故郷の徳を磨く

昨日は、私の母校の庄内中学校の生徒たちと鳥羽池のお手入れ、ゴミ拾いを行いました。前回は、バスケットボール部が中心に行いましたが今回は生徒会が中心に声掛けをして80名以上の有志が集まりお掃除を行いました。

休みの日の初日に、これだけの生徒が集まってみんなで主体的に掃除をしましたからその熱気や熱意は相当なものでした。私たちは、ゴミ袋に入らないようなものを軽トラックで伴走しながらお手伝いしましたが普段拾うことがないような工業ゴミや自転車、タイヤなどの粗大ごみもたくさん拾うことができました。

この池は、ブラックバスが良く釣れるということで釣りの人たちがたくさん来ます。ルアーをはじめあらゆる釣り具が捨ててありましたがそれで怪我をして生徒もいました。きっとすべての釣り人が捨てているわけではなく、一部の人たちによって全体の釣り人の評判が下がるのはとても残念なことです。自然を愛する人たちは、自然を汚したりゴミを捨てたりすることはしないように思います。みんなが気持ちよく、自然を楽しめるように配慮していただけると鳥羽池も喜んでくれるように思います。

ゴミで多かったのは空き缶など、そのほかには生活ごみです。ゴミ箱に捨てるのが面倒だったのか、それとも捨て方がわからなかったのかその辺に投げ捨てているものがほとんどです。粗大ごみにいたっては、きっとお金がかかるとか面倒という理由で池に投げ捨てたのでしょう。冬の間に水を抜くことで、ゴミが捨ててあることに気づきます。

この池は、冬鳥たちや渡り鳥がたくさんきます。年中、色々な鳥たちが憩いの場になっています。魚をはじめ亀なども多く、小春日和や秋の夕暮れなどは幻想的で自然の美しさにうっとりします。自分の故郷や町にこのような場所があることで、心のゆとりや余裕もうまれます。朝夕、散歩の老夫婦をはじめランニングをする方々もたくさんいます。私の父も、桜を守っていて蔓などが桜を枯らさないように見守っています。

みんなが愛した場所は、愛したように場所が美しくなっていきます。

場というものは、本来はみんなでお手入れして守っていくものです。お手入れとは、心のお手入れでありそして場所のお手入れです。このお手入れとは、いつの日か必ずこの世から存在が消えてしまうものだからこそ勿体ないと丁寧に少しでも寿命が長く持てるように愛していくことです。

そうやって愛されたものは、そのままにその愛を周囲に恩返ししていきます。私は古民家甦生をしていますから、それがよくわかります。古く長く大切にされてきたものは、みんなから愛されてきたものがほとんどだからです。

生徒たちが中心になってこのような活動を故郷で行っていくことは本当に素晴らしいことと思います。こういう活動がいつまでも続き、そしてその生徒の姿をみて大人たちがもっと変わっていけばいいなとも感じます。子どもたちに恥ずかしくないような大人でありたいと思います。

これからも故郷の徳を磨いていきたいと思います。

日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。

備えを怠るな

昨日は、秋月の鎧揃えの武者行列に参加してきました。今年で2年目になりますが、この行事を甦生させた方々の想いや願い、そして努力や苦労、意味を感じる機会になりました。

もともと関わる切っ掛けは、秋月和紙の井上さんからのご紹介でした。井上さんは伝統の和紙職人であり、生き方をはじめこの土地風土を大切になさっている方です。侍とは何か、武士とは何か、刀を振るわなくても生き方の中に侍も武士の魂も持っておられます。

私は有難いことに、伝統的な民家の甦生や文化の甦生などにも関わりだしてから先人からの知恵をつないだり結んだりする方々に多く巡りあう機会をいただいています。

先祖を尊敬したり、先人へのご恩を感じたりすればするほどに何か自分もその徳に報いたいという気持ちが湧いてきます。今の自分の中には、その方々の心が共に生きているかのように感じるものです。

そもそも誇りやプライドは、単に自分を大きく見せたり恰好をつけたり自信を持ったりするものではないように思います。感謝であったり、謙虚さであったり、信念であったりと自分らしく自分を生き切り、生き方が自然に表に滲み出てくるものです。

