志の根

先祖のルーツを辿っていると、壮大な浪漫を感じるものです。かつて司馬遼太郎の本を読んだとき、その浪漫の面白さに心惹かれ歴史の醍醐味を知ったことがあります。その司馬遼太郎の言葉には、学問の本質について記されている言葉がたくさんあります。

「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」

ブログを通して体験を深め、その意味を記していくこともまた学問を磨くためでもあります。物事の実相がよく観えることができれば、真心を活かしていくことができるからです。

またこういう言葉もあります。

「人間には志というものがある、その志が人生の味だ」

人間は同じ人間であっても志が異なります、その志の質量こそがその人の人生の醍醐味になるのです。

「人々にとって、志さえあれば、暗い箱の中でも世界を知ることができる。

どんなに窮屈で暗い中にあっても、志にはなんの影響もないといいます。

「志を守り抜く工夫は、日常茶飯の自己規律にある」

志を立てることができても、それをすぐに引っ込めたり出したりしているうちに人間は自ら立てた志を自ら壊してしまうものです。そうならないためにも、日々に自らに約束したことを自らが貫徹して守ることで志は守られていきます。

「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、 いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、 その目的の道中で死ぬべきだ」

「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。

「業なかばで倒れてもよい。そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ。

志を優先して生きることが、人生を面白くするということを述べています。まさに志のままに歩むことは、自分の天命を知り天命に任せて生きるということかもしれません。

最後に、歴史についてこう語ります。

「私は歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。歴史とはなんでしょう、と聞かれる時、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」と、答えることにしている。私には、幸い、この世にすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。そこには、この世で求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。」

ここで司馬遼太郎さんの志に触れられたことに感謝しています。根っことのつながりが一体どういうことを意味するのか、私も子どもたちのために書き遺していきたいと思います。