お米に親しむ2

私たち日本人はお米をずっと食べ続けてきました。日本の気候風土にも適応し、私たちの暮らしを根から下支えしてきた存在こそお米です。

お米は、元氣を育てるものです。この氣の元ともいえるお米を食べることで私たちはご神氣というものをいただき氣を補充できるともいわれます。むかしから「一粒のお米には七人の神様がいる」とも言われてきました。具体的には「太陽」「雲」「風」「水」「土」「虫」「人」といった自然の恵みであるともいわれます。他にも七福神などという説もありますが、確かにお米はこのすべての存在があってはじめて実をつけますからそれを神様が宿っているといっても過言ではありません。ここでは詳しくは書きませんが、むかしうちの会社のクルーがブログで書いていた記事を紹介します。

日本人が氣力が漲っていたのもまたお米にあるといわれます。そのお米を弱体化するために、農薬や肥料で田んぼを弱らせ、改良された種と育てかたで元氣が失われていったともいわれます。

私は自然農法で、伝統在来種の高菜を育てていて初めて気づいたこともたくさんあります。先ほどの七柱の神様は、お米だけに宿るものではありません。高菜にも同じことがいえます。この太陽、雲、風、水、土、虫、人は、すべてが役割分担して野菜のいのちが育つのを見守ります。

野生のものには人は入らないかもしれませんが、他はそれも存在します。人が栽培するときに、人の真心や手間が神様になります。

特にお米は、八十八の手間がかかるといわれます。お米という字も、八と十と八の合体してできている字です。もともと八というのは、末広がりの意味もありそれだけ多いや大きいという意味にもなります。つまり大量の手間がかかるということで八十八の手間がかかるといいます。

この「手間」という言葉は、元々は動詞「手まねく」から派生した言葉です。 手まねくとは手を用いて何かを作り出したり行動したりすることです。つまりお米作りは、それだけの作業が発生する大変な作物ということです。

お米作りに比べると、高菜の方がそんなに手間はかかりません。冬野菜で葉物、それに高菜は逞しく強いので手間はかかりますがそこませ繊細ではありません。しかし元氣が漲る味があるものは、やはりこの七柱の神様と人の手間がちゃんとかかるものです。

そう考えてみると、私たちの食べ物はすべてこの元氣に通じています。元氣というのは、私たちには決して欠かせないものです。医食同源ともいいますが、本来は私たちは元氣溌剌に活動するためにご飯を食べます。元氣のあるお米やご飯は、私たちのいのちや暮らしを根底から支えていくものです。

お米に親しみ、お米を尊重し、お米を新しくしていきたいと思います。

徳を積む生き方

アメリカからの懐かしい友との話の中で「発酵道」につて語り合いました。もともと酒蔵、寺田本家の二十三代目の当主、寺田啓佐さんと親しかったこともあり色々と生前のことをお聴きしました。

私はどこか生き方が似ているところが多いようで、共通点がたくさんあります。微生物についても、むかしからずっと親しくしていてお漬物などの発酵食品づくりをはじめ、自然農の田んぼや畑、また会社経営にもその発酵の仕組みを取り入れています。

自然界は腐敗と発酵というものがあります。しかしこれは腐敗VS発酵ではなくどちらも大きな意味では発酵です。腐敗も自然界に循環するための大切な発酵の一つということです。しかし人類にとって悪い作用を施すのを腐敗と呼んでいるのです。実際には、腐敗も一つの浄化作用ともいえます。この辺になってくると、どれが善い悪いではなく愛と調和の話になってきます。

発酵道のなかでもその辺はよく語られています。以前、俳優の窪塚洋介さんが私のいる聴福庵や場に来られたとき私の実践する「腸活」の体験をしていただきました。諸事情があって彼の番組にはなりませんでしたが、腸が活き活きしすぎて大変なデトックスになったととても喜んでおられました。本質的に腸活になったこと、発酵の一期一会になったことを覚えています。

もともと私はこれらの実践を発酵という言い方ではなく最近ではもっぱら「徳」という言い方をします。私にとっては発酵=徳という定義です。発酵について、寺田啓佐さんはその著書「発酵道」でこのような言葉を遺しています。

