すべては味方

人間は安心することで自分のすべてのパフォーマンスを発揮していくことができます。言い換えれば、人が輝くには安心することが絶対条件であるとも言えます。そう考えると一人一人が輝くためには、一人一人がみんな仲間に安心を与えられなければなりません。安心できる場所というのは、自分が守られていると感じる場所でもあるのです。

この逆に自分がいつも敵の標的にあっていると思ったり、守られていないと感じていると不安は大きくなります。信頼できる関係の安心感とは逆に、不信であればあるほどに安心感は遠ざかります。

そしてこの関係は、自分自身においても言えることです。自分のことを肯定し自分が信頼してあげる関係があれば自己は安心します。しかし自分を否定し、自分を信じてあげることができなければ自己は不安定になるのです。

自己の安定は自己の安心であり、自己が安心すれば自他も安心をはじめます。自分が安心するのが先で、その安心の基礎の上に人は信頼関係を築いていくことができ、揺るがない絆を結び自分自身を輝かせることができるのです。

では、如何に自己を安心させていくか。それは自分のものの観方を変えるしかありません。たとえば、自分は自分の味方であると信じること。仲間は自分の味方であると心を開くこと。周りは自分の味方だと安心すること。世界人類皆兄弟というように、自分自身が周りは自分の味方であると安心することで安心の和は広がっていくのです。

逆に、自分の家族や上司、そして仲間や組織、会社や世間のことを敵視して誰も自分の味方などいないとしたとします。すると、そのしっぺ返しにあい自分自身のことも次第に敵視しはじめ、そのことでますます自分への信頼が築けなくなり自己が分裂してしまいます。分裂した自己をて無理やり表面上だけ仲よくして我慢していても味方がいない状態で戦うことになり協力が得られずに本来の自分のポテンシャルを最大限発揮していくことはできません。

同様に身近な人と表面上仲よくしたり、無理をして我慢をしていい人を演じていてもそれは味方を演じているだけでどこかで裏切りや敵を恐れているだけかもしれません。だからこそ敵味方ではない「すべては味方」であると思える人になることで周りとの信頼をつなげていくように思います。

この「すべては味方」という境地は何か。

それは自分の弱さをさらけ出していてもそれでも一緒にいたいと思ってくれている人たちになるということです。言い換えれば自分の欠点や弱点、ダメなところがあってもそれでも長所や魅力、強みなども理解してくれて一緒に生きていこうと信頼してくれる人たちになるということです。深く理解し合う関係になっていくということです、それは本音の付き合いともいい、素のままあるがままの関係づくりともいいます。

このすべてが味方になっている組織には、自分が安心できる居場所ができて信頼関係の絆が確実に築かれています。そういう安心の場は一人ひとりがみんな輝いているのです。そのためにも私たち人類は人間を信じようと努力し、お互いを深く理解し合うために多少の痛みや傷つくことを恐れずに前進し発達していこうとするのです。

人類は、何度も何度もお互いに信頼し合うために挑戦を続けてきました。この今もまた、世界が激動の変化の渦中に入っていてもさらにそこに向かって試行錯誤し続けています。それでも境地を体得し、本当の平和を永く築こうとし実験は続けられていきます。

子どもたちが憧れる生き方ができるように、「すべては味方」という境地にカグヤは挑戦していきたいと思います。

見守る組織

人は安心していなければ弱さをさらけ出すことができません。居心地がよい場所とは弱さを見せ合える環境があるということです。もしも何かを言ってしまってそれが悪いことになると決めつけていたり、裏切られる、見切られる、責められる、評価が下がるなどそういう観念をそれぞれが持ったままであれば安心することなどできません。

安心の居場所とは、そういうネガティブなことであっても平気で言い合えるような信頼関係があることで実現するとも言えます。人間は発達するためには、安心できる環境がなければなりません。それぞれの持ち味を活かすためにも、まずはじめに安心があることが何よりも前提になっているのです。

安心できる環境をつくるためには、それぞれが人間として成長できる場を用意する必要があります。そこには仕事とプライベートを分けたり、生き方と働き方を分けたりするものではなく人生で関わってくれる仲間や同志といった存在が必要になります。

同志や仲間というものは、時には非常に厳しい言葉であっても言葉を選ばずに愛情深く伝えます。また深いところで強く励まし高い信頼関係において絆を結びます。一緒にいて安心できるというのは、色々な次元のことがあるのです。

