菖蒲の力

先日から湯屋を深めている中で東大寺再建に要する材木調達に従事した人々の保養のために重源上人が創始した石風呂が日本的サウナの起源に近いように感じています。

この石風呂は、石積みや岩窟の空洞を利用したサウナのような熱気浴施設です。その石を薪などで温めてその上に薬草を敷いてむしろを置き、中に入り湯気によって身体を癒します。

材木調達では怪我や事故が多かったため、施浴として開発されたものです。東大寺再建を苦しみではなく、人々の仕合せを願い行う聖武天皇の理念を重源上人は実践したことになります。

その中の薬草の一つに、菖蒲があります。

この菖蒲は、端午の節句などでも菖蒲湯にして今でも風呂につかる文化が残っています。菖蒲湯はその香りによって悪疫を退散させ、菖蒲湯は薬草を入れた温水浴としての民間療法となりこれが年中行事に結びついたとされます。同様の例として冬至の日のゆず湯があります。

薬効としては、ウィキペディアにはこうあります。

「菖蒲にはアサロンオイゲノールという精油成分が多く含まれている。腰痛神経痛を和らげる効果が期待できる店頭で売られている菖蒲は葉の部分が多いが、血行促進や保湿効果の薬効がある精油成分はの部分にあるので、それを望む場合は漢方薬局で相談するとよいまた、菖蒲には独特の香りがある。菖蒲湯にはアロマセラピー効果もあり、心身ともリラックスすることを期待できる」

この菖蒲を、むしろの下に敷くことで体調を整えたのがわかります。特にこの初夏や梅雨の時期は、季節の急激な変化で気温差や雨にうたれることから体調を崩します。その時に、菖蒲の力を借りて身体を回復させより免疫を高めて仕事に取り組むことで元氣を蓄えていたのでしょう。

遠赤外線や間接的な穏やかなぬくもりとこの薬効によって心身を癒すことが、善い仕事、善い暮らし、善い思想を場に創造したのでしょう。

子どもたちのためにもむかしの智慧を復古起新して伝承の価値を実践していきたいと思います。

整うとは何か

先日からサウナのことを深めていますが、その中で「整う」という言葉がよく用いられていることを知りました。この整うというものは、美しく和を保ち清浄であろうとする日本の生き方に共鳴するものがあるように思います。

この「整」うという字の成り立ちは、分けたり束ねたりしてそれを正しくするという意味の字です。そこから、乱れたものをもとの状態にするという意味で使われます。そこから整理、整備、整合性や理路整然、他にも整骨や整腸など身近で使われる整の字から印象が理解できるように思います。

この「整う」というのは、和の家に住めば自然に意識しているものです。例えば、和の家はシンプルに空間がある中で適材適所に道具や装飾が配置されていきます。よく床の間に色々なものを置きすぎてかえって見苦しくなっているところを見かけますがそれも整えば美しい景色を発揮していくものです。

他にも物が溢れてあちこちが散らかっているところにいると、なぜか気持ちもざわついてしまいます。いつも整理整頓されたシンプルな空間には、心が落ち着き、気持ちも安らぎ、自分の状態も穏やかになっていくものです。

私も日常の暮らしの中で、古民家や和の民家の手入れを行いますからこの「整う」というのは非常に大切な実践項目になっています。まず、シンプルに最初の形を決める。その形は、そのものがあるように、そのものが喜ぶように自然に配置していきます。

そうやって配置したものの中に外からたくさんの物が入ってきますが、それを適切に配置するか仕舞い、出番などの準備を決めて片付けます。この片付けるというのは、形を整えるという意味でもあります。

つまり形が整っていくことで、心も整い、精神も整い、感情も整い、自然あるがままの自分が整っていくのです。本来の自分をとり戻すといってもいいのかもしれません。これを平常心ともいい、平静心ともいい、動じずに落ち着いて不動の境地を得ているという状態でもあります。

