徳の場

すべての物は心を顕しているものです。そしてそれを集めて人はそれを場と呼びます。これは単なる場のことではなく、心の場ということになります。その心の場には、徳が集まります。それを私は徳の場といいます。

この徳の場というものは、人間の心を磨くための場です。そしてそれが学問の道であり、生き方や働き方そのものになります。

それを体験するということが、人生の豊かさに気づくことではないかと私は思います。

聴福庵に来庵される方々は、その場の持つ徳に感動されます。それはその場が心を形にしたものだからです。そしてその場を共に磨くことでその心を学びます。心を学ぶことは、徳を学ぶことです。

なぜ人が徳を学ぶのか、それは忘れてしまった形を思い出すことです。現代は、鋳型に嵌め込まれるように型通りの生き方を押し付けられてきました。本来の自分の持ち味や徳というものは、自らの心が形になっていくものです。そしてそれは懐かしい道具や暮らしなども同様に形として残存してきました。

今ではガラリと変わってしまったその形を、徳の場に来て体験をすることで心の形に気づき直します。

これは一般的な学校や塾で勉強する暗記中心の学問とは異なるものです。つまり実践学問ともいい、自己の徳を学び直す学問ともいえます。古民家をはじめ古いものは単に劣化したものではありません。そこには心の形があり場があります。その場が甦る体験というのは、単に古いものが新しくなったのではありません。

これはむかしも今も「徳の場」になっているということです。

徳の場の体験が、本来の生き方や働き方や人生をよりよく豊かになる学びに結ばれます。人生の豊かさは、徳に気づき、徳を磨き、自らも徳になることです。

この時代の徳を学ぶ場として、世界一の徳の場を体験してみませんか。

山岳信仰の甦生

英彦山は霊峰として太古のむかしから先人たちに尊ばれてきた場所です。山の中に棲んでみて場をととのえるとその異界感を感じます。特に、雨を中心に水気を感じると全体が水に包まれているのを感じます。

もともと山岳信仰というものは、水分(みまくり)の神様をお祀りします。山の猟師たちも山には女神がいると信じられてきました。水は農耕を司り、そして私たちの食事を支えてくれる大切な存在です。今、私たちが食べることに困らないのはお山の御蔭ということになります。

なぜ険しく高い山々になぜ私たちの先祖は祈り拝んだのか、

食べ物のことから掘り下げてみると今の時代は、食べ物はどこからがはじまりなのかなど考えることはほとんどありません。スーパーやコンビニに当たり前に買え、流通も世界中を網羅していますから海外のものや日頃は手に入らない珍しいものまで揃っています。もしもこれらがない時代はどうだったか、少し想像力を働かせてみるとわかることがあります。

最初の先祖たちは自然から分けていただけるものを食事としていただいていました。木の実をはじめ、果物、野草や野菜、川の魚や貝などです。雨が降らなければもちろんこれらの食べ物は一つとしてありません。なので雨乞いをしたのは、食べ物を分けていただくためです。そして雨が降っても山岳がなければその水はあっという間に海に流れてなくなります。川が何日も水が流れ続けるのも、養分を海に運んでくれて魚が増えるのもすべて山岳の御蔭ということになります。

お山に供物を捧げて供養と祈祷をするようになるのも、これは当然の歴史であることが簡単にわかります。それは貴重な恩恵をいただくお山の神様への感謝をいのっているのです。宗教が山に集まってきたのは、そのお山に祈る人たちのお世話をしたからではないかと思います。

人々がお山に来る理由は、そのお山の恩恵をいただいていることへの感謝を忘れていなかったからでしょう。またお山には不思議な力があり、異界があったとも信じられていました。山岳の聖地には、霊験の場が満ちています。澄み切った領域があり、そこに心身を置くと自分の我が取り払われていきます。感覚が研ぎ澄まされることで、人は元々もっていた不思議な能力が開花するものです。

それは嵐や雨を予測できたり、少し先の危機が予感できたり、身体的な機能を著しく上昇できたりと様々です。これは山岳の中で磨かれる力です。そういう人たちがのちに修験道という言われ方をしていたのでしょう。