自分がどんな姿を見せても、芯のところは尊敬しあっている。共に目指している理想の実現のために発達し続けている、その過程が今の姿であると認識していることもまた大切なことかもしれません。

見守る組織というものは、安心組織です。

どのように安心する関係を築き上げているかが、そのチーム力の源泉になります。子どもたちが安心して発達するために、大人同士の関係もまた深めていきたいと思います。

安心して育つ環境

人間には表情というものがあります。これは、心の状態を顕しているものでその人の心が表に出てきている状態とも言えます。心が澱んでいれば表情も暗くなり、心が澄んでいれば表情もまた清らかです。心を頑なに隠していれば表情もまたそれ相応になり、心が楽しければ笑顔で明るい表情になります。

心がどのように働いているか、それを観察することがもっとも心の状態に気づく鍵でもあります。そして心は本来は、子ども心というように純粋無垢なままの状態で存在し続けます。しかしその心が日々の知識や刷り込みによって頭で考えることが増えていくことによって心の周りに垢のようなものがこびりついてきます。

その垢を洗い流していかないかぎり、心が表に出てくることがありません。大人になればなるほどにその垢がこびりついてきますからそれに気を付けて生きていくことが仕合せに近づくコツのように思います。

この垢はではどのようについてくるか、それは自分に嘘をつくことでこびりつきます。自分の本心を隠し、周囲にわからないようにするために嘘をつき誤魔化すこと、本当の自分の素をさらけ出さずに周囲に合わせて自分を偽り表現していく、そういうことを繰り返すことによって垢は出てきます。つまりは不自然な姿で居続けたことで、その不自然さが自然を覆い隠していくかのようにです。

そうならないようにしていくために、どのような環境を用意していけばいいか。みんなが無理をしないで安心して素のままでいられるためにはどうすればいいか。教育者はまずそこに目を向けて、安心して育つ環境を用意していく必要があると私は思うのです。

安心して育つ環境は自分自身にも言えることです。自分のままでいい、あるがままいいと自分が思っているかどうか。無理をして我慢をしていないか、周りの期待に応えるために本当の自分を隠していないか。自問自答する必要があります。

そして自分を肯定できているか、自分を好きでいるか、自分というものの存在を丸ごと認めているかといった揺るがない自信を持つ必要があります。

引き続き子どもたちが安心して成長していけ自分の持ち味を発揮していけ仕合せな人生が歩めるように安心して育つ環境を用意していきたいと思います。

居心地とは何か

居心地がよい場所というものがあります。そこにいくと自分らしくあるがままの自分で居られるという場所です。人それぞれにその居心地がよい場所というものを持っています。

ある人は、自宅の部屋であったり、ある人は故郷の思い出の場所であったり、ある人は誰かと一緒にいるときであったり、またある人は自分が所属するコミュニティであったり、それぞれです。

しかしこの居心地がよいというのは、自分自身を知るうえでとても大切なことのように思うのです。なぜか気持ちが安らぐや気分が落ち着くというのは、自分の居場所として自分が素直に出せているということ。その逆に、自分を偽り我慢して自分を出さずに抑え込んでいるところは居心地が悪いということになります。

自分が無理をしている人がいると、その場所は居心地が悪くなっていきます。無理をしていない人が増えれば増えるほど居心地はよくなります。居心地のよさは、みんなが無理をしない環境があるということです。そのためには自分がまず先に無理をするのをやめてみる必要があります。無理をして我慢をして自分を誤魔化していたら、気が付けばもっとも自分がその環境を居心地が悪いものにしているのかもしれません。

なぜ自分らしくいられないのか、なぜ無理をするのか、それは他人からの評価を過度に気にしたり、失敗を過剰に怖がったり、不安や不信から心配ばかりで保身ばかりを気にするからかもしれません。しかしそれが回りまわって自分自身が居心地が悪い場所にしていくのです。

