徳の戦略 

江戸中期の徳の実践家で思想家の三浦梅園に、「悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る」があります。これは、西洋ではグレシャムの法則といって、「悪貨は良貨を駆逐する」が同じように有名です。私は、徳積循環経済に取り組み、ブロックチェーンの技術を徳で活用していますからこの辺の話は参考にしています。

そもそもこの三浦梅園が自著「価原」でなぜこういうことを言ったのか、それはこの明和9年(1772年)から発行された、南鐐二朱判は一両当りの含有銀量が21.6匁であり、同時期に流通していた元文丁銀の一両当り27.6匁と比較して不足している悪貨であったといいます。このことが南鐐二朱判を広く流通させ、このような計数銀貨が次第に秤量銀貨である丁銀を駆逐していったということもあったといいます。これよりも前の元禄8年(1695年)に行われた品位低下を伴う元禄の改鋳後にもまた良質の慶長金銀は退蔵され、品位の劣る元禄金銀のみが流通したともあります。

そしてグレシャムの法則の方は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来しています。これを19世紀イギリスの経済学者・ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し「グレシャムの法則」と命名してできた言葉です。

他にも調べると、似たようなことは古代ギリシアでも行われていました。劇作家アリストパネスは、その自作の登場人物に「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる」という台詞を与え、当時のアテナイで行われていた陶片追放(オストラシズム)を批判していたといいます。

今の時代もまた似たようなものです。これは貨幣に限らないことは半世紀ほど試しに人生を生きてみるとよくわかります。市井のなかで、「本物」と呼ばれる自然な人たちはみんな私心がありません。世間で騒がれている有名な本物風の人ばかりが情報消費に奔走し、あるいは流通し、同様に消費されていきます。実際の本物は粛々と自分の持ち場を実践し磨き上げ場をととのえています。そこには消費はありません。

そういう人たちは、世の中では流通せずにそれぞれに徳を積み、そうではないものばかりが資本主義経済を拡大させていきます。そもそも人間の欲望と、この金本位制というのは表裏一体の関係です。そして金本位制を廃止してもなお、人間は欲望のストッパーを外してはお金を大量に発行して無理やり国家を繁栄させ続けようとします。すでに、この仕組みで動く世界経済は破綻をしているのは火を見るよりも明らかです。国家間の戦争も歴史を省みればなぜ発生するのかもわかります。

かつて国富論というものをアダムスミスが定義提唱し、富は消費財ということになりました。この辺くらいから資本主義の行く末は語られはじめました。如何に現代が新しい資本主義など世間で騒いでみても、そもそものはじまりをよく観ればその顛末は理解できるものです。ジャッジするわけではありませんが、歪みを見つめる必要性を感じます。

実際の経済とは、経世済民のことです。その経世済民を支えるものは、相互扶助であり互譲互助です。つまりは、人は助け合いによって道と徳を為すとき真に富むということです。この時の富むは消費財ではなく、絶対的な生産であり、徳の醸成です。そういうものがないのに経済だけをブラッシュアップしても片手落ちです。

本来、テクノロジーとは何のために産まれるのか。それはお金を増やすためではありません、世の中を調和するためです。だからこそ、どのように調和するかを考えるのが技術まで昇華できる哲学者たちであり、思想を形にする実践者たちです。

私はその調和を志しているからこそ、ブロックチェーンで三浦梅園の生き方を発信していきたいと思っているのです。そこには先人への深い配慮や思いやりが生きています。

先人たちのこれらの叡智、そして知恵は何世代先の子孫のために書き綴られそれは魂と共に今も私たちの中に生きています。少しでも子孫たちの未来が今よりも善くなるように私の人生の使命を果たしていきたいと思います。

場を磨く

弱っている場所や荒廃している場所が、活き活きと甦ると周囲の気配も空気も変化していくものです。不思議ですが、私たちの生きるところでは外すことはできない大切な場所というものがあります。

例えば、水が分岐するところにも神社を設けて清浄に保ち調えて祈ります。他にも、湧水が出てくるところ、あるいは巨石が鎮座するところなども同じです。

重要な場所には、それぞれに大きな役割がありその役割が全体を守っていたりするものです。風水なども、その原理や掟を守ります。

今では、観光的に便利で目立つ場所や商業的に繁盛をするところなどを大切な場所にして、むかしから守られてきた要所や場所をおざなりにしています。そこで気の流れも変わり、場所全体が荒廃に進んでいくものです。

人間だけがこの世にいるわけではないので、私たちは共生しながらもっとも自分たちの場所が居心地がよくなにはどうすればいいかを突き詰めてきました。そうすると、よくよく観察し大切な場所は丁寧にお手入れしていこうとする伝承が繋がります。