のちにこういう山岳で自らを磨く人たちを自然と生きる人たちの模範、日本人の模範とされたのではないかと思います。それが明治以降に、国家宗教を設けたことで山岳宗教は禁止になりました。しかしこれはあくまで宗教の話です。

山岳信仰は禁止にはできません。なぜなら今も私たちは山岳の御蔭で暮らしを成り立たせることができているからです。山岳信仰はますますこれから盛んになると私は信じています。

そのためにお山での暮らしを甦生しているのです。私はもともと宗教には尊敬はありますが憧れはありません。しかし生き方としてお山で生きている人たちのことは憧れがあります。

引き続き、子孫たちへ先人たちの大切にしてきた暮らしが伝承されていくように英彦山から日本や世界へ祈りを続けていきたいと思います。

面白いことの本質

昨日は無事に英彦山守静坊で夏至祭を行うことができました。天気予報では大雨でしたが、奇跡的に晴れ間が広がり徳積講の仲間たちのと夏至の日の光の浄化を楽しみ味わうことができました。

今朝の英彦山はずっと雨で昨日の太陽がまるで嘘のようです。以前、冬至祭の時もでしたが深く自然への畏敬が通じているのか運のよいことが続きます。

今回の神事もまたいつものように暮らしの中で行いました。みんなで共に祝詞をあげ、一緒に般若心経を唱え、一人ずつ私の発案の備長炭護摩焚きをし、火吹き煤竹で息を吹きかけ音と火の明かりでこの一年の半分のあらゆるものを省みて願い、祈り浄化しました。その後は、西から入る太陽を神鏡に写し、その反射した光を1人ずつ浴びて祈り新たないのちを喜びました。鏡が265年前のものですから、途絶えていた伝承をまた新たに繋ぎ直したことになります。

みんなの顔に光を当てると一人ひとりが神々しくなり、まさに「面白き」状態で喜びと福と仕合せに満ちました。

もともと面白いの語源は、「面白し」という古代の言葉から派生したものともいわれます。目の前が明るくなった状態や火に照らされた顔が白く浮かび上がったという説がありますが、まさに昨日のお祀りはその説そのものを実体験するような”面白い夏至祭”になりました。

毎日、浴びている光を改めてじっくりと味わい一期一会に感謝してみんなで喜び面白くなる。こんな豊かさが果たしてあるでしょうか。行事のための行事や、イベントのためのイベントではなく暮らしの一コマとしてみんなと分かち合う喜びと仕合せは格別なものです。

私はそれを暮らしフルネスと名付けて実践をし、この今、一期一会のその時々を味わい喜び、徳を積みいのちを循環させていきますがその都度、偉大な豊かさが溢れ出てきます。

そもそも現代においての「足るを知る」とはどういうことでしょうか。

それは当たり前のこと、つまりは当たり前と気にもとめない日頃の暮らしを見つめ直しそれをさらに深く味わい盡すということだと私は思います。先人たちがしてきたように、私たちも空氣や水や光や風や火などをはじめ当たり前にある存在に深く気づき初心を忘れずに和合する感性を磨いているということではないでしょうか。

昨夜は一晩中、その太陽からの光の火を焚きみんなで面白くなっていました。

この時代の面白くかる本質は、うれしい、たのしい、しあわせ、ありがたいという暮らしフルネスの喜びを実践していくことです。

子どもたちがいつまでも豊かに生きていけるようにこれから冬至へ向けて、これからまた太陽の光と共に面白く歩んでいきたいと思います。

クラシフリー

昨日、会津にいる友人から「PhaseFree(フェーズフリー)」という言葉を聞きました。これは平常時(日常時)や災害時(非常時)などのフェーズ(社会の状態)に関わらず、適切な生活の質を確保しようとする概念のことをいうそうです。

これは防災の概念から産まれた言葉の一つだといいます。では防災とはどう違うのかというと、人々が備えることを前提としているのが防災、人々は備えられないことを前提としているのがフェーズフリーであるといいます。

また具体的には、平常時と防災時と対応をわけるのではなく常に日常そのものが防災的な暮らしをしているということだと私は思います。普段でも活用できるもので防災時にもそのまま活用できるという平時も防災も選ばない普遍的な状態を保つということでしょう。