素晴らしいと思うのは、陰ながらいつもその誇りを自立し守り続けている人たちです。

私もこの行事に参加しながら仲間や先輩から生き方から学び、大切にしている心を守り共にしていきたいと感じます。一年に一度の行事というものは、また次の一年に向けて精進して準備をし迎えます。私も自分を専念していますが、その思いや真心、また共に志を保ち、同志や仲間が安心して生き方を貫けるように心から応援していきたいと思います。

はじまりのご挨拶にもあった、「備えを怠るな」の言。

肝に銘じます。

いつも貴重な機会をいただき、ありがとうございます。

子どもたちのためにも懐かしい未来を繋いでいきます。

本来の子孫

私の志は子どものためです。この子どもは、子孫とも言いかえれます。自分がここまで生きてこれたご恩に対して報いたい、そういう感謝の気持ちがあります。同時にこうしてくださった親祖から先人たちへの尊敬と感謝もあります。続いていくもの、繋がっているもの、結ばれているものに永遠の徳を感じるからです。そういうことから、私は初志や理念を子ども第一義と掲げてきました。

しかし周囲は何のために今、これをやっているのかというのはそんなに見えません。やっている行為や具体的な事象のことから、きっとこうだろうやああだろうと決めつけられそういう人になっています。そのうち、勝手に期待されたり噂されたりするものです。そのほとんどは当たっていないのだから気にはしないのですが、人間は周囲や身近な人が影響を受けると悲しくもなるものです。

江戸時代の儒学者に佐藤一斎がいます。この方の言志四録は、西郷隆盛、吉田松陰なども座右のように学んだとあります。その言葉には、志を貫くために必要な知恵がちりばめられています。私も海外に留学するとき、または仕事をはじめてすぐのころは何度も読み返していました。しかし、壮年になった今でもその知恵は燦然としています。

志は、自分自身が見失いそうになるものです。それだけ目の前のものや周囲の言葉、心の安逸に流されていくからです。志を立てているからこそ悩み悶えます。しかしその時こそ志は成長し、磨かれ、研ぎ澄まされていきます。まるで人生の砥石のように志が自分を研いでくれます。

子孫のためにと取り組むとき、大切な知恵が言志四録の89条にあります。

「当今の毀誉は懼るるに足らず。後世の毀誉は懼る可し。一身の得喪は慮るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」

これは自分自身に対する世の中の評価などは恐るに足りないが、後世までもその世の中の評価が遺ることは恐ろしいことだと考えなければなりません。自分自身における利害得失などは心配しなくてもいい、しかし子孫の代までの利害得失はよく考えなければなりませんと。

子孫のためにと決めているのなら、今の時代の自分のことなどはたいしたことではありません。だからこそ今の世の中の評価や嘲笑など気にはせず、至誠を貫きなさいということです。

私が尊敬する吉田松陰も、そして二宮尊徳も同じように先の時代を見据えて、その時代を生き切りました。私も心に同志がいますから、同じように生きたいと願っています。競争や比較、そして評価にさらされてきた子ども心はそれだけ世の中を気にする人を増やしてきました。

そうではない世の中にしようと社業を立ち上げ、今では徳を立てようとしています。それは社会がよくならなければ、子孫を守ることができないからです。自分の子孫ではなく、世の中の子孫が本来の子孫です。

世界の子どもたちは今、どうなっているのでしょうか。

子どもの純粋無垢な心はどれだけ尊重される世の中になっているでしょうか。子孫たちの繁栄を願う時、私たちは両親の慈愛の真心に触れるものです。

古の同志の言葉に救われながら、この道をまた一歩踏み出していきたいと思います。

いのちのバトン

いのちのバトンというものがあります。私はよく誰かのバトンを受け取ることが多く、後を任せて託されることばかりです。そのバトンは生前ほとんど関わっていないのに託されいなくなったあとに深い関係になり親しくなるバトンもあれば、長い年月、ご指導していただきその教えを学びそれを実践するなかで託されるバトンもあります。他にも、一度もお会いしていないのになぜか同じことを同じ場所で託されているバトンもあります。