自然や天候が乱れても、そのうち整い穏やかないつもの天候になっていくように私たちはハレとケという使い方をして日常と非日常のバランスを整わせて暮らしを行います。

暮らしが失われてきた昨今において、整うということはとても大切なことのように思います。今は、乱れやすい環境にありますからそれをどのように整えるかはそれぞれの工夫がより必要になるものです。

せっかく湯屋を甦生しますから、「整うとは何か」ということを探求しそれを形にして子どもたちやご縁ある人々の心の安らぎを提供していきたいと思います。

徳の場づくり

先日から湯屋のことを深めていると、東大寺大勧進職として源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした重源上人に何度も出会います。この方は平安時代から鎌倉時代にかけての日本の僧侶であり俊乗坊といいました。

この人物のすごさはその東大寺大勧進職を引き受けたのが当時で61歳の時、さらには東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があったのをすべて寄付などによって自ら工事の陣頭指揮を執り復興を果たしたことです。

この人物は、浄土宗の開祖法然に師事し中国の宋へ3回も渡航し数々の知識や智慧を習得して帰国されました。造営と信仰を融合し、場によって人々の心を癒し安らげる仕組みで数々の功績を遺しています。

今回、改めて重源上人を知ったのは周防国の阿弥陀寺の湯屋の施浴でしたがこの人物が如何に徳を積み、徳を弘めたのかが伝わってきます。勧進帳にはこう記されています。

「東大寺勧進上人重源敬って白す。

特に十方檀那の助成を蒙り、絲綸の旨に任せ、土木の功を終へ、仏像を修補し、堂宇を営作せんと請う状

右当伽藍は風雨を天半に軼べ、棟甍の竦櫂を有ち、仏法恢弘の精舎、神明保護の霊地なり。原夫れ聖武天皇作治の叡願を発し、行基菩薩知識の懇誠を表す。加之、天照大神両国の黄金を出し、之を採りて尊像に塗り奉る。菩提僧正万里の滄海を渡り、これを崛して仏眼を開かしむ。彼の北天竺八十尺弥勒菩薩は光明を毎月の斎日に現じ、此の東大寺の十六丈盧舎那仏は利益を数代の聖朝に施す。彼を以って此に比するに、此猶卓然たり。是を以って代々の国王尊崇他無し。蠢々たる土俗帰敬懈るに匪ず。然る間、去年窮冬下旬八日、図らざるに火あり。延て此寺に及び、堂宇灰と成り、仏像煙と化し、跋提河の春の浪哀声再び聞え、沙羅林の朝の雲憂色重て聳え、眼を戴いて天を迎げば、則ち白霧胸に塞りて散せず。首を傾けて地に俯すれば、亦紅塵面に満ちて忽ち昏く、天下誰か之を歔欷せざらん。海内誰か之を悲歎せざらん。底露を摧かんより、成風を企つるに若かず。玆に因って、遠く貞観延喜の奮規を訪び、近く今上宣下の勅命に任せ、須らく都鄙をして、以って営作を遂げしむ可し、伏して乞う、十方一切同心合力、家々の清虚を謂ふこと莫れ、只力の能ふ所に任す可し。尺布寸鉄と雖も一木半銭と雖も、必ず勧進の詞に答え、各奉加の志を抽んでよ。然らば、即ち与善の輩結縁の人、現世には松柏の樹を指して比算し、当来に芙蕖の華に坐して結跏せん。其福無量得て記す加からざるもの乎。敬うて白す。

養和元年八月 日 勧進上人重源 敬白 別当法務大僧正大和尚(在判)」

どんなに少ない鉄くずでもいいし、どんなに短い布切れでもいい、みんなでこの東大寺を復興するために協力してほしいと依頼していくのです。これは東大寺建立の初心でもある聖武天皇の『大仏造立の詔』にある「万代の福業を修して動植咸く栄えんことを欲す、もし更に人の、一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情願する者有らば、、」というところを伝承して記されています。

復興を祈願するのに、そのはじまりの目的を甦生させそれを実現させるこの重源上人に深い尊敬の念を感じます。私が現在、取り組んでいる徳の甦生もまたまったくこの人物の取り組んできたことと同じです。古い民家や、日本の民族伝承、それらを復活復興させるために私も建築技術や教育などのコンサルティング、場づくりなどによってその徳を顕現させるように努めています。