またフェーズフリーの5原則というものがあります。そこにはこうあります。

常活性 どのような状況においても利用できること。
日常性 日常から使えること。日常の感性に合っていること。
直感性 使い方、使用限界、利用限界が分かりやすいこと。
触発性 気づき、意識、災害に対するイメージを生むこと。
普及性 参加でき、広めたりできること。

これが最近では、商品開発などでも使われています。昨日の友人は、玄米ポンセンを取り扱っていて日常食としても防災食としてもそのまま役に立つことが大事だと話をしていました。

これはよく考えてみると、今の日本のようにありあまる富と豊富な物資、消費経済のなかで廃棄することも価値のようになっている金融が中心になっている世の中においてはそもそもが防災対応ではなく嗜好的なライフスタイルに傾いているものです。

本来は、先人たちが暮らしそのものがこのフェーズフリーでしたがそうではない世の中になるとこれが新しい概念ということになるのでしょう。

私は古民家甦生をはじめ、暮らしフルネスを実践していますのでフェーズフリーの生活をしているともいえます。漬物をはじめとした発酵食、また炭を中心に井戸水での暮らし。身近な畑に野草、薬草を取り入れ、乾燥野菜や保存食もつくります。また暮らしの道具たちも先人たちが大切にしてきた知恵のあるむかしの道具ばかりです。

もちろん現代の道具もフル活用しますが、それだけではなく先人たちの懐かしい暮らしは保っています。これは別に防災のためということではなく、暮らしが豊かになり幸福が増すからです。

例えば、ガスでつくる料理は早く便利ですが炭火で火吹き竹をつかいつくる料理は別の意味で格別なものです。火の通り方も異なりますが、その火に触れる時間、また味も意識もまったく変わります。

そう考えてみると、災害時はお金を稼ぐ活動に時間が使えなくなりますからその分、豊かな時間がたくさん増えるということでしょう。私たちは金融的な経済活動を優先するあまり防災する暇もなくなっているという悪循環の生活スタイルを生きているともいえます。

子どもたちには、防災を学ぶことも大切ですがなぜ防災意識そのものが失われるのかのことも同時に現実として伝えていきたいものです。まさに暮らしが中心、知恵のある生き方、知恵を実践する暮らしフルネスはクラシフリーとしてこの先も必ず知恵と共に人々を助けていくように思います。

 

徳の周波数~暮らしフルネスの智慧

今、私は水鳥が飛来してくるような場所に住んでいて朝から様々な鳥の鳴き声が聞こえてきます。特にこの時期は、繁殖期でもありとても賑やかです。また耳を澄ますと小さな虫の羽音や植物の葉が風で擦れているような音も聴こえます。池の周りを歩いている人の話し声、車が通りすぎるエンジンやタイヤの音もたまに混ざります。

夜中にふと目が覚めるとそういう音は聞こえてきません。ただ、頭の中に響いているようなキーンという一定の響きだけが聞こえてきます。無音というものはそう考えてみるとありません。そして周波数もなくなることはありません。それはすべてのものは音を発しているということになります。

そして振動というものがあります。二つ以上の周波数が混ざり合って振動するというものです。音楽などはあらゆる音が振動して共鳴することで成り立ちます。鳥がお互いに鳴き合っていたらもはやそれは音楽ともいえます。

また地球上にあらゆる音が流れるとそれも音楽です。海の音、太陽が昇る音、風の音や地震、雷や雪などあらゆるものが自然の音を奏でています。周波数というのは、その存在そのものを顕現するように思います。

これはどんな周波数だろうかと私たちは音を聴きます。それは対話でも同じく、場を味わうときも同じです。そこに流れている周波数を通して、そのものの正体を察知することができるのです。

ある意味、すべての物質も周波数を常に奏でています。そして同時にそれが集まれば振動となります。どのような共鳴をするか、どのような調和をするかは、その周波数を感じる人によって調整、調律されるのです。

私は、手で調整や調律をします。それをお手入れともいいます。一つ一つのものを手で触り、それを磨き調えて適切に配置してそのものがそのものであるように、そして持ち味が活かせるように配置していきます。そのものがもっとも喜んでいるとき、喜びの周波数が出てきます。その喜びの周波数を自分が同時に喜んでいるとき、そこに徳の周波数が発生します。

