水のように生きる

先日、親友から「至道無難」という言葉を聴きました。とても善い言葉だと思い、色々と調べていると江戸初期の臨済宗の僧侶の名前であることも知りました。その方の代表的な言葉は、「生きながら死人となりてなりはてて、思いのままにするわざぞよき。」と表現します。他にも残した言葉を深めていると、まさにその名前の通りに生きた方だったように思います。禅僧というのは、歴史を省みるとその一生を懸けて自分に与えられた天命を純粋に生き切る見事な人生の方が多いように思います。

はじまりの仏陀は、悟りを開かれるときこう言ったそうです。「奇なるかな、奇なるかな。 一切衆生、悉く皆な如来の智慧徳相を具有す」、そして「一仏成道して法界を観見すれば、草木国土、悉皆成仏」と。

苦行を通り悟りを忘れるとき悟るということでしょうか。元来、私たちには天からの徳性が具わっていてその心のままでいることが悟るという意味でしょうか。これは聴きなれた言葉では「真心のまま」というのでしょうか。

心が感じたものを感じるままに真心で今を過ごしていく、これが純粋に真心からということになっているかが精進であり本来の修行なのかもしれません。修行のイメージが固定概念に縛られると悟りから遠ざかるというのはなんとなく理解できるものです。

この世にある万物は自然であることを尊びます。これを徳ともいいます。自然にしているとみんなが喜ぶのです。私たちはこの世に生をうけてから様々なことを体験します。自分というものを別個に認識し、様々な執着や拘りを持つようになります。それは仕方がないことです。それも体験の一つですから、素直に感謝して承るしかありません。時には、自分が理想としたものであったり、ある時には自分が最も望んでいないものだったりもします。しかし一度きりの人生ですから、そのどれもを引き受けて生きるなかで心の正体が磨かれていきます。自然で生まれて自然でなくなるのはどういうことか。自然に抗うのが人間です。それは記憶を持っているからでしょう。そして体験をするからこそ、私たちは記憶を辿れます。記憶を生きる私たちは記憶を通してあちこち意識を飛ばします。むかし楽しかったことや嬉しかったこと、感動したことを求めては同じように時を超えて体験を求め続けるのです。もはやこれらの本能ともいうべきこの行為のなかにさまざまな迷いが出るのかもしれません。

人間が今に澄み切った心境になっているときはいつでしょうか。それは死んでいるときでしょうか。なかなか人は誰もが本当の意味でのありのまま、あるがままにはいかないものです。それくらい思い込みや刷り込みといった、固定概念のなかで生きてしまうものです。だからこそ、普遍的な道を歩む人はどの時代でもどのような環境でも真心を大切に磨いていきたいと思うようになるのでしょう。

有難いご縁のなかで透明な感性をもっていのちと共に歩み、いのちを充実させて子孫のために今を生きていけたら仕合せです。水のように死んで生きていきたいと思います。

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