私が取り組んでいるのは、世間ではどうでもいいと思われて放棄され荒廃したところを地域全体最適や地球全体最適をみて、それを守り調えていくことで場所を守りその場づくりをしていこうとするものです。

子どもたちには、場を一つでも甦生し遺していく必要性を感じます。なぜなら、子どもたちは場によって育つからです。

場づくりは時間がかかり労力もかかりますが、場を磨き続けていきたいと思います。

魂を磨く暮らし

人が何かを体得するというのは、日常の暮らしになった時に獲得するものです。頭でっかちに知っても、それを知恵として持続することはできません。知恵にするには、その人の生活そのものと一体になっているときに実現します。

この日常にするというのは、習慣化するということです。習慣化というのは、知恵化するともいえます。私たちの今いる現代は、知識は消費の一つになり知識を膨大に得てはそれを日々に消費しています。有名人やインフルエンサーなど、毎日のようにSNSで発信し、専門家や芸能人などは知識の発信に余念がありません。そしてその知識を早く得ようと、膨大な費用を使っては消費活動を拡大させていきます。

情報化社会というのは、情報がお金になり、その人が持つ時間をいかに情報に費やしたかどうかで費用を使わせるという具合です。

もともと現在の経済は、経世済民ではなく如何に経済を発展させるかに余念がありません。経済が衰退するとき、国家が滅ぶとさえ信じ込まされていて経済的な破綻=国家の破綻となっています。これは人間の破綻もまた経済の破綻と同じと定義されています。

しかし本来の破綻とは、生活文化が失われていくことではないかと私は思います。それは古来からの知恵が失わていくことです。例えば、食文化や伝統文化、生活文化、伝承文化、先人たちの体験から得た気づきを知恵にしそれを連綿と繋いできたものが失われた時にこそ、真に滅ぶのです。経済が破綻したとしても、文化があればいくらでもそこから甦生できます。しかしいくら経済が発展しても、文化が失われたらそこでお終いです。

これは人の生き方も同じです。生き方が残っているからこそ、魂は守られます。魂を売ってしまうと、あとは奴隷のような時間が残るだけです。人は魂を優先するとき、知恵を伝承することができるものです。

暮らしというのは、本来は魂を磨いていくことです。

魂を磨いていくことは、人生をよりよいものにし子孫へその知恵を伝承していくことです。教育の本義もまたそこにあるはずで、知恵のない教育など物質文明の中の消費材の一つになっているだけの産物です。

現代人は時間がなく、知恵を獲得するのにかかる習慣化や持続の時間を確保するのに抵抗があるものです。それもお金にならない場合はなお選択しなくなります。しかし一つの知恵を獲得するのにかける時間も費用も本当は対価がつけられないほど偉大なものばかりです。

純度高く、取り組んでいく人こそ知恵の伝承者です。

子どもたちに生きる力、知恵が伝承していけるように日々の暮らしを調えていきたいと思います。

欲と不安と暮らしの知恵

欲と不安というのは、火と薪のような関係を持っているように感じることがあります。火が穏やかでおさまっているときはいいのですが、そこに薪をくべて火が燃えていくとさらに欲は増大して不安も同時に増大します。その逆に、火が小さく穏やかでいるだめにはあまり火を大きくしないようにすればいいのですがいつか消えるのではないかと不安になっています。

最初から火があることで安心していますが、火がなくなることで不安になるのです。人間というものは、便利なものをたくさん所有すれば所有するほどに所有欲が増大ししていきます。その所有欲はさらに不安を増大させ、さらなる所有をしようとするのです。

私のところによく来て一緒に過ごしている禅僧は、所有欲がほとんどありません。あればいいし、なければなくてもいい。いただけるものはすべて有難いと受け取り、なくなればそれでおしまいという具合です。火がいつも調っているようなまるで炭のような存在です。

私は炭を深く尊敬していますが、炭は一度火が入れば、静かに灰になるまで燃えていきます。もちろん炭をくべればその炭はさらに燃えるのですが、それでも激しくなることはあまりありません。しかしその炭は、もともと薪だったものです。その薪を丁寧に炭にすると火との関係性も変わっていきます。

火の扱い方になれるというは、ある意味で欲の扱い方になれるというということに似ています。そして不安というものもまた、静かに調えていくと身の回りを自然の知恵と共に暮らしていけば安心できることもわかります。

先人たちは、暮らしの知恵をたくさん持っていました。これは欲と不安と上手に向き合うコツを伝承していたのかもしれません。自然と共に暮らし、そして自然の持つ偉大さをいただきながら永続する今を味わう。

自己との向き合い方もまた、この欲と不安が深く関与しますから日々の暮らしを調えていくことが自己を磨き高めることになります。

引き続き、暮らしフルネスの実践を充実していきたいと思います。

暮らしフルネス~もてなし~

もてなすの語源は、「以って為す」が由来といいます。何を以って何を為すのかは、その人が感応して決めるものです。例えば、聖徳太子は和を以って尊しと為すといいました。和こそ、何よりも尊いとみんなで取り組んでいこうとしました。