徳の周波数を大切にすれば、人はその徳に目覚め徳の素晴らしさに感動するのです。引き続きこの知恵を子孫へと場を通して伝承していきたいと思います。

伝統の魂

現在、英彦山の宿坊での暮らしを調えていくなかでかつてその場所で行われていたことを一つ一つを甦生させています。その中で、学び直すことが多く私たちの先人たちがどのような伝統を創造してきたかも気づき直しています。

知識というものは、先に持つこともできますが実際には後で持つ方がためになります。何のためになるかといえば、革新するときのためになるのです。先に伝統を学ぶのではなく、先に伝統に親しむ方が後から変化させることが容易くできます。

私の場合は、場から学び、そのものから理解する癖があり体験を重視し気づきを尊重するので知識が後になることがほとんどです。このブログも、後の知識であることがほとんとで先には親しむだけです。この親しむというものも、素直さが必要でありよくそのものに使われるような謙虚な気持ちがなければなかなかそうならないものです。

よく考えてみると、幼い子どもたちは先に知識がありません。そのものからよく使われているうちに次第に知識が集まり習熟していきます。発達というのは、そのものであるということでしょう。

また伝統というものは、誰かがそれをはじめに創造してそれが時間をかけて繰り返される中で育まれていくものです。しかし気が付くと、形ばかりに囚われて中身がないものがたくさん出てきます。この時の中身とは何か、それは魂ともいえるものです。

かつて柔道の父といわれる嘉納治五郎氏が「伝統とは形を継承することを言わず、その魂を、その精神を継承することを言う」と仰っていました。まさに私も全く同感で伝統だけを保存することに何の意味があるのかと感じます。保存というのは、活かすことであり単にショーケースに居れたり形だけを保ち続けることではないのです。

そこには魂が宿るのですから、その魂を受け継ぐことが真に伝統を革新しているということになると私は思います。

また南方熊楠がこうもいいました。「森を破壊して、何の伝統ぞ。何の神道ぞ。何の日本ぞ。」と。そもそも伝統が最優先ではなく、子孫や自然を如何に守るかということでしょう。その手段としての伝統や神道などがあるということでしょう。

そもそも何のために伝統があるのかを考えれば、そこには守りたいものがあるからでありその守りたいものを守るところに魂があるということです。

伝統の魂を守ることを伝承ともいいます。伝承には純度が必要でそこには魂が宿っていることが最低であり絶対条件でしょう。周囲がどういおうと信念をもって実践できるかどうかが志の登竜門ということでしょう。

引き続き、子孫のためにも英彦山で伝統の革新を続けていきたいと思います。

墨の智慧

昨日は、英彦山の守静坊で8回目の仙人苦楽部を行いました。今回は山水画の仙人でしたが4時間ほどの知恵を共にしましたが深い体験ができました。参加した方々はみんな山水画ははじめてでしたが、そのどの画にもその人らしさをはじめ場で得た境地を拝見することができました。

最初は仙人からの山水画とは何かという話にはじまり墨の濃淡のこと、筆の持ち方、そして画き方などの基本についてのお話をいただきました。とても謙虚に、山水画の楽しみや喜び、画の持つ妙味を全身でお伝えいただきました。

そしてみんな画への苦手意識など全く気にならず、それぞれが没頭してテーマに対して楽しく集中して画き楽しみ喜びあいました。守静坊英彦山の場の力もあり美しい新緑の光や風に見守られ一期一会の山水画のお時間を過ごしました。

また仙人がライブでこの英彦山と守静坊と仙人を即興で画きあげてくださって、その雰囲気にみんな深く魅了されました。

私たちは画いてみるときはじめて深く観察します。ただ見ているのと観ているのとではまったく異なるということ。そして美しさや自然というものを感じるのは、相性がありその相性そのものを通して和合していく豊かさ。さらには、現実にこだわらず理想を自由に画くことの大切さなどの素晴らしさを学び直すことができました。