私が今度、取り組もうとする湯屋にもこの重源上人の技術を参考にしようと決めました。また各地で取り組み始めた古民家甦生もまたこの東大寺の勧進に倣い、志を立てていきたいと思います。

先人の生き方は、私たちに未来をどうあるべきかを告げてくれます。引き続き、子どもたちのためにも徳のご縁を結び合う場を創造していきたいと思います。

世界のお風呂

昨日までは日本のお風呂の歴史を書きましたが、今日は海外のお風呂のことを深めてみようと思います。

現在、スーパー銭湯やスパ施設に本格的なサウナ室が続々と設置されています。私も出張の時には、たまにサウナを利用していました。温度計だけの狭い空間の中でみんな黙っていつ誰が先に出るのかなどでサウナ常連感を楽しんでいたものです。

しかし今では、サウナや冷水の「温冷交代浴」も流行り、そのサウナを通したリラックス状態のことを「ととのう」といい、サウナ道などというものも出てきてブームが来ています。

このサウナは、現在の情報化社会で運動不足で神経過敏過剰になる今の世の中に適応しているとも言えます。

そもそもサウナ(sauna)という言葉は、フィンランド語です。意味は「蒸し風呂」となります。今から6000年から7000年前にフィンランドのフィン族が開発したといわれます。しかしもっと以前からユーラシア大陸には風呂は存在したことが知られています。サウナの原型や基礎ができたのは今から2000年以上前のフィンランドのガレリア地方だといいます。最初は食料を貯蔵したり、スモークするための小屋が、沐浴をする場所へと変わっていったそうです。

フィンランドでは、サウナは神聖な場所と定義されています。フィンランドの伝統に根付いたサウナは神話にも登場しますし、お産などでも用いられます。人口543万人に対してサウナの数が300万台以上あるといいます。国会議事堂にもサウナがあり、基本は一家に一つは必ずあるような感じです。日本のお風呂に似ています。

フィンランドのサウナ推進組織は、サウナが提供する5つの特長を定義しています。その特長は、①五感で感じること②自分自身に意識を向けること③リラックスすること④身体を清潔にすること⑤心身を健康にすることです。そして伝統的なものであることが言われているそうです。

これは日本のサウナに共通するものがありますが、入り方やそのメソッドまで定義されておりサウナがどのような場であるのかをはっきりしているように思います。

日本との共通点も多く、水着が多いヨーロッパでも裸で入る事、裸の付き合いで親睦を深めること、神聖で清浄な場であること、自然物を用いる事、自分を整える場所であることなどです。

改めて世界との共通点も観え、サウナの魅力を学び直しました。子どもたちが、古来からのお風呂の意味がどのようなものであったのかを伝承し、さらにお風呂のこれからの未来の発展と人類の場として大切な役割を果たしていけるように温故知新したものに挑戦してみたいと思います。

風呂の起源2

昨日からお風呂の起源を書いていますが今度、挑戦し復古創新する「伝統の湯屋」は地下水を使う予定にしています。これは炭でお茶を飲む人はわかると思いますが、同じ水でも炭で沸かした水の細かさと柔らかさ、その湯気の美しさは格別です。そして水道水と地下水では当然、味もまったく変わってきます。

私たちは水蒸気になった空気を、呼吸を通して、また皮膚を通して全身から吸収していくものです。自然の加湿や除湿によって私たちは自律神経を整いますから、湯屋に入ることでそのような神経の乱れを調和させていたのです。

本来の湯屋のはじまりの仏教的な沐浴の意味は、ます「沐」は水を頭から浴びること、「浴」は水に身体を浸けることですがそれ以外にも煙・火・香料などによりけがれを落とすことも沐浴といわれていました。