「それは決して嫌々やっていることではなく、微生物にとってそうすることが快くて、自分の好きなことをしている。そして、楽しく働いている。私には、そう感じられる。生命のおもむく方向へ、自ら進んで行っているのではないかと。きっとそうやって自分らしく生きることが、微生物にとっては自然なのだろう。まさに微生物というのは、本当の意味で自分のために生きている、「自分好き」なのだ。こうやって微生物の世界をのぞいているうちに、生命のおもむくまま、「自分にとって最も快いことを選択していく」ことが、実は自分を生かす最良の生き方なのではと思うようになってきた。」

ここからわかるのは自分の喜びそのものが全体の喜びになっているのが発酵ということです。そして自分が好きなこと、喜びになることに専念している、その自分自身を深く愛しているからこそ自立して自由にこの世界を素晴らしいものにしていく生き方となるというのでしょう。

これが発酵する生き方、私にすれば徳を積む生き方のことです。

自他を活かす、全体快適に生きる、まさに嬉しき楽しき有難きという仕合せないのちの響き合いです。酒造りの智慧は、生き方の智慧ともいえます。日本酒がなぜ神様の大切な供物の一つなのかはここからも気づけます。

今年はお米のことに深く関わる機会をたくさんいただいています。何よりもかたじけなく有難く思います。引き続き、徳を精進していきたいと思います。

七夕のものがたり

明日は七夕です。もともとこの七夕の行事は中国から渡来したものが日本文化と融合したものです。「たなばた」という言葉も、本来は「しちせき」と呼ばれていました。これが日本の「棚機つ女(たなばたつめ)」伝説と重なります。

この「棚機つ女」は神様を迎えるために水辺に設けた機屋に入り棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機で神様に捧げる神御衣(かんみそ)を織りあげる女性の呼び名です。この「棚」は神棚ともいうように神様が籠る神聖な場のことをいい、機はそれを実現する法具や神具のことです。

日本古来の神話によれば七月六日には水辺の機屋(はたや)で神さまの訪れを待ちます。水の神様をお迎えした女性はその夜に天から降りてくる神様の一夜妻になり、女性自身も神さまになると信じられていましたそしてその女性がその夜に織りあげた布を棚に置き機屋を出て水辺で禊をすると町や村が豊穣になり、厄を祓えるという伝承です。同時に川で禊をし髪を洗うと髪が美しくなるともいわれたそうです。

また願い事を「梶」の葉に書く事から書道の上達をも願うようにもなりました。それに技芸の上達及び福徳を願うようになり特に弁財天、弁天様が豊饒と技芸の上達を叶えるてくれるということで弁天祭と習合しました。そして陰陽五行の五色の短冊に願い事を書き、飾り物を笹に吊すだけの簡略化された七夕祭りになっています。また笹竹は天の神様が依りつくところ(依り代)とされていて願いを込めた飾りものを笹竹につるすようになりました。

そう思うと、色々な伝説が集合して今の七夕になっています。

似たようなものに、神仏習合というものがあります。最初のお水の神様が水分の神で瀬織津姫や宗像三女神と呼ばれたり、仏教が伝来しそれが龍神や弁財天や不動明王になったりと混淆しています。祈り方やお祭りも色々なものが組み合わさっています。

そう考えてみると私たちの先祖は、海外から来た神話や伝説も受容してそれを上手に取り入れて味わいました。それぞれの風土で誕生したものも、同じ願いや祈りを持っているものなら共に祈りお祀りして行事として実践をしてきたのです。

私たちはつい簡略化されたものばかりを見知って関心が薄れていますが、本来はどのようにその行事が発生したのかを深めていると先人たちの大切にしてきた真心を感じるものです。

大切な節目として、味わい深い暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

自然体の生き方

昨日は、2年ぶりに故川口由一先生の自然農の田んぼにお伺いしてご供養をさせていただきました。今でもこの場所に静かに腰掛け佇んでおられるような気配が周囲に薫り、「ああ、野見山さん」と優しく爽やかに語りかけてくる声が心に聴こえてくるようでした。