居心地の善さは、まず自分自身が心を落ち着ける必要があります。自分のままでいてもいいと自分自身が安心すること、このままでいい、あるがままでいいと自分自身を認めること、そして同時に周囲のあるがままも認めること。お互いに認め合うことができるのなら寛容な心で許し合うことができます。自分ができないことを周りがやることに嫉妬したり、自分ができないと思われないように虚勢を張ってみても現実は苦しみばかりが襲ってくるだけです。優秀かどうかばかりを気にして、能力ばかりを査定するような自意識を持っていたら緊張状態が続くばかりで頑張る悪循環に陥り頑なになるから笑顔はなくなり、周りの笑顔も次第に奪っていきます。優秀さを目指すばかりの人間たちがみんな無理をして頑張る職場に笑顔はありません。

自分からいつも笑っている人は、優秀さではなく仕合せが基準になっていますから自分自身が楽しいだけでなく周りも同時に気楽にしていきます。気楽さというのは、頑固さとは逆ですから何があっても丸ごと善いことであると信じ切るといった全体性に対する楽観性のようなものです。

居心地のよさは、まさにこのように全体に見守られていると実感しながらきっと大丈夫だとそれぞれが信じて歩んでいくことのようにも思います。むかしの日本の信仰のように、八百万の神々が共に歩んでいるのだからと安心するような境地です。それは決して否定排除ではなく、尊重と共存関係が大前提であったの自明の理です。

子どもたちが安心して自分の居場所をそれぞれの場所で創造できるよう、素直な自分のままでいられる環境を創造していきたいと思います。

休むことの本質

すべての生き物には「休む」ことが必要です。生きていくためには、動的な時間と静的な時間がありその両方でいのちは調和しているからです。この休むというのは、単に動くか止まるかということではありません。これは例えば、冬の木々が春に向けて鋭気を養い力を蓄え調律するかのようなものです。

木々は見た目は動いていなくても、冬の間でもしっかりと根から水分を吸い上げます。木の中に貯めこんだ力を冬の間にじっくりと調和させています。動物たちや虫たちもまた冬眠するように秋までに得た養分を調整しゆっくりとじっくりと鋭気を養い休みを取ります。

休みというものは、単にじっとしているということではなく休むことでエネルギーを調和させているのです。どちらかというと呼吸に似ているように思います。呼吸は生まれてから死ぬまで止まることはありませんが、いつも身体との調和を保つために呼吸の回数や強弱を調整しています。これは自律神経というものが行いますが、私たちの無意識の中で自然に調律してくれているのです。

つまりは呼吸においては休むことは深呼吸であり、一休みすることで呼吸が整うのです。人間も日々の喧騒の中で忙しくすると呼吸を忘れてしまうものです。そういう時は深く内省をする時間を持ち、もう一度人生を調律する時間にしてみてもいいのかもしれません。

「休むことも仕事」という言葉もありますが、それは調和するために必要なことだからです。つまりは世間でいう単に活動するのを休むのではなく、全体と調和すること、調律すること、調整すること、つまり全体最適、全体快適であるように自分のバランスを取ることが休むことの本質なのです。

バランスが崩れると人は立っていることができなくなります。立ち上がるためには、バランスが必要で質の高い仕事をし続けるためにもバランス感覚はプロとしては何よりも大切な素養です。

木を見て森を観ずでは、木ばかりしか見えなくなり自分が何処に居るのかわからなくなりバランスは崩れる一方です。そういう時こそ、全体を見渡し視野を広げ森を観て目の前の木を観察し直すことも大切なことかもしれません。人生は長く、そして変化に富んでいます。今は動くときか休むときか、植物たちが見極めているように自分自身もそのタイミングとバランスを自然に倣い実践していくしかありません。

現代のように自然から乖離してしまっている生活の中でバランスを保つのは本当に難しいことです。だからこそ日々に自分がバランスを保つようなリズムや生活習慣、もしくは日々の日課や実践など繰り返し維持していくためのものを持つとバランスも意識しやすいように思います。

私の場合も早起きをしブログを書き、日記と書きと、いろいろと日課がありますがその御蔭様でバランスを保ちやすいように感じています。自分で自分をコントロールすることは、これからのさらなるスピード情報社会においては人間の自立の大切なテーマかもしれません。

引き続き、バランスが揺らいで大変な中でも前に進み歩み続けながら子どもたちに生き方を伝承していきたいと思います。

正月の意味

正月を迎えるために準備をしていますが、改めてなぜ歳神様をお祀りするのかといった原点を改めて調べていると気づくことがたくさんあります。今では、生活様式が変わりむかしの暮らしが消失していますからかつての伝統的な暮らしの名残だけがいくつか残るばかりですが本来はすべて意味があったものです。

