある 」

自分なりの意訳ですが、それぞれの子どもにはそれぞれの子どもの人生がありその人生には正解などなく、それぞれに自分らしい人生があるということのように思います。この時代、いや今の時代も、子どもが真に尊重されているかといえば教育はその真逆で今でも軍隊のように権利を奪われ、画一的に個性をつぶし、あるいは大人の都合で子どもが主体的に自分のままであることを認めないものばかりです。

「子どもは無限の可能性をもち、あらゆる権利を持っている。そして、それは誰にも奪われず、主体として大切にすることが教育のあるべき姿だ。」とローリス・マラグッツィは静かに諭します。

その後、1991年に「ニューズウィーク」誌は、レッジョ・エミリアのすべての市立幼児教育センターと保育園の代表として紹介し園長を務めたディアナ保育園を世界のベスト10校の一つに挙げました。今では、グーグルやディズニーでも採用され世界中に実践が広がっています。

そう考えてみると、日本ではどうでしょうか。

どのような保育こそが、真にその子どもの主体性を保障し、無限の可能性を奪っていないのか。私は自然農法なども行い、暮らしフルネスを実践しますが日本人はいのちとの繋がり、つまりは物も人もすべていのちの顕現したものという意識を持ちます。

本来は、子どもがもっとも世界で仕合せに暮らす国だったように思います。そういう文化の国が西洋からの古臭い教育で色々な歪が出てきました。今一度、本来の日本にある伝統の教育を今に甦生する時機に入っているように思います。

私が実践する暮らしは本来の日本の保育そのものです。それを大人がまず実践することで、子どもたちにその保育を伝承することができます。大人か子どもかではなく、共に生きる、つまり一緒に暮らすことで実現するのです。これは働き方と生き方の一致でもあるし、過去と未来と今の一致でもあります。

いのちの共生、ものも人もすべて繋がっている場をつくりだす。これが日本式の子どもを育てる伝承法である。それを純善たる伝承とも呼ぶのでしょう。

時機が到来していることに仕合せを感じつつ、かんながらの道を真摯に力強く動き出していきたいと思います。

 

機械と人間

人間の進化というものは科学を追及することになってきました。かつての人間の進化は、感覚を追及していました。非科学的なものとして現代では受け入れられない状態になっていますが本来は大多数の人たちがこの非科学的な力を発揮していた時代もあります。

誰でもその非科学的なものを使えるようにしようと、科学を進歩させて感覚を機械で発揮させていくように発展させてきましたがその分、また人間の感覚が失われていきます。

そのうちあと数十年もすれば、人間の感覚に限りなく近い、あるいは或いは他の昆虫や動物の感覚をコピーした機械が誕生して人間は感覚を使う必要がなくなるかもしれません。

そうなってくると、人間は人間の主権を機械に譲り渡すのでしょうか。人間が人間たらしめるものは、この感覚ともいえます。私たちは感覚を使うことで、この体の知性や心の感性、魂の感覚などを味わいます。時には、つらいこと、苦しいこと、悲しいこともあれば、喜びや感動、驚きなどもあります。

ひょっとしたらそのうち、感覚を購入するというような機械も出てくるかもしれません。機械に感覚を教えてもらうという時代です。そうなってくると、人間が機械になり、機械が人間になっていくように交換していくのでしょう。

アバターや仮想空間などもまた、分身をいかにつくりだしてそれに体験させるかということに進歩しています。この世に体験しにきて、仮想の体験をするというのは何か本末転倒のような気がしますがこれも時代の一コマなのでしょう。

感覚というものを研ぎ澄ましていくことは、いのちと触れ合うことに似ています。花を活けても漬物を漬けても、野菜を育てても、人と対話していてもすべて感覚を用います。感覚を通すことで、私たちはありとあらえるものを直感的に結べます。

そういうものが結べなくなるというのは、ある意味で人間中心の人間だけしかいない世界にしていくということです。

子どもたちがどちらの世界を望んでいるのか、長い目でみて伝承していきたいと思います。

聴福人の実践

先日、あることで松下幸之助さんの生前の講演動画を拝見する機会がありました。そこでは、私心を消すことについて謙虚にお話をされておられ色々と省みる機会になりました。

そもそも私心というのは、小我やエゴなど自分がという己の存在を過少過大評価をしている状態のことです。何物もでもない、存在している自分をよほどの存在として独善的になっていくと私心に囚われた状態になります。