このバトンは、リレーで使う棒のことで他には指揮棒や杖などの意味もあります。これを渡され次の人に渡してはじめてバトンはつながれていきます。バトンは、次のことをするから渡すバトンもあれば身体がなくなるから心で一緒に歩んでいこうとするバトンもあります。どちらにしても、バトンにいのちが宿っています。そのいのちのバトンを託されたものと託したものはいのちを分かち合い共に歩み続ける関係であるのです。

バトンを渡したらあとは関係がないということではありません、またバトンを託されたら託した人はいなくなったのではありません。これは一蓮托生になったということです。この一蓮托生は、仏教の言葉で死後、極楽浄土で同じ 蓮華の上に生まれることを指します。この意味が転じて、ものごとの善悪や結果のよしあしに関係なく永遠に最期まで行動、運命を共にすることをいいます。これはいのちがつながりが永遠になっているということです。

よく考えてみると、人のご縁というものはそういうものです。

今の自分はいのちのバトンをつないでいただいた存在としてこの世に生を受けます。そして死後もまた自分のバトンを誰かに託して共にいのちを分け合い存在し続けていきます。いくら頭で忘れても、いのちのバトンを託された中で暮らし続けています。

私たちが使うこの言葉や文字、そして生活文化、あらゆるものはいのちのバトンを託されたものです。それを私たちは頂戴しながら道を歩み続けます。

もしも自分がいなくなってもよろしくお願いしますと、頂いた偉大な恩恵や光を多くの人たちに渡していきます。そうやって道を照らし道統を継いでいくのです。

それが道の偉大さであり、いのちのバトンの有難さです。

私も偉大なメンターを今年の7月に亡くしました。15年以上、有難いご指導をいただき見守ってくださいました。今でも目を閉じればすぐに心に存在が映り声も聴こえます。不思議なことですが、この世を去られた瞬間にご指導いただいた長年の言葉や意味が自分そのものの言葉や意味になりました。まるでいのちが一つになったかのような感覚です。今までその人の言葉と思っていたものが、自分の言葉と和するのです。これがバトンを託される感覚なのかと改めて直観しました。

このいのちのバトンというものの本質は、バトンこそいのちであるということかもしれません。

人間は無私無我の境地で悟り、存在そのものに意識を合わせればそこにあるのは「いのちのバトンのみ」です。これからの私の役割もまた、そのいのちのバトンと共にあります。

いただいたご縁に深く感謝し、私の役割を精いっぱい果たしてまたあの世とこの世に報徳と朗報を伝道していきたいと思います。

節目は終わりではなく、新たなはじまり、これからも共に精進せよということです。今までご指導に心から感謝しています、そしてこれからも新たによろしくお願いします。

一期一会

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

掃除の功徳

昨日は、英彦山の守静坊の庭池の掃除を仲間たちと一緒に行いました。いつも思うのですが、みんなで一生懸命に協力して取り組んでいると知恵もでて作業もはかどります。

作業のあと、みんなで食べるご飯が美味しくいつも清々しい気持ちになります。今回は、畑で収穫したさつまいもを私が炭焼き芋にしてエバレットさんはお手製のお味噌汁を振る舞ってくれました。

秋晴れで紅葉づいた青い空の下でみんなで囲み団欒をする喜びは格別でした。

釈迦に掃除の功徳というものがあるといいます。

1. 自身清浄(自分の心が清められる)
2. 他心清浄(他人の心まで清めることが出来る)
3. 諸天歓喜す(周囲の環境が活き活きしてくる)
4. 端正の業を植ゆ(周囲の人の心も物事も整ってくる)
5. 命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後、必ず天上に生を受ける)

というものです。まさにこれは徳の循環であり、功徳の本質が記されます。

どのようなものを磨いているのか、何のためにやっているのか、そしてこれがどんな意味があるのか、それは磨いている人が気づくものです。自らの人生の一つの道を歩む心得としての魂を磨いていくという実践。

いつの時代も同じように生きた人たちがまさにここに挑み、人格を高め、世の中の大切な役割を担ってきました。誰もがやることではなく、誰もやらないこと、誰も気づかないからこそ人知れず磨くのです。

仕合せというものは、足元の宝に気づくかどうかです。その宝は、足元を磨くかどうかともいえます。掃除の有難さは、足元に気づく機会を与えてくれることです。遠くばかりをみて、周囲ばかりをみて、自分のことばかりを気にしていたら足元の宝に気づけません。

