暮らしフルネスの理解

昨日は、ある自治体の職員さんたちが聴福庵に視察に来られました。あまり対外的には視察は受け容れていないのですが、かねてから深いご縁のある地域の方々でもあり共に学び合う気持ちで情報交換をする機会がありました。

私はよくそもそも論の話ばかりをします。そして目標よりも目的の話をします。また対処療法よりも根源的な解決方法について話します。時間軸も長く、短期的な評価は後回しに行動し実践している事例ばかりを話します。こういうことを並べていたら、世間一般的に流行っているまちづくりの話とは異なり聞いている方も固定概念との折り合いがつかず大変そうです。

しかし実際には、歴史を学べばその意味がわかります。

いくらその時々で最高のものであってもすぐに人が代わり時代が代わり価値観が変わればあっという間に最悪の結果になったりもします。その時々の最高の方法や答えだと思えるものほど信用のないものはありません。だからこそ私は先人の知恵や、伝承された文化の知恵を重宝してそれを現実の取り組みに取り入れているのです。

ただしこれはどれも評価しにくいものです。中庸のようなものであり、中心を捉えることができなければ理解していくことも難しいものです。世の中はほとんど二元論で考えられます。それは言葉という道具が便利な構造をしている分、分断したもので知識を理解するという仕組みになっているからです。

本来は分かれていないものも分けて考えているうちに専門的になって知識は偏りますが、実践していなければ中庸も中心も捉えることはできません。それが知恵だからです。

私はどうも知恵を話しているようで、そもそも知恵だから話でわかるというのは限りなく不可能です。なので共に実践して体験しながら学んでいく、共に知恵を使い共有していくという方法が必要です。

それがあまり視察を受けても意味がないことがわかり受け付けなくなっている理由にもなっています。一緒に実践したり学び合ったりするには場が必要です。その場をどのように創造するかは、共に志を持ち取り組む仲間になっていくということでもあります。これは自分に見返りを求めず徳を積み、子孫のために何をするか決めていくことに似ています。

まだまだはじまったばかりですが、同志が増えていくのを感じます。真摯に日々の暮らしフルネスの実践を丁寧に取り組んでいきたいと思います。

拝む実践

先日、ある方から「拝む」ことについてのお話をお伺いすることがありました。人がなぜ拝むのかという問いのことです。その方は、拝むのは拝まれているからこそ拝むのだということです。

挨拶なども近いものがありますが、相手が挨拶をするから挨拶をします。相手が挨拶をしていないと思っていても、こちらが挨拶をしていると思えば挨拶をするものです。これはすべて相手が先に自分に対して挨拶をしてくださっていると思うと挨拶を先にするのは特段おかしなことではありません。

拝むというのは、その方が仰るにはご先祖様をはじめ、多くの方々があなたのために拝んでくださっているということ。その思いに対してもったいないと思うからこそ拝むのだといいます。

そこから、少し振り返ってみて一体誰が自分を拝んでいるのだろうかと思い出すとまず祖母のことが浮かんできます。祖母はいつも家族のこと、孫のことを神仏に拝んでいました。毎朝、毎晩、事あるごとに拝んでいたように思います。そして今度は、母です。母も気が付くと、祖母の後をついでいつも神仏に拝んでいます。きっと同じように家族のこと、孫のことを拝んでいます。

よく考えてみたら、ずっと誰かに拝まれてきた記憶があります。それがご先祖様であったり、家族であったり、友人、仲間たち、そしてご縁の結ばれている方々などが瞼の裏に映ります。そして、もう一つ、頭では考えられませんがずっと以前に先祖たちが結ばれた人たちがお互いに助け合い救い合い、恩返しや恩送りをしながら拝んでいる姿が想像できます。いつかこの御恩をお返ししますと誓い合った絆や徳、感謝の循環が今の私にも降り注いでいます。

そういう人たちが天国や別の次元からいつまでも拝んでくださっていると感じるのです。偉大な経糸と、現在に直観する横糸、それが網の目のように網羅されて今の私がその一つとして存在しています。それは拝むことに由って結び目が光り、拝み合う力によって繋がっていることに気づくのです。