たとえば、歳神様というものは神道の神様であり年神様は、家々に1年の実りと幸せをもたらすために、高い山から降りてくると考えられている新年の神様です。この「とし」の語源は、穀物、稲、またはその実りを意味しています。だから歳神とは、稲の神、稲の実りをもたらす田の神ということです。家々では五穀豊穣を祈り、多くの実りが訪れるようにと歳神様をお祀りしたのです。

初日の出を見に行くのもまた、歳神様の降臨を拝むために行われていたものです。そして正月に門松やしめ飾り、鏡餅を飾ったりするのは、すべて歳神様をおもてなしするための準備です。門松はその家に入るための依り代として玄関に配置されます。そして床の間の鏡餅こそ、歳神様のご神体そのものになるのです。

歳神様にお供えした鏡餅を直来でいただくのが、鏡開きでありお雑煮であり、かき揚げ餅になります。そしてその供えものこそが「お節(せち)」であり、年神から与えられる魂として「お年玉」ということになります。むかしは、お金はなく御餅をお年玉として子どもたちに配っていたように思います。節目にはお米のお力をおかりするためにお餅を食べていたのです。

このようになんとなく続けられている正月に目を向けると、なぜこの正月を行うのかの本当の理由が観えてきます。私たちが生きながらえてきたのは、お米を食べてきたからです。そのお米に対して感謝の心で慎み暮らし新しい一年の初心を定めてまた暮らしを積み重ねて充実させていく。

自然と共に歩みながらその恩恵に感謝し、その恩恵の御蔭様で生きていくことの大切さを思い返すための節目でもあったのです。大切な習慣が意味を失い、場合によっては違う意味で用いられ商売に活用されていくのは残念なことです。

子どもたちのためにも、むかしからの伝統を今の時代でも温故知新して伝承しながら大切なものをつなぎ譲り遺していきたいと思います。

 

 

 

主体性の本質~お手伝い~

「お手伝い」という言葉があります。これは「手伝う」に「お」の接頭語が入ったものですが当たり前に使っている言葉ですが大変な意味があるように思います。この手に伝えるという合わせた言葉、とても深く味わい深いものがあります。現在では、チームだとか協力とか主体性とか色々な言葉が組織運営について出てきますがこの当たり前の「お手伝い」が何よりも仕事の本質であるようにも思います。

幼いころから、家のお手伝いをして育ってきますが人間は当たり前に協力して働くためにはその働くための智慧を自然に身に着けていきました。その代表的なものが、農業であり里山での暮らしの中で集団を通して助け合い生きる力を育んできたのです。たとえば、みんなで助け合い屋根をふきかえたり、堤防の修理や、家々の柿の実を収穫したり、子どももみんなで見守り、お年寄りもみんなでお世話をする。

これは自分のもののようで自分のものではなく、みんなのものであって自分のものでもある。つまりは生活共同体、共存関係を結んでいたのです。沖縄ではその関係を「ゆいまーる」ともいい相互扶助の関係を築き上げていました。

現在では、自分は自分、他人は他人となってしまってみんなのものという意識は消失してきているように思います。そのことから本来のお手伝いということも意味が異なり単なる役割分担や担当制のように変わってきているように思うのです。つまりは歪んだ個人主義が蔓延しつながりが切られたことで「一緒に生きている」という実感がますますなくなってきているように感じます。

本来の「お手伝い」とは、この「一緒に」という気持ちをお互いが持っていることのことを言います。本当の主体性とは、「自分はみんなと一緒に生きている」という共存意識を持っている人たちのみに発揮されるものだからです。

だからこそ他人事にせず、自分のことだという当事者意識が生まれます。そして会社も同様に、自分の会社であって自分だけのものではなくみんなのものである。みんなのものだからこそ自分も手伝うことができて有難いと感じながら働くことが相互扶助でお互いを活かしあい助け合うことができるということでしょう。

自分というものと全体とのつながりが消えてしまうと主体性は消失します。すると、孤立感や孤独感、そしてやらされ感やさせられ感に変わってしまうのです。結局、何か自分に何かの出来事があったときに気づくのが自分が助けてもらえ所属する会社、仲間や友人、家族など周囲のコミュニティの中があることに気づき直すのです。

