伝道の歴史

現在、日本の法律によってあらゆるところに歪が出ています。それが産業構造に大きな影響を与えています。規制したことによって、ある人たちは既得権益が出ますがそれによって社会や自然にも大きな害が発生してもその声が既得権益の大きさによってつぶされていくのです。

これは環境問題もほとんど同じですし、身近では空き家の問題や耕作放棄地の問題も同様です。実際に病気であれば、病気になるような環境があるなかでそれをなんとか治療しろという具合ですから根源的には治癒することはありません。

対処療法で少しうまくいけば、国がそれを取り上げて莫大な費用をかけてそれを標準化しますが根本的な解決になっていないためまたすぐに次の問題が発生し違う既得権益を得る構造が発生し元の木阿弥です。

空き家で例えれば、新築を建てることを国も不動産も建築業者も優先します。すると新築を建てるたびに空き家が増えていきます。当たり前ですが、作るから前のが使われなくなるのです。そして中古物件といっても、現代住宅は長期的に使うようにではなく使い捨てるようなつくりをしていますから直すにもきちんと直せません。費用も高く、新築を建てる方がいいとなるのです。

これは消費文明の特徴であり、大量生産大量消費することで経済を発展させてお金を常に稼ぎ続けなければ国家が維持できないからです。自転車操業のように走り続ける仕組み、そしてそれを支えるための法律、そういうものがある中で、自転車を止めましょうといっても誰も止めません。その自転車を工夫してうまく走らせるようにみんな知恵を絞ります。前提となっているそもそも自転車を走らせるのを一度、止めてみようという選択肢はないということです。前提になっているものは無視をするというのが歪みの実態でもあります。見たくないものはみんなで見ないようにする。暗黙の了解でそれは無視して通り過ぎるようにする。そのための知恵を絞っています。

しかしいつまでも人類全体で本当はそんなことに知恵を絞るのがいいことなのか、それが最先端だと注目されることが果たしていいことなのか。

人類本来の知恵は、過去の歴史に学び、みんなで今を決断することだと思います。そのために必要な知恵は、気づいた人が決断した生き方をして背中を見せることです。一人が気づけば、さらに別の一人が気づきます。そうやって気づく人が増えていけば、次第に気づく人たちが根源的な問題を発信しはじめます。

最初は既得権益がある人たちから邪魔者扱いされますが、それも時代の限界がきますからそうなったらみんな方向転換をします。問題は、時代に左右されず本当のこと、本質をやり通す覚悟です。

対処療法を止める方法は覚悟しかありません。そして覚悟は勇気が必要です。勇気を出すことで人は方向を何度も換えてきました。そういう先人たちの生き方を倣い、今の時代だからこそ子孫や未来のために今しかできないことを一人一人の立っている其場所で実践していくのです。

私も実践を深め、一人正対して取り組んで気づきを伝道していきたいと思います。

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。

仕組みと伝承

時代の変遷と共にあらゆる定義もかわりますが役割も同時にかわってきます。ちょうど、今週は鏡磨きのこともあり江戸時代くらいからのことを調べる機会が増えました。その中で、殉死というものがあったり、襲名など、そのころの特徴を考えることがありました。

今ではありえないことですが、その当時であれば当然だった背景には時代の価値観があったことは間違いありません。殉死であれば、戦国時代前からの死を共にするという忠義の思想があったこと。死が当たり前に身近にあったからこそ、真摯に生きるための仕組みとしての殉死があったように思います。あた襲名もまた家という仕組みで一族で助け合い生きる、またどのように生きるのかといった生き方も守ってきた価値観があることがわかります。一家の恥じや一家の名前に泥を塗るという言葉もあるようにその家に関わる一人がやったことは家全体に影響を与えました。それだけ家督というようにすべての家のことは一家長の責任であったことも観えてきます。

現代では、家や父親の役割なども変化してきました。昭和の頃、私が覚えている範囲でも祖父は厳格で怖い存在でした。祖父を中心に親族が集まり、法事を含め年間行事もたくさんありました。しかし祖父が亡くなってからはその仕組みもなくなり、たまに集まってもむかしのような形式的なものではなくなりました。

こうやって時代の背景と共に価値観も変化し、それまでの仕組みも変化してきます。この仕組みの変化というものを感じている人は少ないように思います。本来、私たちは時代の変化と呼んでいるものはこの仕組みの変化と価値観の変化が大きいように思います。