手を合わせて拝むことは、拝んでくださっている方々へ向けての大切な感謝のご挨拶なのかもしれません。

大事なことを忘れないよう、当たり前ではない有難いことに気づけるよう、いつも真心で拝む実践を続けていきたいと思います。

ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。

教育の醍醐味

昨日、かつてある高校で3年間一円対話を実践し指導してきた生徒に改めて一円対話の意味を説明する機会がありました。これは卒業論文の研究テーマを一円対話にしてくれたことからのキッカケです。関わったのは7年も前になりますが、それがいつまでも心に残りこのように自分が教員になっても大切にしたいと思ってくれていることに有難い想いになりました。

教育の面白さは、見返りのないこと、そして長い年月をかけて醸成されそれによって世の中がさらに善くなっていくことです。私も保育に深く関わってきましたが、創業して21年になりますから最初に関わってきた園児たちは間接的にももう20歳を過ぎています。

思い出すと、あの頃も今も変わらずに未来へ希望を持ち、子どもたちがこの先の人生を真に豊かに幸福になってほしいと祈りながら取り組んでいることは同じです。有難い人生を戴いたことに改めて深く感謝しています。

取材の方は、そもそもなぜ一円対話をはじめたのかというものでした。

改めて、ヤヌシュコルチャックのこと、二宮尊徳のこと、良寛さんや親鸞さん、吉田松陰や郷中教育など自分に影響を与えたことを整理して話をしていると私も初心を思い出すいい機会になりました。

世界が戦乱になってからの対処療法ではなく、未然に如何に防ぐのか。未病のうちにいかに健康を維持するのか、そのために教育が大切であることを改めて説きました。そして今のように伝統文化のこと、伝承のこと、知恵のこと。先人への感謝と供養、そして子孫たちへつないでいくことの本当の意味なども話をしました。

今の世界の社会が今のようになったのは、ここ数十年の教育がどうだったかを証明するものです。そして今さに今、よく洞察し反省したことを如何にこの先の数十年に活かしていくのか。悠久の歴史の中で、教育は循環し反省と改善を繰り返していきます。

人類は、何度も似たような歴史を体験し同じ状況に陥ります。現在のような人口が増えた時代はここ数千年でははじめてですし、現代文明の石油や金融をはじめとした科学技術も軍事技術も進んだのもはじめてです。

しかし人間の本質は変わったわけではありません。

この短い一生で果たして何ができるだろうか、それを思う時、私はやはり徳や教育の方に深い意味を見出していきます。今だけ、金だけ、自分だけというような歪んだ個人主義や権力権威主義といわれていますが人類は本当は今生きていられるのは、先人たちの苦労や努力、いのりがあってこそです。

大切なことを忘れず、常に初心をお手入れし日々の暮らしから改善していきたいと思います。

いのちの養生

昨日は、堀池高菜の漬け直しを行いました。春先に漬け込んだものをこの時期に漬け直せば来春までまた漬かります。長いものでは9年目に入ったものがあり、3年目や今年のものもあります。長い時間をかけて漬け続けるにはコツがあります。

私はもともとこの堀池高菜は、供養のために続けています。採算度外視で儲けるためにやっているわけではありまんから唯一無二のものです。

例えば、30年以上農薬も肥料の入れない畑で自然農で行いこの地域にしかない伝統固定種の種のみでつくります。樽は吉野杉で塩も平窯天日塩、また天然秋ウコン、蓋は楮の和紙で閉じています。そして発酵場は林の日陰の風通しの良い場所で備長炭と共に寝かせ続けます。

こんな環境の中で育っていますから菌もイキイキしています。はじめて3年目くらいまでは腐敗することがありましたが今ではほとんどそれもありません。手塩にかけて塩梅をみながら丁寧に関わっていく。ずっと生きているものとして関わりますから大切に一緒に育っている家族のようなものです。