いつもお会いするときは、私の近況のことや取り組んでいることに真摯に耳を傾けてくださりお土産話に花を咲かせその意味を深めてくださっていました。また真善美について、学んだことや体験したこと、すべて自然に照らし合わせてその叡智や知恵を語って見せてくださっていました。

正直で飾らず穏やかで和やかで安らか、その深い優しさからにじみ出てくるお人柄が大好きで心から尊敬していました。お会いするたびに先生の後ろ姿からは、いつも自然体の生き方を学び直していました。奥様も陰ひなたから見守ってくださり、以前までお元氣であるときにご馳走していただいた親子丼の味が今でも心に忘れることはできません。

いつも何が自然で不自然か、そして自然とは本当はどういうことをいうのかということをその生きざまから伝承してくださっていました。「一つの種がでて、その種が芽吹き、成長し花を咲かせ実をつけ種になり、枯れて斃れて新たな種が芽吹いてくる。」そんな当たり前のことを、ごく自然に当たり前に信じてただ一人の道を歩んでおられる先生に恥ずかしくないようにと私も田んぼに一人で立てる人間になろうと覚悟し、ここまで歩んでこれました。今でも迷いが出たときには、一人で田んぼや畑に立つようにその場所で一人立ち覚悟を見つめ直しています。志と革命は、常に裏で一人です。

墓前にてそして先生からいただいた美しい真心の光は、私の心田の中にしっかりと透明に光っています。このいただいた光を水に静め、私の光に換えてさらなる新たな宇宙へと発光させていきたいと改めて誓いました。

今、振り返るとお会いしてからずっと先生と一緒に自然の中にいました。今の私の周囲の自然のなかにも音の中にも先生の自然を感じない日はありません。それくらい自然の生き方の道に、導いてくださっていたことを思い改めて感謝がこみあげます。

「無為自然、いのちが光り輝く自然農、種は空の彼方に、花はこの心に、まきむく未来へ結ばれる。」

一期一会のご縁に心から感謝しています、その感謝に報いるためにも自然の生き方の続きを私も磨き続けます。引き続き風に吹かれて次の章へと喜び勇んで邁進します。

これからもよろしくお願いします。

贈与経済と徳積経済

贈与経済学というものがあります。これはアメリカの経済学者K・E・ボールディングが提唱した経済システム論のことをいいます。これはギフトエコノミーといわれ、一般的には与え合う経済のことをいい、貨幣でのやり取りや等価交換などの資本主義の経済ではなく見返りを求めずに他者にモノやサービスを与えることといわれます。

私は徳積経済というものに取り組んでいますが、その違いが何かということを聞かれることもあります。見返りを求めないという意味では同じですが物やサービスを与えるということは異なります。

現代の資本主義に対して、贈与経済というものでは結局は対比や対立構造が発生してしまいます。価値観というものは面白いもので、対立や対比は違う価値観ではなく実際には同じ価値観の土俵であることがほとんどです。一つの価値観から抜け出すには、別の価値観を打ち出すことですがそもそも理解というものは、同じ価値観の中で行われますから結局は同じ土俵に立っている時点で別の価値観になったわけではありません。

別の価値観になるというのは、理解できないものになっているということです。なので理解できないことはダメなのではなく、理解できないものこそ新しい価値観、新しい経済ということでしょう。

そういう意味で私の取り組んでいる徳積経済は実践はできていても理解はなかなか広がらないものです。現代では、まず理解できてから実践しようとする傾向があります。時間がもったいないと思うのか、情報化社会のなかでまずは分かってからとなっているのかもしれません。

しかし実際には、新しい価値観になるというのは新しい価値観を生きてみて実践した分だけそうなっていくということです。例えば、先ほどの見返りを求めないという実践があるとします。しかしそれはどのくらいの量なのか、貨幣であれば全財産であるのか、サービスであれば自分の生命を懸けたものなのか。その度合いでも異なります。頭で考えているようにはならないのが実践ということでしょう。

私が取り組んでいることもまた、実践が優先されますがそれを理解してもらおうとすると義務のようなものに変化します。義務では徳は動かず喜びによってはじめて循環するものです。