時代が変わるのは、それまでの仕組みが変わるということです。

仕組みが先にかわり、次第に環境に影響を及ぼし、そして価値観を換えていきます。そういうものをよく見抜いてこの先、どのように振る舞うか、そしてどのように予測するのかを省みるのです。

現代は、コロナで仕事の仕組みも変わりました。そして人との接し方も変わりました。それがどのような変化になっていくのかを予想していくことは大切なことです。時代の変化に順応するところと、時代を新しく創っていくこと。自分たちがどんな時代にしていくのかという仕組みの中にこそ知恵があります。

子どもたちに遺したい未来を伝承創造していきたいと思います。

徳の循環する世

世界中で気候変動の影響を感じる映像が出てきます。どこかで大雨が降ればどこかが干ばつになります。地球は一つとしてバランスをとりますから、環境が変わっていくのは今にはじまったことではありません。

どの国境でどの立地にあるかで私たちは住みやすいところもあれば住みにくいところもでてきます。ある場所は極寒の地、またある場所は砂漠、またある場所は火山や湿地であったりもします。人類は、その場所を離れていくものもあればその場所で知恵を出し工夫して順応したものもあります。それもまた選択の歴史であり、今も私たちは新たに選択を迫られています。ひょっとしたらこの先、地中や地球外、あるいは仮想空間などに移動していこうなどという未来もあるかもしれません。栄枯盛衰、これは自然の摂理です。どの時代、どの場所にいても、如何に自然と共生していくかは私たちの使命でもあります。

そして環境の変化で大変苦難の時代があったとしても、人類はその中でも仕合せを求めて生を全うしていきました。私たちの生命はどんな環境下であっても仕合せに生きているものもあれば、その逆もあります。大事なのは、使命を全うするということです。

そして使命を全うするには自分というものを知る必要があります。自分を知るには、自分の根を知る必要があります。根は地球につながっているところに存在します。まるで先祖から今の私たちに結ばれているように根もまた張り巡らせています。

まさにこの時代、この変化の時をどのように協力して乗り越えていくか。自立分散型、いわゆるDAO的なつながりのなかでどうみんなで調和していくか。太古の時代から、私たちは「和」にその解決法を見出してきました。人間も喜び、また自然も喜ぶ道。かんながらの道です。

私が思う、自然との関わりというのは、私たちの暮らしを本来の全生命が喜び合えるものに還るものです。それは徳が循環するような世の中にしていくことです。これをもう忘れてしまっている現代においては、何が自然を喜ばせるのか、そして自然とは何かというところの定義から学び直す必要があります。

暮らしフルネスはその道に入るための一つの扉です。

子どもたちに、いつまでも仕合せや福が結ばれていくように徳の循環する世の中に近づけていきたいと思います。

歴史を前に進める

過去の歴史の中には、時が止まっているままのものがあります。本来、何もなかったところに人が物語をつくります。そしてその物語は、そこで終わってしまうものか、それとも続いていくものか、もしくはまた再開させるのかはその歴史の物語を受け継いだ人の判断になります。人は、このように自由に時を止めたり動かしたりしていくものですがそれは物語の中にいる人たちでしか繋いでいくことはできません。

いくら文字でそれを知識として分析しても、それは止まった歴史です。生きている歴史は知識ではなく知恵として受け継がれていきます。歴史を受け取った人のその後の行動で甦生するからです。これを遺志を継ぐともいいます。

その前の歴史がどのようなものであったか、それを学んだ人がその歴史を前に進めていきます。その人が進められるところまでを進めたら、それを継いだ人がさらに前に歴史を進めます。こうやって過去にどのような悲しい歴史があったとしても、それを転じてそのことによってさらに素晴らしい未来が訪れるように歴史を変えていく人たちが現れることで過去の歴史も肯定されます。

この時、悲惨な歴史も未来がそれによって善くなっているというのならただ可哀そうな存在にはなりません。後世の人からは感謝され、大切に思われ、偉大な先祖であったと慕われ尊敬されることもあります。しかし時を止めたままにしたり、悪いことのままで終わらせてしまうと人は歴史に学ぶことができません。

世の中には終わらせてはいけない大切な知恵が入った歴史がたくさんあります。私の周りにも、子孫の仕合せを願い取り組んできた先人たちの想いを深く感じるような場所がたくさんあります。

その方々からの遺志を感じ、過去の歴史の続きを紡いでほしいといった願いや祈りを感じることもあります。今の私をはじめ、私たちが生きているのは先人たちが人生をかけて大切ないのちを使ってくださっているからでもあります。