私たちは清めることと整えること、癒すことなどをすべてこの「水」の不思議な作用を活用していたということです。サウナがここにきて流行ってきているのは、自律神経を整え精神を安らぎ癒すために大きな効果を発揮するからということでしょう。IT化が進み、より脳の一部を非常に酷使する生活の中でどうしても自律神経や交感神経、副交感神経はバランスをとりづらくなります。それをサウナを用いることで脳を癒そうとすることには私もとても共感しています。

さて昨日のブログの続きになりますが、江戸時代の銭湯は上下の別なく、裸の付き合いができる庶民のいこいの場所だったといいます。あれだけの人口で衛生面を維持するためにもお風呂は江戸の要ではなかったかと思います。高温多湿の日本で密集人口の中でいるというのは極めて蒸し暑さを感じるものです。お風呂からあがり団扇でゆっくりと風に涼んでいる様子が脳裏に浮かんできます。

江戸時代は男女の混浴が当たり前でしたが、風紀が乱れるからと幕府から何度も禁止令が出ています。禁止令を何度も繰り返すうちに、次第に男女別や時間帯別などになり、明治に入ってからは完全に男女別のお風呂になったといいます。

ところでお風呂のことを今でも「湯船」と呼ぶのは「湯を張った船」があったころの名残です。これは街中にしかないお風呂を、銭湯のない地域や田舎などの遠くの方々に入ってもらうために昔は船でお湯を提供していたからです。またほかにも街の通行人に入浴させた「辻(つじ)風呂」、そして人の多い場所まで風呂桶を担ぎ樹木の影などに置いて人々を入浴させた「荷(にな)い風呂」などもあったといいます。

ここまでしてでもお風呂に入りたいと思った日本の人たちは、穢れを払い心を洗い清める文化と合致して深くこの沐浴という習慣を愛したのでしょう。その後は明治時代には石榴口は取り払われ屋根に湯気抜きが作られたり、浴槽と板流しを平面にしたり、洗い場も変わっていきました。西洋文化が流入する中でお風呂のこれらの変化を「改良風呂」と呼ばれ人々の間でも評判になったといいます。また大正時代には、より近代化されて板張りの洗い場や木造の浴槽がなくなりタイル張りや陶器になりました。昭和に入り浴室のに、湯と水が分かれた水道式のカランが取り付けられ現代のお風呂の形になっていきます。

改めて、お風呂は何のために入っていたのか。そして今でもお風呂が各家庭にあり日本人が大の風呂好きといわれる理由がわかったような気がします。本来の「沐浴」の意味を復古し、この時代の「湯屋」を新しくする。

子どもたちに大切な文化を伝承するために、本物の日本のサウナに挑戦してみたいと思います。

風呂の起源

聴福庵の離れのお風呂には、禅宗の跋陀婆羅菩薩をお祀りしています。この跋陀婆羅菩薩は『首楞厳経』(しゅりょうごんきょう)に記されている菩薩で、水により悟りを開いたことから禅宗寺院の浴室にはこの像が安置されています。

昨日、あるご縁から日本古来のサウナの甦生に取り組むことになり改めてお風呂の歴史などを整理してみたいと思います。

もともと日本のお風呂のはじまりは、6世紀の仏教伝来と深く関係しています。聖徳太子は仏教を通して沐浴の功徳を説き、汚れを洗うことは仏に仕える者の大切な仕事としてこれを普及していきました。また「温室教」という沐浴の功徳を説いた経文もあったといいます。そこには入浴に必要な七物(燃火(ねんか)、浄水、澡豆(そうず)、蘇膏(そこう)、淳灰(じゅんかい)、楊枝(ようじ)、内衣(ないい))を整えると七病を除去し、七福が得られると記されました。つまり入浴には、穢れを払うだけでなく様々な病を治癒する効果があると信じられていたのです。

今でも奈良の東大寺や法華寺には今でも大湯屋や浴堂が残っています。この時代の家々には浴室などはなく町湯もなかったため、寺院の施浴は宗教的な意味だけでなく有難い施しでもありました。この施浴の仕合せが発展して平安時代の末には京都に銭湯の原型ともいえる「湯屋」が誕生します。