だからこそそのコミュニティを守ろうと「お手伝い」をすることは当然のことであり、それが「自分もみんなも守る=お手伝い」ということなのです。手伝っているようで手伝ってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分自身であるという真実に気づくことが共存共栄していくという人間の智慧の本質なのです。

チームかどうか役割とか担当とか議論する前に、そもそもは果たして自分とは自分だけのものなのか、そんなことは一人では生きていけないからすぐにわかるはずです。いくらお金があったとしても、助けてくれる人たちがいなければそのお金を使うこともありません。つまり人間は自分であって自分ではないものの存在に気づけるかどうかが何よりも先なのでしょう。

みんなで一緒に生きていく、その一緒になっている組織を守っていくということにどれだけ真剣に関わり本気で取り組むかが主体性の本質です。引き続き、課題をチャンスにして本当の問題に向き合っていきたいと思います。

 

煤祓い

昨日は、12月13日の正月事始めとして聴福庵の煤払いを行いました。むかしは囲炉裏や竈、七輪や薪のお風呂など火を使うものが多かったことから大量の煤が生活道具や家具についていました。その煤汚れなどを掃除し、間もなく訪れる正月に合わせて歳神様やご先祖様が清浄な家に帰ってこられるのを待つ心で洗い清めるためのお掃除です。今では家電製品が中心ですから大掃除くらいのイメージですが、この煤払いは単なる大掃除という意味ではなく大切な日本の伝統的な暮らしの年中行事の一つです。

この煤払いを調べると平安時代にはすでに行われていたとあります。もう1000年以上前から行われている習慣だと思うと、身体は知らず知らずにそれを覚えているのかもしれません。この12月13日に行うようになったのは江戸時代からだといい、江戸城に合わせて町人たちも13日を煤払いの日にしていたといいます。

正月を迎える物忌みの始まるのが13日で、28日までに掃き清めを行い歳神様の正月を迎えるための信仰の一環としてこの日を煤払いにしたといいます。むかしの人たちは一気に大掃除ではなく、時間をかけてじっくりと丁寧に掃き清めながら一年の煤を払ったのです。

掃除に使われた道具も、むかしはお焚きあげをして一緒に供養したとあります。ここには一年、生活の中で出た穢れを払いながらもその働きやいのちに感謝の心で供養していくという生き方があります。そして一年一年と積み重ねていくいのちの暮らしがあって、その一年の節目を大切に振り返りながら翌年を迎えていこうとする慎む心が観えてきます。

そう考えてみると、この一年もまたいろいろな煤が出た一年だったなと思います。

その煤を思い返しながら、暮らしを見つめ暮らしを味わう。その中で出てくる錆のようなものを綺麗に拭きとりまた美しい本体を顕していこうとする。祓うことで観えてくるといったまさに魂を磨く一つの生き方伝承行事なのです。

日本ではこの「お祓い」を暮らしの中で大切に位置づけていたように思います。穢れは歳月の中で次第に出てくるものだからこそ、それを日々に手入れをして美しく磨いていこうとしたのでしょう。歳神様というものは、清浄なところにお越しになるというのはこの初心をもっている方だからかもしれません。

一年で一つの四季が巡ります。

また新しい四季が巡るときに、初心に帰り初心を忘れないで歩んでこれたかと思い返し一生を磨き続けていきます。日本人の清々しさ、根の明るさはこの年中行事が助けてくれていたのかもしれません。

暮らしを甦生しながら、子どもたちに伝承していきたいものを譲り渡していきたいと思います。

 

 

幸福な生き方~自分のために~

人間は仕合せでいるためには、本当の自分というものをもっている必要があるように思います。周りに合わせたり、周りを気にして自分を偽れれば偽るほどに仕合せは遠ざかっていくものです。

たとえば、好きなことをやっている人たちが仕合せなのは自分のためにやっているからです。誰かのためにというものもありますが、それが自分のためになることを自覚しているのです。

むかしの日本の格言に、「情けは他人のためならず」というものがあります。この本来の意味は「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」というものです。

情けをかけた気になって他人のためにしてやったと思い何度も続けているうちに、なんで自分ばかりこんなことをしなければならないのかと文句を言う人もいます。しかしそれは自分のためにやっているということが分からなくなっているのかもしれません。