その願いや祈りは、世代を超え、身体をこえて伝わっていくものです。これを伝承ともいいます。伝承するというのは、歴史を生きてその歴史をさらに善いものへと転換していく私たちの生きる意味でもあります。

自分のことばかりを考えて、世代を省みて未来を思わなければ歴史はそこで途切れてしまいます。自分の中にあるあらゆる想いや祈り、そして願いを忘れず一つ一つの歴史を丁寧に紡ぎ修繕し、お手入れしながら子どもたちに譲っていきたいと思います。

むすびの真心

昨日は、カグヤの初心会議のワークショップで「むすび」の体験をみんなで行いました。具体的には、合気道の極意に触れるような体験をいくつか行いました。現代は、型を中心に形式的なものが武道になっていますがどの武道も突き詰めれば戦わない知恵を極めたもののように私は感じます。

矛盾ですが、戦わないで勝つというのが真の勝利ということでしょう。我をぶつけ合い、感情や闘志を戦わせるのは周囲は興奮しますがそんなものは本当の力ではないということでしょう。本当の力は、大切なものを守るためのものでそれはすべて生き方に関係しているようにも思います。

私たちにはもともと「軸」というものが具わっています。この「軸」は辞書では車の心棒、回転の中心となる棒。また 中心や基準となる直線。そして物事の中心、大切なところと記されます。

軸が定まっていないと、色々なことに振り回されてしまいます。言い換えれば、軸がどこにあるかで自分がブレなくなるのです。むしろ、周囲のブレの影響を無効化することもできます。

敵対関係というものも、敵にならなければ無敵です。

この無敵というのは、最強の力を獲得したから無敵になると思い込まれていますが本来は読んで字のごとく敵がいなくなるから無敵です。以前、木鶏の実践を学ぶ中で無敵になることを説明されている故事を知りました。闘鶏の話でしたが、最後は木鶏になり無敵になったということです。

これを同様に、軸を立てることができそしてむすぶことができるのなら私たちは無敵になるということです。無敵になることが目的ではなく、むすびの生き方を実践することが大切だということでしょう。

様々な他力や様々な自他一体の実践によって、大いなる一つの力そのものとむすばれていく。我を通そう、自分の力だけに頼ろうとすることは力を働かせたのではなく、力は偉大なるすべてのいのちを活かすときにこそ発揮されるということ。

頭でわかるのではなく、それを日々の暮らしや実践の中でととのえていくことが大切であることを学び直しました。暮らしフルネスに通じる体験で、すぐに取り入れられるものばかりでした。

子どもたちに、先人の生き方、その知恵を伝承していきたいと思います。

子ども第一義とは

私たちは幼い頃からあらゆるものの真似をして成長していきます。周囲を観ては、その環境をはじめその環境に適応した生き物たち、あるいは親や周辺の大人、そして兄弟姉妹の姿から学びます。この学ぶということの語源は、真似ぶからという説もあるのがわかります。

そう考えたときに、私たちは子どもたちにとってもっとも大切にしないといけない教育環境は真似されるものかどうかということです。そして真似されるということは、それだけ周囲が魅力的であるか、そして真似したいと思われるような生き方をしているかということは重要です。

子どもたちがあのように生きてみたいと憧れるような存在があればあるほどに、子どもは自らの可能性や夢を拡大していくことができます。つまりは目標として憧れ、そこに向かって真似してみようと思うようになるということです。

この子どもの憧れというものこそ、子ども心の正体でもあります。

子ども心というのは、別の言い方では好奇心ともいいますが子どもがワクワクしたり目がきらきらして夢中になり没頭できるものとシンクロしているということです。これは幸福感を感じているのであり、生まれてきた喜び、自分の使命に直結して全体と結ばれ存在を全肯定できている状態ともいえます。

いのちというものは、そのままの存在でそのままに役立て、そのままで喜べるとき私たちはいのちがイキイキと輝きます。いのちが充実している姿のことです。現代では、何が幸福で何が不幸かもその定義もお金や地位や名誉、財産を多く持っているか、五体満足かどうかなど色々と欲望の話が中心です。

しかしすべての生命やいのちや存在は、ありのままで自然、あるがままで仕合せを感じられるように完全無欠で誕生してくるものです。そこにみんなで近づいていこうと自然界は共生しています。人類もまた同じように、技術や知識で進化したとしても根本的には何も変わっていません。人類の本質や幸福というものは、時代が変わろうが世界が変わろうが普遍的です。