鎌倉時代になるころには、お風呂がある家々ができはじめ「風呂ふるまい」というものが行われたといいます。庶民階級でも裕福な人たちは近所の人々に風呂をふるまったり地方でも村内の薬師堂や観音堂に信者が集まり風呂をわかして入りそのままみんなで宴会をする「風呂講」というものも流行りました。

今では浸かる風呂が当たり前ですが、これまでの時代のお風呂はすべて蒸し風呂のことで、湯気を浴びて湯あみをしたのです。そして蒸し風呂が発展して「戸棚風呂」が誕生します。これは浴槽の底に膝をひたす程度に湯を入れ、下半身をひたし、上半身は湯気で蒸す仕組みです。ここから浸かるといった半身浴がはじまるのです。

そして面白い浴室の工夫には「石榴(ざくろ)口」というものを発明します。つまり湯気が漏れないように入り口を工夫したのです。まず三方はめ板で囲まれた小室に浴槽を置き、出入口に天井から低く板をさげ、そして湯気の逃げるのを防ぎこの板をくぐり出入りしたのです。この柘榴口の名称の由来は鏡を磨くのに柘榴の実を使ったので“かがんで風呂に入る(屈(かが)み入る)”を、“鏡鋳(かがみい)る”としゃれ、「石榴ロ」となったといわれます。江戸らしい言葉遊びです。

そしてついに現代の首まで浸かる仕組みになった「据(すえ)風呂」は慶長年間の末頃に現れます。この据風呂は蒸気ではなく湯の風呂だったことから「水(すい)風呂」と呼ばれて一般家庭でも広がります。当初は湯を桶に入れるくみ込み式だったものが桶の中に鉄の筒を入れて下で火をたく方法が発明されます。この名称は「鉄砲風呂」とい、江戸で流行ります、そして桶の底に平釜をつけ湯をわかす「五右衛門風呂」は関西で流行ったそうです。

ここまで来るのに約1200年ほどの歴史です。

しかし本来のお風呂の意味をどれだけの人たちが知っているのか、そして今では「サ道」などとサウナ道のようなものも流行っていますが日本人がお風呂を愛する理由を歴史から改めて学び直すことができます。

明日は明治以降、そして海外からの文化が混ざりどのような変遷を辿って変化してきたかを洞察してみたいと思います。

復古創新した、本来のお風呂を探求し子どもたちに風呂の起源などを伝承してみたいと思います。

 

智慧の伝承

智慧の伝承というものがあります。これはすべてのいのちは生まれた環境において自然に知識ではないものが丸ごと次世代に受け継がれていくという仕組みのことです。

私たちは別に誰かに教育をされなかったとしても、言葉や知識を覚えなくても、元来いのちの維持に必要な智慧を自然から感得感受しているものです。

例えば、心臓の動かし方やまばたきの仕方、手足の動かし方など生まれながらに知識がなくてもそれができるようになっています。他にも、親の存在や周囲の環境との相互作用においてそれを参考にしながら自分の中に情報が伝導されていくものです。

誰かが教えなくても自ら主体的に直観的に自然を智慧を伝承していくのです。

今の時代は情報化が進んだこともあり誰もが知識ばかりを探しては、智慧の偉大さを大切にしない傾向が強いような気がしています。知識というものは、誰かが言語化して可視化したものですがそれは過去に発見されたその時代時代の組み合わせによる智慧を表現したものの一つです。

生きものはすべて自然を観ては智慧を学ぶ、そこには過去にはない自由な発想があり未来の可能性を求めているいのちの成長があります。そのようにして何万年も何千年もむかしから私たちは環境に適応しながらいのちを生きながらえて繋いでくることができたのです。