色々と遅遅なる速度でしかも理解し難いと言われますが、価値観の改革というものはほんの小さなところ、また陰ながらの微細な実践から誕生してきたのが歴史からもわかります。

丹誠を籠めて徳積で循環する真の豊かさを伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスの中のととのふ

最近、サウナの影響で「ととのう」という言葉が流行っています。この調うというのは辞書には古語の「 ととのふ 」、乱れ のないきちんとした状態になることと記されます。

サウナの場合は、熱いサウナに冷たい水風呂に入りそのあとに次第に交感神経と副交感神経が入れ替わる感じですっきりするときに使われます。心臓には大きな負担がかかりますが、ストレス社会で頭ばっかり酷使する現代の環境の中ではこの刺激は特に快楽的に感じるのかもしれません。

もともと私はサウナーでもなく、ほとんどサウナに入りませんが伝統の石風呂といって日本古来のサウナのようなものを建築しています。たまにご縁のある方が集まり入りますが、サウナの人たちのような「ととのった」などという感じではありません。

そもそも、ととのったというものは、快楽的に欲望を満たすようなものではありません。禅でいうところの座禅や食事、或いは掃除や片付けなどのように日常の暮らしの中で心静かに穏やかに過ごしているものです。それは一つ一つの動作に対して、心を用いて心でその時を深く味わうものです。

他にも、お花を活けたり炭火でお茶を立てたり山水画を描いたりお祈りをするときにもととのいます。この時のととのいは、そもそもストレスに対するととのいではありません。

穏やかに静かに内面から心をととのえている時のものです。もちろん身体が静かに休み穏やかになると、心にも安堵感をはじめ多幸感は出てきます。しかし例えば、煙草を吸って落ち着いてととのったといったり、激しいイベントでととのったというのは言わないようにも思います。

日頃からととのう暮らしを大切にするなかで、その一環で石風呂に入るという具合が私の感じる「ととのふ」ことです。最近は、敢えてととのふといって私は実践を伝えています。

暮らしフルネスの中でととのふ生活は、そのまま生き方にも影響を与えます。先人たちへの深い尊敬と配慮を大切にし丁寧に伝承していきたいと思います。

クラシフリー

昨日、会津にいる友人から「PhaseFree(フェーズフリー)」という言葉を聞きました。これは平常時(日常時)や災害時(非常時)などのフェーズ(社会の状態)に関わらず、適切な生活の質を確保しようとする概念のことをいうそうです。

これは防災の概念から産まれた言葉の一つだといいます。では防災とはどう違うのかというと、人々が備えることを前提としているのが防災、人々は備えられないことを前提としているのがフェーズフリーであるといいます。

また具体的には、平常時と防災時と対応をわけるのではなく常に日常そのものが防災的な暮らしをしているということだと私は思います。普段でも活用できるもので防災時にもそのまま活用できるという平時も防災も選ばない普遍的な状態を保つということでしょう。

またフェーズフリーの5原則というものがあります。そこにはこうあります。

常活性 どのような状況においても利用できること。
日常性 日常から使えること。日常の感性に合っていること。
直感性 使い方、使用限界、利用限界が分かりやすいこと。
触発性 気づき、意識、災害に対するイメージを生むこと。
普及性 参加でき、広めたりできること。

これが最近では、商品開発などでも使われています。昨日の友人は、玄米ポンセンを取り扱っていて日常食としても防災食としてもそのまま役に立つことが大事だと話をしていました。

これはよく考えてみると、今の日本のようにありあまる富と豊富な物資、消費経済のなかで廃棄することも価値のようになっている金融が中心になっている世の中においてはそもそもが防災対応ではなく嗜好的なライフスタイルに傾いているものです。

本来は、先人たちが暮らしそのものがこのフェーズフリーでしたがそうではない世の中になるとこれが新しい概念ということになるのでしょう。

私は古民家甦生をはじめ、暮らしフルネスを実践していますのでフェーズフリーの生活をしているともいえます。漬物をはじめとした発酵食、また炭を中心に井戸水での暮らし。身近な畑に野草、薬草を取り入れ、乾燥野菜や保存食もつくります。また暮らしの道具たちも先人たちが大切にしてきた知恵のあるむかしの道具ばかりです。