そしてある人は、真心を以って商いを為すといいました。何を以って何を為すか。これこそが、ここに道徳の極みがあるように私は思います。つまり、徳を以って道を為すということです。

漢字というものは、二つのものが一つになることでその意味を反復するものです。つまり同じ意味を成すことがあります。本来は反観合一であり、すべてのものは一つになりバランスを保ちます。一つに統合するには、何を以って何を為すかを覚悟して実践していくことで実現するように思うのです。

おもてなしというのは、本来は生き方のことです。その人がどのような生き方をしているか、そこに裏も表もなくその人が正直に自分を生ききることでその姿に人々が感銘をうけてその生きざまに感謝しているように思います。

生き方というのは、別に誰かに認められたいというものや見返りがあるものでもなく、効率も効果も意味も必要がなく、その純粋な純度の高い精神と実践で行われているものです。

つまり生き方を以って、人生を為すということでしょう。生き方が尊いからこそ、その生き方を優先してその人らしく人生を盡していくなかで心を味わうのです。決して、消費者に媚びたり、過剰なサービスをしたり、他人軸にあわせてやることを決めたりなどはしていないものです。現代のおもてなしも意味が変わってきているかもしれません。形だけが模倣され、中身がなくなったものが海外に文化として輸出されるもの残念なことと思います。

私はこの場所で、日々に暮らしフルネスを実践しながらご縁のある方々を自然体でもてなしています。いつも行っている実践を一緒に味わう。それだけですが、これが私のもてなしです。そして人生だけでなく仕事もまた、自分がこれが道だと感じることを愚直にやり続けます。評価もされず批判をされることもありますが、これが私のおもてなしであり生き方ですから徳を以って己を磨くことを為すものです。

子どもたちが日本人の生き方を伝承し未来に誇りをもって生きていけるように、丁寧に暮らしを紡いで背中で伝えていきたいと思います。

天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。

塩こうじの知恵

昨日は来客があり、塩こうじ鍋を振る舞いました。もともとこの日本人はむかしから麹を食べるという文化の場所です。麹は米・大豆・麦などを蒸して、表面にコウジカビを繁殖させたもののことです。よく日常的に使われる味噌、しょうゆ、日本酒や焼酎、みりんなどを作るのも麹が醸します。この麹は、コウジカビというカビが醸して発酵します。通常は有害な毒を発するのですが、日本の風土で長い時間を経て進化したこのカビは人間と共生して私たちの健康を支えてくれました。

よく感染症が流行る時期などは、甘酒をつくりみんなで飲んで免疫を高めて乗り越えたという文献がたくさん出てきます。塩こうじは、この甘酒の塩版のようなものです。

以前、秋田の三五八漬けにはまったことがあります。これは塩と米麹とお米の割合のことをいい保存食として活用されてきました。塩こうじの起源もこの三五八漬けが起源ではないかといわれています。今のように調味料になったのは最近のことだそうです。ウィキペディアにはこうあります。

「古くは本朝食鑑の鱗部の巻「鰯」の箇所に「或有甘塩者有糟漬者有塩麹漬者号曰黒漬」という下りがあり、「塩麹漬」という文字列が見られる。この後長らく「塩麴」に言及した資料は見当たらないが、2001年になって、料理漫画『おせん』の中で、塩こうじが紹介される。2007年、大分県佐伯市の糀屋本店 浅利妙峰が漬け床ではなく、調味料として使う塩糀料理のレシピをブログや本で広めたのが呼び水となり、2011年後半頃からさまざまな利用法で人気を博すようになった。塩麹を利用したさまざまなレシピが書籍や料理教室で公開されており、最近では乾燥タイプや液体タイプも登場している。」

効果効能はたんぱく質を分解する「プロテアーゼ」、でんぷんを分解する「アミラーゼ」という物質がでて消化を助けます。そして麴菌が生成する必須アミノ酸やビタミンB群には代謝促進作用もあります。

調味料でうまみが出るだけではなく、腸内環境を調え、さらに消化を助け、ダイエットにもなるといわれます。この漬け込むというお漬物の日本人の伝統文化は麹が支えているのです。

御蔭で、次の日はおなかの調子もよく肌もつるつるです。医食同源といいますが、食べ物は本来は薬です。薬と思って食べることによって、私たちは健康への感謝を忘れません。食欲を単に満たすものではなく、有難い健康を保つものだとして食べていくなかに先人たちの願いや祈りもあるのでしょう。