池の掃除をしながら、長い時間をかけてきたあらゆる歴史が綺麗に流されていくのを感じました。またもう使えなくなって役目を終えた道具たちが燃えていくのを見て、そこに一つの歴史が終焉し新たなものが誕生したことも憶えました。

掃除はあらゆることを甦生するための大切な実践徳目です。

これからも暮らしフルネスやお手入れを通して、子孫へ徳を顕現させていきたいと思います。

巡礼の意味

もともとルーツを辿っていると、真実の歴史が表出してくるものです。何でも原点回帰というのは、そのことが何だったかを思い出すにも検証するにも効果があります。最初が何からはじまり今に至るのか、それを知ることが未来を予測することにもつながっているからです。

先祖というものを辿るというのもその方法の一つです。あるいは自分の故郷にある遺跡を辿ることもまた方法の一つです。これは歴史オタクだからやるのではなく、道を歩む一人の人間として歩んできた道を振り返るという大切な生きる目的を知る巡礼の道でもあります。

巡礼の起源は一般的に言われるのは4世紀にキリスト教が公認されるとき、そのキリスト教発祥の地であるパレスチナ、ことにイエス・キリストの生地であるベツレヘム、受難の地であるエルサレムの遺構に参拝するために信者が旅をするようになったことがはじまりといわれます。

また巡礼路で有名なのは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路です。これはおもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道で800キロあります。

日本有名なのは四国にある弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路です。これは 阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400キロにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路でもあります。

どのようにその人物が道を歩んできたか、そして信仰が広がったのかそれを遡りルーツを辿ることでその信仰の道のりを歩み学ぶのです。これは先祖も同様に、どのように今の自分に辿り着いたのかを学ぶための道です。

何を辿るのか、その辿るものによって理解していくものも変わります。例えば、私の住む故郷は古代に大和(山処)のクニのあったところです。英彦山を中心にして、王朝があり豊芦原瑞穂のクニのあったところだと遺跡によって語られます。

大和を辿れば、大和からどのように今の自分たちになっていたかを辿れます。どこを起点にして、何を学ぶのか、それが真実の歴史に通じているのです。

子どもたちは現代、教科書の歴史しか勉強しません。本来の歴史は、自分の中にあり、また足元、立っているところからはじまります。色々と国家教育との関連もありますが、自分のルーツを自分が大切に学び直すことは知恵を伝承することでもあり、徳を循環させていくことでもあります。

未来のためにも、自分のやるべきことで先祖への御恩返しをしていきたいと思います。

自然と不自然

物事というのは分断することで問題を発生させていくものです。一般的には、分析することで問題を解析していきますが解析することでさらに問題は細分化されていきます。細分化された問題を解決してもそれは部分最適ですが、それがかえって全体の問題を大きくしたりすることもあるのです。

環境問題なども、最たるものでよかれと思ってやっていたことが実はさらに環境を悪化させたということもあります。何が自然で何が不自然かということも現代の人間社会では変わってしまっていますからそう簡単に解決にはならないものです。

私は物事を解決するための方法は、先人の知恵に従うことだと思います。長い年月、数千年、数百年続いてきた存在がどのような体験をしてどのように対処してきたか。そこから学び直すというものです。

本来、歴史というものは学校で教わるようなものではなく生きる知恵として子々孫々まで伝承されていくものです。伝承されたものを守り続けることで、困難を乗り越え、試練を耐え、生き延びていくのです。

よく格言というものがあったりもします。その格言もまた、よくみたら物事を根源的に解決するための大切な知恵であることがわかるのです。

例えば、あるインディアンの教えに「7代先のことを考えて決める」というものがあります。約300年先にどうなるのかと思慮して決めごとをするというものです。これも環境問題が部分最適にならないための知恵に溢れています。時間をかけて地球は循環しているのだから、今のことに対処ばかりしていても物事は解決しません。というより、そもそも解決することもなく問題も本当はありません。本来は、自然であるだけです。

自然を尊重して、自然と共生していく世の中であれば問題もそれは必然になり自然になります。

子どもたちには何が自然で何が不自然かがわかる感性や知恵を学び、これからの未来で何が必要になるかを伝道していきたいと思います。