仕合せというものは、自分の心の充足でありそれは自分らしくいることを維持することです。そのためには、常に半分この状態、つまりは半分は相手のためだけど半分は自分のためにやっていると気づくことのように思います。

好きなことが嫌いになったり、やりたかったことが単に辛いだけになるのはどこかで自分を見失っているからかもしれません。自分が好きでやっていることだし、これは自分のためになっていると思っている人は楽しむ力、言い換えれば豊かさを持ち心の余裕が広がっています。その逆が好きでもないことを誰かのために我慢してやっていると思うと、途端にネガティブになり貧しい心が不幸を呼び込みます。

周りからどう思われたいかを気にして生きていくことは、本来の自分を偽って生きていくことです。地位や名声、世間の評価や役割を果たしていくことにばかりにあまりにも関心を持つと仕合せは逃げていくように思います。

自分らしくいるというのは、自分のためにやっていると自覚することです。好きなことをやっていると自覚できるのもまた、自分にとってこれが大切な価値があることだからと自認しているからでもあります。

周りを気にするのは、どこかたった一度きりの唯一無二の自分の人生を他人に委ねすぎて流されているかもしれません。主体性を見失い自分で思考を停止してしまうと、結局は自己を喪失し憂鬱さばかりが頭を擡げ心身が疲れ果ててしまいます。これも今の日本の社会全体が幼少期より比較競争や他人の人生を生きるように評価されてきた不安や恐怖の刷り込みが自分の中に残っているからです。

だからこそ敢えて意識して自分らしくいること、つまりはこの世に生を得て生きていくのだから自分が好きでやっていてすべては「自分のため」になっていることだからと、からりと晴れた清々しい気持ちで自分は自分なのだと日々を安心して過ごしていきたいものです。本来の内省は何のためにあるのか、それは他人の評価のためではなく自分のためにあるものなのです。自己内省の習慣は本来の自分を取り戻すための大切な智慧なのです。

子どもたちには、そのもののあるがままの価値に気づいてもらえるように私たちが自分らしくいること、自分のためにやっているという幸福な生き方を示していきたいと思います。

言葉の定義

言葉というものは時代の価値観と共に変化するものです。それは時代の価値観が反映されて言葉を使う人たちの間で変わっていくからです。つまりは言葉というものは、そもそもそうやって人間の間で不確かに生き続けて形を変え続けるものだからです。だから言葉のことを言霊とも言うように思います。

たとえば、孔子の時代に孔子が弟子と問答した論語もまた時代の流れと共に変化してきます。春秋戦国時代に使われていた仁義などの言葉も、平和な時代に入るとその意味が少し変わっていきます。それを今度は、孟子という人物が本来孔子の言うのはこういう意味であると言葉をその時代の人たちに真実が分かるように翻訳していくのです。

日本でも朱子学や陽明学をはじめ孔子の教えが本質を維持するように、その時代の翻訳者たちがそれぞれに時代背景に合わせて言葉の定義をしてきました。時代と共に言葉が分化していくのは、それだけの時代を経てきた証拠でもあるのです。

この儒教だけではなく、当然仏教も、神道もまた時代が変わるたびに少しずつその言葉の意味が変わり真実が分かれていきます。その真実を見極める人たちによって、できる限り最初の意味や本来の定義が変わらないように伝承されていくことでそのものが時代に受け継がれていきます。

人間を教育するというのは、この言葉の定義や意味を本来のままに使えるような人々を増やしていくことです。そのうえで、同じ定義を用いてお互いに学び続けて人格を高めていくことが必要になります。

人間は社会を育てていく生き物ですから、社会の一員として言葉を用いて平和な社會を築いていく必要があるからです。

今の時代は多様化が進み、言葉も乱雑化してきています。ありとあらゆる言葉の使い方をする人たちも増えてきて、本来の意味も湾曲して自己解釈が自由勝手に行われている時代でもあります。言葉が氾濫しているといってもいいかもしれません。本来の意味ももう違う意味で刷り込まれてあまりにも反対の意味になっているものが、そのまま使われていたりもします。

学問をする人たちが、それぞれの場所でそれぞれの道で本来の言葉の意味を真実のままに伝えるしか正統を維持していくことはできません。大事なのは古今の聖賢たちが観ているものを一緒に観続けて精進していくことかもしれません。

引き続き、何が真実であるかを求めて日々に言葉の定義を深めていきたいと思います。