だからこそ私たち、今を生きる大人は子どもの憧れるような生き方と働き方をしているかどうかが常に問われるように思うのです。私がカグヤで子ども第一義の理念を掲げ、働き方と生き方の一致を実践するのもすべては子どもの未来から逆算して今を想像するためです。

たとえ今の時代、それが不可能のように見えても子どもの未来を思えばそれに挑戦する価値があります。暮らしフルネスもまた、それを実現するための挑戦に他なりません。

改めてお盆休みを豊かに暮らしていると、子どもの憧れる未来に思いを馳せます。今の自分の生き方を内省して、襟を正して社業を取り組んでいきたいと思います。

戦争の本質

戦争の足音が少しずつ身近に迫ってきています。こういう時にこそ歴史を直視して、なぜ戦争が起きるのかということを見直す必要があるように思います。私たちは、戦争は国家が起こしているもののように思っています。しかし、この国家というものの正体はとても曖昧なものです。

そもそも集団というのは曖昧で、集団をコントロールするものがあってはじめて集団は存在します。人々は集団ではなく一人一人の意思があって存在するものです。その一人一人の意思があれば戦争は未然に防げるものです。

もっとも危険なことは、集団に依存し一人一人が考えなくなることかもしれません。一人一人が、真摯に考えて戦争の意味を深めていけば誰かの操作されることもコントロールされることもありません。

戦争は人間が起こすことだからこそ、人間がなぜ戦争を起こすのかを深く見つめる必要があります。誰かの利益が誰かの不利益になるからこそ、利益を得たい人たちが戦争を利用するともいえます。その戦争を利用する人たちが、国家というものを持ち出し、国民を使って利益を確保しようと戦争にしていくのです。

利益と不利益、争いはいつまでもなくならないのはその権利を奪い合う構図がなくならないからです。哲学者のサルトルが、「金持ちが戦争を起こし貧乏人が死ぬ」とも言いました。

権力者になるということが戦争をいつまでも終わらせないのです。そして守るための平和、平和であるための武ではなく、武を権力を維持するために使うのが戦争なのです。動物たちが行う戦争は、あくまで生きるため、そして守るためです。権力を永遠に維持するためではありません。

ダライラマ法王はこういいます。「たいていの軍事行動は、平和を目的としています。しかし現実の戦争は、まるで生きた人間を燃料とした火事のようです。」と。

ひたすら燃料を投下しては、燃やしていく。何のためというと、そこに権力や利益があるように思います。そして内村鑑三はこういいます。「戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとはかつて一度もあったことはありません。」

生まれたばかりの赤ちゃんが戦争をしたいとはいわないものです。誰かに助けられなければ生きてもいけない自分が誰かを殺そうとはできないはずです。助けてもらってこの世に私たちは存在しているともいえます。

助けれてきたいのちだからこそ、助け合う社会をつくることが仕合せになります。産まれたままの赤ちゃんのまま死ぬまで助け合って生きられたらそれが平和であろうと思います。

原爆の日である今日は、なぜ原爆がつくられ落とされたのか、色々と考えを巡ります。子どもたちのためにも平和について伝承していきたいと思います。

 

屈原と真心、粽の祈り

先日、粽(ちまき(のことを深めていたら中国の屈原という人物のことを学びました。もともと端午の節句の食べ物として慣れ親しんできましたがその理由についてはあまり調べていませんでした。時期はズレていますが、少し紹介したいと思います。

もともとこの端午の節句や粽(ちまき)中国の故事にある楚国の詩人屈原(くつげん)の死を供養するためにはじまったものです。この屈原は、王様の側近でしたが陰謀により国を追われ悲観しついには河に身を投げてしまいます。この屈原の命日が5月5日でその屈原の死を嘆いた人々は米を詰めた竹筒を投じて霊に捧げました。理由は屈原の肉体が魚に食べられないようにという意味もあったそうですが同様に河に住む竜に食べられないようにと竜が嫌う葉で米を包み五色の糸で縛ったものを流し供養したといいます。

この風習が日本へは奈良時代には伝わり平安時代では宮中行事になったといいます。他にも神功皇后が三韓征伐の時持ち帰ったとも言われたり仁徳天皇の時代にちまきが宮中に献じられたと言う話、他にも伊勢物語や古今和歌集などに記述があるなどとあります。この「ちまき」と呼ばれるようになったのは、茅(ちがや)の葉が使われたことからつきました。