私は炭大好きですが、この墨も同様に深く愛しています。この墨が画く濃淡には、火の心があります。この火は、消えているようでも墨に残存しているものです。その火を、水で濃淡を調整してそこにいのちを宿します。まさひ火水(カミ)の業です。墨はその神がかる力があるのを直感します。

この墨を用いて画くものは、私にはとても相性がよさそうです。これから少しずつ仙人から学んだ知恵を掘り下げて、場をさらに磨き上げていきたいと思います。

ありがとうございました。

暮らしフルネス 掃除の意味

暮らしフルネスの中では、よく掃除をします。掃除というよりもお手入れという言い方の方が多くしますが、これには色々な理由があります。また道具もむかしの日本の職人たちがつくった和帚を使います。現代は、箒も中国産や東南アジア産ですぐに壊れますが安いものがたくさんホームセンターで販売しています。便利ですがすぐに傷むのでどうしても使い捨てになります。さらには掃除機が普及したことで、余計にむかしの道具は消えています。日本で箒職人さんというのはほとんど見かけなくなりました。

手間暇かかる自然の道具は、時間も労力もそして技もいるので安い海外産が入ってくるとどうしても駆逐されていきます。畳なども同様です。しかし畳の時も同じで、伝統の和のものは本来は日本の風土を活かした風土と一体になった暮らしの中で循環する大切な暮らしそのものでした。

日本の暮らしを味わうためには、先人の生き方に倣いその先人の知恵を尊敬のままに活用することで感得できるものです。そういう意味で、掃除というものは知恵の宝庫です。

もともと掃除という言葉の由来を調べていると、中国からのものであることがわかります。この時の掃除は、廟の中を祓い清めるために行いました。もともと箒というという字も「ほうき」は「ははき」の音が変化したもので「ははき」は、古くは鳥の羽を用いたところから「羽掃き」となったとあります。その道具は棒の先端に細かい枝葉などを束ねて取り付けたものです。

これを「帚(そう)」と呼び、そこに酒をふりかけるなどして廟を神聖に保ちました。この字に竹を冠したものが「箒」でその異体字として「草」を冠した「菷」の字になりさらに「手」にとって廟の中を祓い清めたら「掃」となります。そして「掃除」の「除」は“あまねく”という意味で、神聖な場所を余すところなく掃き清めるということです。

特に禅宗では「一掃除二信心」というように掃除こそすべての修行の先であるともいわれます。和箒となると、神道ではもともと箒神(ははきがみ)という産神(うぐがみ、出産に関係のある神様)が宿ると信じられていました。古事記にも「玉箒(たまほうき)」や「帚持(ははきもち)」という言葉で表現され祭祀用の道具として用いられていました。

それだけ掃除や箒は、神聖なものということでしょう。仏教でも周利槃特といって掃除で悟りを開いた方がおられました。掃除という儀式や実践そのものが信仰の原点であるというのもよくわかります。

私も古民家甦生を通して、実際にやっているほとんどは掃除の実践です。本当に驚くほど、掃除とお手入れしかしていません。しかしそれが何よりも家が喜ぶことになり、自分も場も喜びます。

色々と情報化社会で便利でお金で何でも買える世の中になっていますが、掃除もメンテナンスや掃除屋さんに頼んでは強烈な薬品や業務用の掃除機やブロアーで吹き飛ばすようなことが盛んです。時短で効率優先というのは、掃除や和帚にそもそもの意味がなくなってしまえばそうなるのは当然です。

時代が変わっても、初心を忘れないこと、意味を場に留めることは伝統や伝承に関わる人たちの大切な責任と使命であろうとも私は思います。時代の流行や日々の喧騒に流されないように丁寧に暮らしを紡いでいきたいと思います。

原初の感覚

今年は辰年ということもあり、龍とのご縁が増えているとブログでも書きましたが引き続きあまりにも龍に関することが次々に発生するので色々と深めています。

私の場合は、スピリチュアルでもなく特定の宗教への信仰があるわけではなく感覚や歴史を掘り下げていくことで好奇心に委ねながら学び直していきますが学術的かというとそういうわけでもなく自然から教えていただいたものをどう汲み取るかということを大事にしています。