もちろん現代の道具もフル活用しますが、それだけではなく先人たちの懐かしい暮らしは保っています。これは別に防災のためということではなく、暮らしが豊かになり幸福が増すからです。

例えば、ガスでつくる料理は早く便利ですが炭火で火吹き竹をつかいつくる料理は別の意味で格別なものです。火の通り方も異なりますが、その火に触れる時間、また味も意識もまったく変わります。

そう考えてみると、災害時はお金を稼ぐ活動に時間が使えなくなりますからその分、豊かな時間がたくさん増えるということでしょう。私たちは金融的な経済活動を優先するあまり防災する暇もなくなっているという悪循環の生活スタイルを生きているともいえます。

子どもたちには、防災を学ぶことも大切ですがなぜ防災意識そのものが失われるのかのことも同時に現実として伝えていきたいものです。まさに暮らしが中心、知恵のある生き方、知恵を実践する暮らしフルネスはクラシフリーとしてこの先も必ず知恵と共に人々を助けていくように思います。

 

お水

私たちの先祖はお水というものをとても大切にしました。西洋でいうところのウォーターではなく、オミズ(お水)といってそれは命のある存在、神様として大切にしてきました。

これは当たり前の事実ですが、私たちがもっとも生命を維持するのに欠かせないものはお水です。現代では、スマートフォンがなくなったらという人もいますがそれはなくても何とかなるものです。しかしお水がなくなれば、すぐに生命の危機になります。

現代の日本では水道水をはじめあたりまえにどこでも手に入るものになりました。蛇口をひねればすぐにじゃぶじゃぶと流れていきます。お風呂やシャワーなども大量に無制限にあるように感じてしまいますが、実際に私たちが飲めるものは地球上のほんのわずかしかありません。

私たちの国土、日本はお水に恵まれた場所です。気候の御蔭や地球上の立地、また森林によってたくさんのお水が流れてきます。それを田んぼによって貯水し、さらに国土をお水で包みます。

先人たちが長い時間をかけて、どのようにお水を循環させていくともっとも国土が豊かになるのかを試行錯誤してきた知恵の結晶です。

その分、お水への感謝というのは欠かせないものでした。水源地には水神( 水分神 (みくまりのかみ))さまとしてお祀りしてきました。お山の神様と深い結びつきがあり、共に尊敬してお祀りします。また農耕以外の日常生活で使用する水については、井戸・水汲み場にもお祀りしています。古来から水神の象徴は河童 、 蛇 、 龍 などに観立てられ大切にしてきました。

空を眺めれば雲が流れる様子に龍を感じ、川を遠くから眺めれば蛇のように感じ、湖畔や河には河童がいると感じました。まるで一つの生き物のようにお水の存在を感じて接していたのがわかります。

現代の水道の蛇口をひねってもそれがいるようには感じないものです。私は幸運にも、古民家甦生で井戸に接する機会や、宿坊での生活で山の湧水などに触れる機会が多いため、お水の存在を身近にいつも感じています。

私たちの身体をはじめ、地球はお水に包まれていますからお水の形を変えては記憶を辿り流れ続けていくことができます。お水への接し方は、一つではなく尊敬の深さや信仰の厚みによって変わっていくものです。

お水への配慮を忘れないように丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

人の修行

この数日間、曹洞宗の禅僧と共に禅の作法で食事をとりました。食べる前には、五観の偈を唱えます。この「偈」はサンスクリット語でいう偈文のことで仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べるものをいいます。五観というは、下記のことをいいます。(曹洞宗SOTOZENーNETより)