本当の自信を持つというのは、難しいことでそれだけ日々に自分というものと向き合い、自分の中の私心がどうなっているのかを見つめ続ける必要があるように思います。

松下幸之助さんも、自分の私心が毎日出てくるからそれを危険だと思って気を付けていると。賢い人こそ、危険であるから要注意であると。賢いからこそ会社をつぶすことがあると、使い方次第であると仰っていました。

確かに、今の能力も才能もそして自分というものもそれをどう使うかというのは心が決めるものです。それを世のため人のため、そして社会のため世界のためにと自分を天から預かりものとして使うときは私心はなくなっていきます。しかし、それを自分のものだからと勘違いして特別な存在だと勘違いしてしまうと私心にまみれて判断がすべて己の方に引き寄せようと欲望に吞まれます。

この世のすべてはみんな天が与えた存在であると自覚すれば、天命というものの声も聴けるように思います。しかし、天命がわからなくなるのは自分勝手、得手勝手に勘違いし視野が狭くなるからのようにも思います。

視野の広さとは、自分はとても小さな存在と思えるとき視野は広がります。永遠から結ばれている先祖からの自分を感じたり、この世のすべてのいのちは繋がっていると感じたり、宇宙や星々、光や道を感じるときもそう感じます。しかし便利さや自分の権利が当然のような環境の世の中では、そういう感覚は麻痺してみんな私心まみれ我欲まみれになりたいように思います。

夏目漱石が晩年の境地に「則天去私」(天に則り私を去る=てんにのっとりわたくしをさる)ということを語っておられます。天命に生きることの要諦で、亡くなるまでずっとその道に挑戦されたことを想像できます。

また松下幸之助さんを尊敬されておられた稲盛和夫さんもこう仰っています。

「私心を捨てて、世のため人のためによかれと思って行う行為は、誰も妨げることができず、逆に天が助けてくれる。」

動機善なりか、私心なかりしかと、自問自答を日々に繰り返されたいたそうです。毎日、私心はないかと自分に尋ねるというのは本当に大切なことだと反省するばかりです。

最後に、私が大好きな良寛さんの遺した言葉だそうです。

「おらがおらがの「が」を捨て、おかげおかげの「げ」で生きよ」

感謝や御蔭様というのは、私心を毎日お手入れすることに似ています。自己の徳を磨いていくのは、それが天命であることを忘れないようにしていくためかもしれません。

よくよく反省して、自ら勘違いしないように周囲の声に耳を澄ませ、聴福人の実践を真摯に取り組んでいきたいと思います。

お山を調える暮らし

英彦山の宿坊の周辺の石組みや水路の修繕をしています。実際には、ほとんど土木作業ですが今のように重機がなかった時代にどのように石組みをしていたのかがほとんどわかりません。なので、一つ一つの自然や石組みを観察しながら推察したり想像したりと、先人の足跡から学び直しています。

今でも守静坊の周辺は、立地的にも機械や重機は入れません。なので、テコの原理を使って石を動かしたり、人を集めてみんなで運ぶという具合でととのえています。しかし、あまりにも大きな石はどうしようもなく、そのままにしています。本当に、どうやったのだろうかとまるで古代の失われた技術にため息ばかりです。

エジプトのピラミッドもですが、どうやってというのは今も解明されていません。その時代に生きた人たちの知恵は子孫のためにも伝承していく大事さをひしひしと感じています。

むかしの水路には、水を抑制する技術に長けていることがわかります。ただ流すのではなく、水の力を敢えてそぎ落としたり、ところどころで土に浸透させてガス抜きのように溜め込ませたり、落として力を逃がしたり、曲げて速度を調整したりと工夫に満ちています。

標高の高い英彦山は、大雨が降ると一気に洪水のように水が下に流れていきます。先日の豪雨はまるで、石段が川のようになり段差が大滝のようでした。土砂が崩れるのではないかと心配になりました。しかし数百年の間、壊れていない場所に建っていますからある意味での安心感があります。

先人は、なぜその場所が壊れないと思ったのか、そしてなぜ今のような石組みにしたのか、考えさせられます。とはいえ、宿坊の周辺もところどころ石が崩れ、水路の流れを換えてしまっています。小さな水路の破壊が、その場所の破壊にもなり、手入れをし続けないと場も保てません。