子どもたちにも伝承の食が繋がっていくように、暮らしを調えていきたいと思います。

観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

思い込みを手放す

人間は思い込みを持っています。ほとんどの世の中のことを自分の価値観や経験で思い込むものです。その思い込んだことが集積すると、この世は本来の世の中ではなく自分の勝手に思い込んだ世界になってしまいます。そういう人が増えたら、本当のことを確かめるよりも自分の思い込んだものが正しいはずとより意固地になったり頑固にその自分の思い込みに囚われていくものです。

相対性理論のアインシュタインが「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」と言いました。これは思い込みも似ています。思い込みが先にくると、他人の話を素直に聴かなくなります。そうなると真実はさらに遠ざかっていくものです。

だからといってなんでも従順に鵜呑みにすればいいというのではありません。思い込みで聞かないようにすること、つまりは「素直に聴く」ことを心がける必要があると思うのです。

この素直に聴くとは何か、これは松下幸之助さんは素直をこう定義しました。

「素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります」

まさにこのような聴き方は、先ほどの思い込みを取り払う実践そのものではないでしょうか。ではなぜ思い込むのか、それは自分の中にある感情、私心、都合の良しあしが影響をするからです。そして不安、恐怖、疑心、欲望など自分というものをあまりにも優先するからそうなっていくものです。思い込みに囚われれば自滅していくものです。常に素直でありたい、そのために謙虚でありたいと先人たちはみんな「素直に聴く」努力と精進をしてきたのでしょう。

先ほどの松下幸之助さんは、素直の十箇条というものをつくり自戒していたといいます。「第1条 私心にとらわれない 第2条 耳を傾ける 第3条 寛容 第4条 実相が見える 第5条 道理を知る 第6条 すべてに学ぶ心 第7条 融通無碍 第8条 平常心 第9条 価値を知る 第10条 広い愛の心」です。参考になると思います。

最後に、人はみんながもし素直に物事が観えてお互いの話を素直に聴くことができるならこの世から争いはなくなっていくように思います。真の平和というのは、それぞれが真実を知り、世の中の実相があるがままに観えて、それについて対話するなら協力するのは当たりまえになります。

世界では、戦争が激化してきていてそれをよく観察するとお互いの思い込みで恫喝しあいリーダーはじめ物事を決める方々の私心の押し付けあいにも観えます。時代の先を観て、どのように生きていけばいいか。そのためにはまず脚下の実践を守る必要があります。

この素直に聴くということは、思い込みを日々に手放すことです。そして思い込みを手放した分だけ未来を子孫へ譲り遺す大切な徳になると思います。引き続き、素直に聴くことを守るためにも聴福人の実践を続けていきたいと思います。

カグヤの行事

カグヤでは、継続して行っている行事のようなものがたくさんあります。その一つに、初心会議や一円対話などがあります。これは私たちが、もっとも仕事をしていく上で大切にしていることを振り返る場の一つです。

この場の一つというのは、仕組みの一つという言い方もできます。つまりは、環境や習慣にすることで大切なことを忘れないようにすることや、私たちが日ごろから自然に協力して助け合う風土が醸成されるように配置された知恵のようなものです。

日本では古来より、生活文化の中でたくさんの知恵を配置してきました。その代表的なものの一つに日本家屋というものがあります。玄関にはじまり、床の間やおくどさん、箱庭や縁側、仏間があり奥の間もあります。その一つ一つの家のつくりはまさに見事に自然風土と一体になり、如何に知恵の結晶であるかがわかります。

その中で暮らしていく家族は、使っていく道具も知恵ですが行事がさらに相乗効果を高めています。つまりむかしの日本人の知恵の取り入れ方は、ごく自然に、もっとも大切なものを優先できるような場を用意されていたのです。

この仕組みを私はカグヤという会社に取り入れ、日本的経営を行ってきました。この日本的というのは、むかしの知恵を守る経営とも言いかえれます。老舗の日本の店舗や伝統的な会社が理念を大切にしているように、ごく自然に家の中が治まるための仕組みを行事で実践しているのです。

外から見ると、変な価値観がある会社や、真面目な会社、余裕がある会社とか色々といわれますが実際には日本の知恵を守り、社員家族の仕合せを優先するための大切な私たちの暮らしの実践なのです。

その御蔭で、私だけでなく社員、またお客様にいたるまで皆さんこの実践によって守られていきます。理念や初心を忘れないこと、そしてみんなで和合して調えあって働きやすい環境を優しく包んでいくこと。人は何のために働くのか、それは仕合せになるためです。仕合せをいつも確認し合える環境があること、その場そのものこそ仕合せであるというのが本来の知恵でしょう。

子どもたちには、長くて短い人生の中で上質な生き方、働き方をしてほしいと祈ります。その一つのモデルとして、自分たちが実践していくことが将来を豊かに、今を感謝にしていくことのように思います。

この取り組みの輪が広がっていくのを楽しみにしています。