現在は笹の葉を巻いていますがこれも武士が戦に行く時にもっていくときに殺菌効果もあり腐らないからというのもあります。屈原との縁起を持つこともあったように思います。

では、屈原どのような人物であったのか。日本でいえば吉田松陰に似ているような気がします。澄んだ心で権力に媚びずに王と故郷を守ろうと真摯に忠義を貫きました。王が暗君でも政治が乱れていても、変わらずに自分の言葉と実践を大切にされました。別の言い方では、魂を守り生き方を優先した人生でした。その姿をみた国民や周囲の人々から深く愛され、亡くなってからその真価や徳が顕現した人物です。

自分に素直に生きていくことはもっとも価値があることです。しかし時としてそれは世の中が乱れているときは不器用な生き方です。もっとうまく生きていけばいいという声もあるでしょう。しかし、人生は一度きりですし自分も一人きりです。だからこそその人生おいて、魂を優先して歩み切ったのでしょう。

その清々しい姿、澄んだ真心に人々は心をうたれ歴史の中に生き続けて今もあります。粽はその生き方を尊び、最期まで自分を盡すことができるお守りでもあったのかもしれません。先日のソクラテスも同じですが、この世の自分を守るよりも真の自己を守る生き方。魂を研ぎ澄ませるような美しさは、私たちに目を覚まさせる力を持っています。

最後に、屈原の残した言葉です。

「この世すべて濁るとき、清めるは己れだけ、人々みな酔えるとき、正気なのは己れひとりだけ、されば追放の身となった。」

今の時代も通じることですが、先人の生き方から学び、暮らしを観なおし続けていきたいと思います。

知恵風の知識

ソクラテスという人物がいます。わかっている範囲だと、古代ギリシアの哲学者。アテネに生まれる。自分自身の「魂」(pschē)をたいせつにすることの必要を説き、自分自身にとってもっともたいせつなものは何かを問うて、毎日、町の人々と哲学的対話を交わすことを仕事とした人とあります。

有名な名言に、「無知の知」や「徳は知である」などがあります。特にこの「無知の知」(または「不知の自覚」)は自分に知識がないことを自覚するという概念のことです。

これは「自分に知識がないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い」という意味です。これはある日、友人のカイレポンから「アテナイにはソクラテスより賢い者はいない」と神託があったことを知り、自分が一番の知者であるはずがないと思っていたソクラテスはその真意を確かめるためにアテナイの知識人たちに問いかけを繰り返していきます。そしてその中で「知恵があるとされる者が、必ずしも本物の知恵があるわけではない。知らないことを自覚している自分の方が彼らよりは知恵がある」と気づいたという話です。

私はこれは知識の中には知恵はなく、知恵の中にこそ真の知識がある。みんなが知識と思っているものの中には知恵がなかったということでしょう。

これは現代の風潮をみてもわかります。最近は特に、自分で体験せずに知識を得たい人が増えています。実践も体験もせず、気づいたこともなく、気づいた気になれるもの、わかった気になれるもののためにお金を払って知識を購入しています。

お金持ちは時間がもったいないと思い、体験しなくてもその知恵をお金で買おうとします。しかしその知恵は、知恵と思い込んでいるもので本当の知恵ではなく知識です。知識を知恵と勘違いしているからそういうことをしようとします。

オンラインでの講習会や、流行りの講演にいっても知恵のように知識を話していますがその知識は使おうとすると知恵が必要です。しかし知識が知恵になることはなく、知恵だけが知恵になるものです。知恵は知識にはなりますが、それはあくまで知恵を知識にしただけで知恵ではありません。

なので知恵者とは、徳のある人物のことであり、徳を生きるものです。これは世の中のハタラキそのものが知恵であるから使えています。

例えば、二宮尊徳はある知識のある知識人が訪ねてきたときに「お前は豆の字は知っているか」と尋ねた。それでその知識人は紙に豆の字を書くと、尊徳は「おまえの豆は馬は食わぬが、私の豆は馬が食う」と答えたという逸話があります。

これは知恵についての同じ話です。

私は本来の革命は、知識で起こすものではなく知恵がハタラクものであると思います。人類を真に導くには、文字や文章、言葉ではなく知恵が必要なのです。知恵風では真に世界は変革しないと私は経験から感じています。私が「暮らしフルネス」にこだわるのもここがあるからでもあります。

生き方と働き方というのは、単に知識で理解するものではありません。体験して気づき実感して真似ることで得られます。子どもたちのためにも、今日も実践を味わっていきたいと思います。