現代のように知識が優勢の世の中では、智慧はますます重宝されなくなってきています。その方が現実的に理論で理解でき、評価され、周りも納得しやすいからでしょう。しかし、智慧こそ本来の生きることそのものに直結しており私たちは直観的に智慧を働かせてこの地球と一体になって暮らしているとも言えます。私たちは知識も智慧もバランスよく活かすことで本来の真実という智慧を学ぶことができたのです。そしてそれがむかしから私たちの先祖が大切にしてきた「暮らしの智慧」だったのです。私が日本の民家の民族伝承を用いて、様々な環境の仕組みや風土を創造するのも元の理由はこの暮らしの智慧と伝承のためなのです。それを古来は、徳といい、道とも呼びました。

子どもたちに最幸の環境を残し譲るためにも教育環境が大切です。そのためにも今を生きる私たちが智慧を感得感受するために自らの好奇心を最大限に働かせ自然から学び、自然と共に歩み、自然の智慧をこの世の中に伝道していくことで智慧そのものの姿に近づいていく必要があります。

まさにこの生き方が、私の感受感得する自然かんながらの道です。

引き続き、子どもたちに備わっている智慧を引き出せるような環境を創造し、新しい時代の風土を道徳や経済を混然一体に組み合わせ智慧のままに子どもを見守る仕組みを伝道していきたいと思います。

徳経済

21世紀の経済システムは、競争の中で個々の利益(得)を優先して欲望を消費することによって発展してきました。資本主義経済やグローバリズムというものは、この損得というものを基準に如何に得をするかということをそれぞれの国家でしのぎを削ってきたとも言えます。

しかし、現在は米中貿易戦争やEUのバラバラな姿を観ていたらこのそれぞれにお互いの国家の損得だけで競争していたらもう世界は成り立たないことを実感します。一つの地球に住み、みんなで大切に資源を分け合っていた太古の時代を懐かしめば、如何に今の時代がそれぞれの国益を優先し奪い合っているのかがわかります。

日本には古来から「知足」という概念があり、奪い合うのではなくお互いが分け合うことで豊かな発展を続けてきた歴史があります。経済の本質は、損得だけではなく「尊徳」であり、その「徳」そのものを大切にすることでお互いに利益を享受し合う関係を豊かにしていくことができるように私は思います。

この「徳」が循環する仕組みが前提にあるからこそ、通貨や貨幣が人々の心を結び、信頼し合い助け合うための信の道具として活用されてきました。今の時代は、目先の損得ばかりが議論の中心になり長期的な視座における尊徳の方は議論にあがることもありません。

それは競争するということが大前提になっており、その中でその競争から離れて降りていくことはその世界から観れば負けを意味するからです。確かに勝敗の世界での一喜一憂は切磋琢磨していく上では大切なものです。しかしその勝敗に固執するばかりに、人類の幸福や本来の目的まで忘れてしまうというのは本末転倒しています。

協力が大前提になっている世界においては、お互いに大切にしていることが「徳」になりますから一人ひとりがみんなで徳を積んでいこうと行動していくことになります。この徳が、実際に経済を活性化させそのプロセスが人々のご縁や結びつきを強くし、関係し合う絆を強くしていたのです。

徳と経済を分けて考えるのではなく、徳経済という日本の伝統の思想を甦生させ今の時代のシステムを見直すことが未来へ生きる子どもたちへの私たち世代の引継ぎであってほしいと願います。

果たして少し損をすることは貧しいことなのか、本当は少し損をすることをみんなが行うことは何をすることになっていたのか。損をしないことばかりに躍起になるのではなく、みんなが損をしてでも大切なものを守りたいというものの中に本当の徳があるのではないか。

そして今の時代に私たちが住む家や食料や、衣服、様々な伝統や思想や文化があるようにそれを残し譲ってくださった方々がいたからなのは自明の理です。だからこそ、損することは長期的には偉大な得になることを大きな個人(公人)としてみんなが見守り育て譲っていくことが本来の個々人に求められていくように私は感じます。

個人個人と自分自分と、我が我がといがみ合うのではなく、みんなで一緒に生きていくことの仕合せや喜び、感謝や共感、共鳴や恩徳を味わい笑い合う世界を自分のできるところから発信していきたいと思います。