今は宿坊跡になり、ほとんど空き地になり家も人もここにはいません。しかし、本来、標高1000メートル以上の山というのは水を貯水する天然の給水塔だといわれます。森が水を育むという言葉にあるように、この山が水を保水しているから平地の暮らしが保たれています。特に福岡県においてもっとも高い山であり、水を生み出す英彦山の御蔭で県内のすべての支流は確保されています。その山を守るためにも、むかしは山伏たちが山が清浄であるように健全であるように暮らしを保ち山をととのえたのです。

その調え方は、まずは自らの宿坊の周辺を丁寧に修繕し続けること。そして風通しや水の流れなどを澱まないようにしたこと。山に感謝して、自然のありがたさを感じることなどをやったように私は思います。

やることはいくらでもありますが、身体は一つしかなく時間をかけて少しずつ取り組んでいます。お山の知恵に学び、人類の行く末を祈り、子孫のためにも暮らしフルネスを味わっていきたいと思います。

大家族主義の徳

互譲互助という言葉を知りました。これは出光創業者の出光佐三さんの遺した言葉です。日本人は、本来、お互いを尊重しあい譲り合う和の精神がありました。それが個人主義で失われていくのは違うのではないかと、さらに和の精神を磨こうと発信されました。

出光興産のホームページには「互譲互助」がこう紹介されています。

『個人主義は利己主義になって、自分さえ良ければいい、自分が金を儲ければ人はどうでもいい、人を搾取しても自分が儲ければいいということになっている。ところが本当の個人主義というのは、そうではなくてお互いに良くなるという個人主義でなければならない。それから自由主義はわがまま勝手をするということになってしまった。それに権利思想は、利己、わがままを主張するための手段として人権を主張する。この立派な個人主義、自由主義、権利思想というものが悪用されているのが今の時代で、行き詰っている。

それで私はよく会議で言うんだが、「お互いという傘をかぶせてみたまえ。個人主義も結構じゃないか。個人が立派に力強くなっておって、そしてお互いのために尽くすというのが、日本の無我無私の道徳の根源である。自由に働いて能率を上げて、お互いのために尽くすというならこれまた結構である。それから自分が人間としてしっかり権利をもって、お互いのために尽くすというなら結構だ。」と言うんです。互譲互助、無我無私、義理人情、犠牲とかはみんな「お互い」からでてきている。

大家族主義なんていうのも「お互い」からでてきている。
その「お互い」ということを世界が探しているということなんだ。』

本当の個人主義とは何か、それはお互いが善くなると定義されています。そもそも自今主義は利己主義でもなければわがままするものでもない。権利思想が悪用されているというのです。

私はこの権利思想というものは、人権を含め、お互いを尊重しあうという意味で人としてとても大切なことだと感じています。しかし今の使われている権利は、戦うため、争うための材料になってしまっています。

そこで本来の意味に回帰しようと「お互い様」という日本の精神を説きます。みんなで自立するのはいいことだと、そうやって自立してお互いのために支え合うのが日本人の生き方ではないかと。そのうえで、自分の権利を保っていこうではないかと。その道の先にこそ、みんながお互い様で生きていこうとする大家族としての地球があるのではないかと、私はそう仰っているように思います。

自分の国や自分のことだけ、そのために奪い合い争い合うというのは平和的ではありませんし自然の掟に反するものです。自然は、よく観察するとお互い様で成り立っており、みんなそれぞれが尊重しあうなかでお互いに譲り合って助け合って存在しています。

例えば、野菜でもそれを育て見守り喜んで一生を歩んでいく過程でその作物や食料として私たちは食べていくことができます。そして種をいただき、その種を育てていくことで共に生のパートナーとしてお互いを見守り合う関係で家族になります。

思いやりをもって歩んでいくことで、このお互い様がはじまりそこに譲り合いという知恵が生まれます。権利と勝ち負けではなく、尊重と譲り合いが世界をつくるのです。

時代が変わっていろいろと世の中も毒がたまってきています。毒を取り除くには、日頃から毒を出すかのように浄化し続けることが必要です。この出光佐三さんの大家族主義というのはまさに今の時代に求められている気がしています。