ひとつにはこう多少たしょうはかり 来処らいしょはか

ふたつにはおのれ徳行とくぎょうの 全欠をぜんけっ(と)はかっておう

つにはしんふせとがはなるることは 貪等とんとうしゅうとす

つにはまさ良薬りょうやくこととするは 形枯ぎょうこりょうぜんがためなり

いつつには成道じょうどうためゆえに 今此いまこじき

食材の命の尊さと、かけられた多くの手間と苦労に思いをめぐらせよう

この食事をいただくに値する正しき行いをなそうと努めているか反省しよう

むさぼり、怒り、愚かさなど過ちにつながる迷いの心を誡めていただこう

欲望を満たすためではなく健康を保つための良き薬として受け止めよう

皆で共に仏道を成すことを願い、ありがたくこの食事をいただきましょう

食べる前に、この五観の偈を唱えると身が引き締まる思いがします。そして食べはじめてからも、静かに瞑想のような気持ちで最後までいただきます。またお椀を片付ける前にも、お茶を注ぎお椀一つ一つを調えながら一つ残らずに綺麗に食べ終えます。

食べることを修行にしているという点で、私たちが何を大切にしてきたのかを思い出すことができます。食べるという行為は貪る行為にもなりますが、生きるために必要な行為でもあります。食べることが分かるというのは、自分たちが生きることが分かるということかもしれません。

そういう意味で、禅僧と共に暮らしを味わうと日々の動作の中にすべて修行の初心があり、それを日々に忘れない工夫で満ちていることがわかります。食事も作るときも修行、片付けも修行、消化している時も修行、その食べ物を活かすのも修行、あらゆる日常の全てがまさに修行そのものという生き方を示します。

これは日常、これは修行と使い分けることではなくまさに今、この暮らしそのものがすべて修行という意識で生きていくことは私の言い方ではいつも初心を忘れることがない生き方をするということでもあります。

私の実践する暮らしフルネスもまた同じく、暮らしそのものが修行という意味で同じです。そして修行の定義は、徳を積むことです。徳を積むとは、自分の喜びが全体の喜びになり、みんなの喜びもまた自分の喜びになるという自他一体の境地でいることです。

そうであるために、常に日々を磨いて日々を味わい、日々を一期一会に調えていくという具合です。生き方を同じくする仲間や同志との暮らしは心地よく、味わい深いものです。

子どもたちや子孫に、自然に先人たちの尊い生き方が伝承できるように場を調えていきたいと思います。

徳の周波数~暮らしフルネスの智慧

今、私は水鳥が飛来してくるような場所に住んでいて朝から様々な鳥の鳴き声が聞こえてきます。特にこの時期は、繁殖期でもありとても賑やかです。また耳を澄ますと小さな虫の羽音や植物の葉が風で擦れているような音も聴こえます。池の周りを歩いている人の話し声、車が通りすぎるエンジンやタイヤの音もたまに混ざります。

夜中にふと目が覚めるとそういう音は聞こえてきません。ただ、頭の中に響いているようなキーンという一定の響きだけが聞こえてきます。無音というものはそう考えてみるとありません。そして周波数もなくなることはありません。それはすべてのものは音を発しているということになります。

そして振動というものがあります。二つ以上の周波数が混ざり合って振動するというものです。音楽などはあらゆる音が振動して共鳴することで成り立ちます。鳥がお互いに鳴き合っていたらもはやそれは音楽ともいえます。

また地球上にあらゆる音が流れるとそれも音楽です。海の音、太陽が昇る音、風の音や地震、雷や雪などあらゆるものが自然の音を奏でています。周波数というのは、その存在そのものを顕現するように思います。

これはどんな周波数だろうかと私たちは音を聴きます。それは対話でも同じく、場を味わうときも同じです。そこに流れている周波数を通して、そのものの正体を察知することができるのです。

ある意味、すべての物質も周波数を常に奏でています。そして同時にそれが集まれば振動となります。どのような共鳴をするか、どのような調和をするかは、その周波数を感じる人によって調整、調律されるのです。

私は、手で調整や調律をします。それをお手入れともいいます。一つ一つのものを手で触り、それを磨き調えて適切に配置してそのものがそのものであるように、そして持ち味が活かせるように配置していきます。そのものがもっとも喜んでいるとき、喜びの周波数が出てきます。その喜びの周波数を自分が同時に喜んでいるとき、そこに徳の周波数が発生します。

徳の周波数を大切にすれば、人はその徳に目覚め徳の素晴らしさに感動するのです。引き続きこの知恵を子孫へと場を通して伝承していきたいと思います。