例えば、英彦山の守静坊に滞在しお山やお水とずっと心を澄ませて触れていきます。すると、次第に月が身近に感じるようになり龍という存在とのご縁が増えていきます。龍が増えていくと、次第に役行者や瀬織津姫、あるいは弁財天など神仏混淆したものとのつながりが出てきて次第に出雲族のことや海神族、龍蛇族のことなどのことを深めていきます。また魏志倭人伝にある邪馬台国のことや、一支国のことが出てきます。ルーツというものは、今も繋がっていて辿っていくと原始や原初の存在に巡り会うようにも思います。

これは自分というものの存在も同じです。先祖を辿れば、先祖が通ってきた道を実感することができます。今の自分の存在の個性や魂が望んでいることや出来事、あるいはご縁のある人たちとの関係をよく観察して直観するとその理由があることがわかります。すべてのことは認知していないだけで、今、こうなっていることは全ては理由がありご縁があることしかこの世にはありません。

人間は不思議ですが、同じようなことを何回も生まれ変わり体験しその記憶を思い出し鮮明に甦生させているだけともいえます。時間というものの概念をもしも取り払うのなら、私たちの記憶こそが実体の正体でもありその記憶のために体験を続けているともいえます。

話を戻せば、龍というのは、月であり、水であり、夜であり、山であり海でもあります。夜の月明かりに照らされた海の一筋のゆらぐ光ともいえます。漆黒の闇を導く透明な光です。

私たちの心が澄んでいるのなら、龍はそこに顕現してきます。古代の人たち、あるいは原初の先祖たちは龍を感じていつも生きていたように私は思います。時代がどう変化しても、原初の感覚を研ぎ澄ましてかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

長期的に醸成するものを観る

物事というのは長期的に醸成されることと、短期的に可視化されて理解されるのではその意味や内容が異なるものです。例えば、田んぼでいえば稲が収穫されていますがこれは短期的に可視化されたものです。しかしその一年の田んぼでのめぐりを通して土や地力が高まっていくのは長期的に醸成されるものです。

つまり私たちは稲を見てはその土の力を感じ、田んぼというものを理解するのです。世の中の半分は目に見えるもの、そしてもう半分は目に見えないもので構成されているのがこの世の中の理です。

朝、太陽の光が差し込んできます。太陽の光は目に見えますが、もう一つ光とは別に目に見えない気が入ってきます。元氣の中心ともいうべきものですが、これも同様に私たちは澄んだ光を見てはその日の元氣を感じるのです。これは夜の月も同様です。目に見える月の満ち欠けを見てはその月の成長を感じ、同時に目には観えない重力や引力を通して月というものを理解するのです。

現代は、目に見えるものだけを信じる世界になりました。これは言い換えれば、短期的なものしか見ないという世の中のことです。近視眼的に目に見えるものだけを科学的に証明して信じるという世の中は、目に見えないものを蔑ろにしてないもののように接する世の中です。

先ほどの田んぼであれば、稲さえできれば土などは関係がないという田んぼの考え方。太陽の光であれば、明るて温度さえ出せれば太陽でなくても代替えできるという考え方。月などは夜空のネオンや部屋の明るさのせいで観ることもなくなっていきます。

私たちは目に見えないものを語り合うことで長期的に醸成されるものを大切にしてきました。それが伝統文化や伝承文化、歴史やいのちというものです。今の時代は、歴史も教科書に載っているものしか信じない世の中になり、文化も形だけの形骸化されたものだけになり、いのちは動いているものだけにあると思われている様相です。宗教においても、教えという組織化するためのメソッドだけが信奉され、本来の信仰という長期的に醸成されるものは失われつつあります。

人間の目は確かに、身近にあるものを見通してくれます。しかし本来は、半分目を閉じて心の目を開き心を通してその長期的に醸成されるものを観ることができたはずです。この力は、使わなければ減退していきます。私たちは自然と離れて暮らす前は、この力を重宝してきました。その御蔭で自然災害を未然に防ぎ、自分のいのちのバイオリズムや諦観といった自然の一部として循環する時間を持っていました。

私たちが今こそもっとも取り戻さなければならない力は、この長期的に醸成する目を磨いていくことだと私は思います。

子どもたちがこの先も安心して暮らしていけるように、徳を積んでいきたいと思います。