縁福の感性

人は、普段では関わらない人たちやその場所、日ごろ接しない業界や仕事に出会うことで自分自身の生き方をブラッシュアップしていくことができるように思います。人間はそれまでに接してこなかった人たちに新たに出会うことで、新しい価値観に触れ自分の今までいた場所をさらに一段階高めてくれるものです。場所が高まれば人も高まりますから場の醸成はまさに出会いによるものであると私は思います。

そして何より人間は価値観によって自分の世界を創造していくことができますから、新しい価値観は新しい出会い、新しい場所はまさに価値観の坩堝です。しかし時代の流れが変わるとき、その潮流が今まではとは異なりはじめたとき、自力だけで新しいステージに立つことはなかなかないものです。人間は過去の成功体験や、自分の価値観の縛りがありますからどうしてもなかなか新しいところに入っていくことができないように思います。新しいことをしているようでも、過去の経験の中での新しいことですからそれは未知の領域ではないことがほとんどです。

そういう時代の節目には、自分を引き上げてくれる出会いやご縁、新たに未知に挑戦しようとする仲間たちの存在が大切になってくるように思います。

今までにはないことをやろうとするとき、大切なのは出会いであることは確かなことです。その出会いをどのように引き寄せていくかは、日ごろの自分自身の努力や精進でありそれを活かすだけの運が必要です。それは本質を磨き続てきたか、どれだけ内省をして自分の初心を高め続けてきたかが問われます。

まさにそれは運を伸ばす力ですが、すべての機会を大切に活かし柔軟に変化する心がけの集積が運を引き寄せていくのです。そういう生き方は、まさになんでも来たものをご縁の福として、そのご縁の福そのもの感謝して自分自身をそのご縁そのものにしてしまうという生き方になっています。

そして誰でも自分の人生で起きるすべての出来事は確かな意味があります。その意味をどのように感受し感得するかはまさにその人の感性次第です。

縁福の感性を持つ人は、常に導かれ自分の道を切り拓いていくものです。

子どもたちのためにも、一つでも生き方の事例がお役に立てるように令和の新たな道を切り拓いていきたいと思います。

自己観照

人は外ばかりを見ては自分というものをなかなか見つめないものです。自分が一体、どういう人間か、そしてどのような人格を持っているのか、自分が求めて望んでいるものが何か、そういうものを自覚していないものです。

その理由は、自分という存在があまりにも身近でありあまりにも傍にいるからです。自分の目を自分で見ることができないように、心臓の鼓動が聞こえてこないようにあまりにも一体化していて自分に意識を集中しない限りなかなか自分というものを自覚しないように思います。

例えば、目を見るときは鏡を見たら目は見えます。鏡は自分というものを映しだして自分の姿かたちをとらえることができます。そして心臓の音を聞くときは、聴診器をあてれば聞こえることもできます。脈をはかれば、心臓の鼓動から自分の体の状態に気づくことができます。

私たちは敢えて自分を観ようとしたとき、聴こうとしたときにはじめて自分というものを掘り下げて自覚することができるということでしょう。

そして自分というものの理解には、周囲の友人や家族、身近な存在によって自覚することもできます。どのような人たちが自分の周りで共に生きているか、どのような志を持つ仲間や友、そして愛し合う人たちと一緒に生きているか。それによってまた自分というものを掘り下げて自覚することができるのです。

私たちは自覚するにおいて大切なのはこの身近な存在を意識することにより自己観照をしていくことができるのです。

自己観照ができると、本当の自分に出会えます。それは色々な言い方がありますが、魂の自分と呼んでもいいし、心の姿と呼ぶ人もいます。自己というのは、私にとっては混然一体の自己の顕現する姿であり万物一体全の一部として存在する自分というものです。

与えられた自分の天命が何に気づき、何処に向かい、何を味わいたがっているか。日々に内省し、反復し、慎独するのは自分という無二の存在を大切にしていくための道の実践であるように私は思います。

出会いやご縁は、自分というものを磨き上げ、自分というものを確かにしていきます。一期一会の出会いに感謝しながら、大切な日々を生きていきたいと思います。