子どもたちの健やかな未来のためにもお互いというところをさらに突き詰め、徳積循環経済の仕組みに挑戦を続けていきたいと思います。

自然農文化の伝承

昨日は、千葉と福岡のむかしの田んぼで同時に稲刈りを行いました。無肥料無農薬でお米づくりをしていますが今年も無事に収穫ができました。稲と共に一年をめぐるのですが、この実りの時が何よりも有難く感謝が湧いてきます。

特に今年の福岡のむかしの田んぼは、ほとんどは稲に任せていました。といっても、福岡の田んぼはまるで原生林のように周囲の野草たちの楽園であり人工的な作物からすると都会の人がいきなりアマゾンに放り出されたような状態です。まわりの野生的な植物や虫たちからすれば格好の獲物のように激しく攻撃されます。

よく観察していたら、似たような植物から居場所を奪われる。蔓系の植物に巻き付かれる。あとはお米を食べる虫たちが群がってくる。太陽の光を木々や植物に占有される。雀などの鳥や動物たちから食べられ荒らされる。他には水害や台風、日照りの乾燥、きりがないほどです。

これだけの困難がありながらよく実を結んでくれたと感謝の気持ちに包まれます。

千葉とは異なり福岡の方は全体の田んぼの半分くらいしか収穫できませんでしたがそれでもよくここまでの野生に適応して元氣に育ってくれたとそのお米の持つ生命力の強さ、そして数々の困難を乗り越えた逞しさには深く感銘を受けるものがあります。

そういうお米は、凛とした力が漲っており、少しでも食べるとその元氣が体に沁みこんでくるかのようです。

私たちは食べているもので身体ができています。細胞一つ一つは、食べたもののいのちが移動しながら宿り代謝をしては活動を続けます。食べ物といっても、物ではなく、それぞれのいのちの物語があります。どのように育ってきたか、どのような思い出があったか、どのような生き方をしてきたか、それは生き物によってそれぞれに異なります。

野生のなかで、自分のいのちを真摯に燃やしよく生き残ったものは自然に魂が磨かれて強くなります。在来種の種などは、特に何年もその場所で育っていくにつれ強さを増していくものです。

いのちというものは、置かれた環境によって強くも弱くもなります。逞しさというのは、自分のいのちを真摯に全うしたものの持つ表現です。いのちを最も発揮した存在から偉大な魂の豊かさや喜びを感じます。

つい一般的な農業のイメージから、収量や姿かたちや糖度に意識をもっていかれます。しかし、本来は育ち方や逞しさ、元氣さや種の幸福さなどに意識を向けていくものではないかと私は思います。これは農業ではなく、農文化という伝統と伝承です。

そしてこのことは、人も会社も家庭も国家も同様だろうと思います。

子どもたちのためにも、子どもが子どもらしくいられる世の中に向けて自分の目が曇らないように稲のいのちから学び続けていきたいと思います。

未来の可能性

未来の可能性というものは、今の自分の能力で推し量ることはできません。それは未来が予測できないことと似ています。今の自分が、今こうなっていることを40年前やもっと前に予測できたかといえばほとんど予測できていません。そこには数多くの奇跡やお導きがあり、今に結んでいます。

ビジョンというものは、方向性を決めるものですがこうなると未来が予測できるものではないように思います。しかし、そうなると未来を信じるのだからその信じるものを実現するために自分の能力を磨いていくのです。

そうやって人は成長し、進化していくものであろうと思います。

しかし、あまりにも高い理想や現実の世界の価値観とかけ離れたようなことに取り組もうとなると未来の可能性がどんどん小さく感じるものです。本当に実現するのか、実際には不可能ではないかと不安にもなるものです。

実際には、小さく感じても小さなことからコツコツと挑戦をし積み重ねて可能性を広げていきます。特に自然を相手にしてみるとわかりますが、思いどおりなどにはいかず、自分を謙虚に素直に改善していくしかありません。

そうやってコツコツと取り組んでいると暮らしが次第に変わってきます。日々の日常の中で、変化が出てきます。その変化こそ、未来の可能性ともいえるものです。

実践するというのは、日常の暮らしから変わっていくものです。

時間がかかっても、未来の可能性を信じて知恵を活かす新たな能力を磨いていきたいと思います。