先人からの願い

昨日は、千葉のむかしの田んぼと福岡の場で新嘗感謝祭を行いました。この行事も会社みんなで取り組みはじめて10年以上になります。毎年、お田植祭から草刈り、そして収穫し食べているお米の新米を御蔭様に感謝してみんなで一緒に食卓を囲み団欒します。汗水流して共に働く仲間と同じ釜の飯を食べることの仕合せは本当に格別なものです。

私は今回は、縁あって福岡の場でお祀りしたり祈祷をしたりすることが中心になりましたがこうやって毎年、色々なことがあっても有難いお米を一緒に食べられる喜びを深く感じています。

私たちは現代の食生活ではお米離れが増えていきました。お米がなくても生きていけると勘違いするくらい、お米以外のものを食べています。また食生活が変わると、お米に対する思いも失われてきています。

そもそもお米が日本になかったころは、植物では山にある樹木の実などを採取して食べていました。人口が少ない時はまだしも、現代のようにこれだけの人口を養える食べ物などはほとんどありません。

よく考えてみると、地球の人口が80億人を超えるというのはそれだけ食べ物があるということです。食べ物がなければ人口を維持することは不可能です。私たちの食糧問題というものは、大量生産大量消費するなかで発生したことで本質は増産できる仕組みが発明されたことによって発生したともいえます。

この増産の仕組みは、冷静に観察すれば一気一斉に搾取する技術を発展させたということです。自然のルールを人類は無視しようと決めたということでもあります。資源をこれでもかと自然から絞り出す仕組みを考え、後のことなど考えずに取り続けるという手法の発展です。これは資源が取れなくなったらそこで終了ですから、取りきれるまではありとあらゆる方法を使って続けられるということです。

もはや誰も気にとめないほど当たり前になっている世の中になって久しいものですが産業革命以降、資本主義もですが膨大にあると考えられた地球の資源をそれぞれの国家が我先にと奪い合い続けてきました。そのためには、人口を増やし貨幣を増産し流通させ、潤沢な資源を世界に売りさばき他の資源を買い続けて国力を富ましていきました。国力を増す際に、軍事力も増強しミサイルを増やし続け、同時に金融も増やしてきました。

世界は少しずつ資源が失われていくなかで、残りの資源の奪い合いが熾烈になっていくのも予想できます。

むかしの稲作は、みんなで手を取り合って作物を育てていきました。豊作の時は、みんなで食べ物がある喜びに感謝して仕合せを嚙みしめたように思います。自然のルールと等しく、食べ物があることが当たり前ではないほどにぎりぎりの生活をみんなで送っていました。時には飢饉が起きてたくさんの人が亡くなりました。しかし、そのことがかえってお米の大切さや日頃から備えることへの重要性を学び、助け合いや思いやりなどの相互扶助の精神も育っていきました。謙虚さを磨いて自然に対する姿勢を育ててきたのです。

しかしあまりにも膨大な資源が目の前にあればそんなことは感じないかもしれません。以前報道で作りすぎた野菜を大量に捨てているものをみても少し足りないくらいの方が、みんなが大切にしようと思うものです。いくらでもある資源、あるだけ使い切る資源というのはかえって徳を損ね、本来の有難さや感謝を感じにくくするものかもしれません。例えば、空気がなくなるといったら人類はどうなるでしょうか。もっと汚さないように、もっとなくならないようにと丁寧に呼吸をするはずです。

常に有難いと思う気持ちのままでいることは、私たちのいのちを長く助けます。引き続き、子孫のためにも先人からいただいた遺徳をさらに善いものへと発展させ、暮らしを紡いでいきたいと思います。

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