現代は、大量生産、大量消費で儲かるためにあらゆる作業を省いて効率優先、合理化優先していきます。すべては売り物、そして買い物にするために加工するのです。

私は加工することは儲かるためだとは思っていません。加工するのは、大切に扱うためのプロセスだと思っているのです。私が手掛けるこの堀池高菜は生産、加工という名の家族と共に暮らす豊かで仕合せな営みなのです。

その営みのなかで出来上がったものだからこそ、舌先三寸では味わえない深い滋味があります。その滋味を感じていただける人たちからは、本当に喜ばれ、運がよくなりそうだと感動されます。

この場所、この土地ならではの風味は風土がつくります。

そしてその風土で育ち、風味をわかる人だからこそ滋味が出せるのです。身土不二という言葉もあります。これは『体と土とは一つである』という意味です。私たちは土を食べる化け物ですからその土地の味はその土の味でもあります。

今では遠くの食べ物をどこでも便利に食べれるようになりました。しかし本来、食事というのは食養であり大切ないのちの養生の根源です。

だからこそこの土地に来て、この土地で自然に食べてもらうことこそがその土地のいのちを味わうことになります。

私がやっていることは、今の資本主義社会でやっている儲けるための食事とは異なるものになります。だからこそ儲からないし売れないし売らないのでは誤解され、道楽や趣味のようにいわれます。しかし本来、伝統文化や伝承というものはそのためにやっているのではなく、先祖代々、豊かに暮らし仕合せにいきる知恵を自分も同様に生きているということを守っているだけです。

子どもたちや次世代、子孫へ知恵が伝わり同じような仕合せが繰り返されるように今の時代の価値観に流されずに本質を保ち喜びを楽しむのです。これからますます遣り甲斐も生き甲斐も増えていきますから大切にいのちを養生していきたいと思います。

 

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。

ふるさとの徳

日本人とは何か、そして日本の心とは何か、これは世界に出るとよく感じるものです。海外の美しい文化に触れている時、それを味わうのに私たちは自分の体験や感性を使って共感できるものです。

例えば、自分がふるさとの美しい自然、そして水に触れて育ったとします。すると、その自然の美しさや水の澄んだ様子に心は次第につながります。それだけ環境の影響を受けて自分の感性は育ちます。心にふるさとというものとのつながりは一生をかけてその人に影響を与えます。

この懐かしさというものは、故郷とつながっているということに気づきます。この故郷は自分が生まれ育った場所、安心基地です。遠く離れたときにこそ、自分には心にふるさとがあることが大切になります。それは生まれてすぐから必要で、私たちは本当はこのふるさとの安心があって自由に豊かに育つことができるように思います。

一人で生きているのではなく、みんなに支えられて見守られて生きているということ。そういうことを私たちは感得することによって自分というものを確立して社会で助け合い貢献しあって自分を立てていくことができるからです。

子どもが自立していくうえで、陰の存在でありながらもっとも偉大な存在こそがこのふるさとなのです。

私が子ども第一義の理念を掲げ、社業に取り組むなかでなぜふるさとに帰りふるさととのつながりをつくるような暮らしフルネスを実践するようになったのか。もちろん自分を育ててくださっている日本の大切な風土に御恩返ししたいということもあります。しかし同時に子どもたちの未来のためにこの懐かしさを真摯に伝承していくことの重要性も気づいたからです。

なぜ三つ子の魂百までというのか、その真理に気づいたからです。子どもが育つというのは、この育つうえで何がもっとも養分になるのか。心と何を結べば無限の見守りを感じられるのかということです。

人間は実際は目に見えるものでささえられていると思いがちですが、実際には目には観えていない御蔭様や裏方のハタラキによって活かされています。それを徳ともいいます。その徳の存在を如何に循環させていくかというのは、甦生の中心であり私の生き方の目指すところです。

太陽と月、そして地球、この3つの持つ徳は子どもが育つ原点であり根源です。

知恵を活かして、懐かしい未来を心をつないでいきたいと思います。

竹垣の修繕

昨日、聴福庵の竹垣の修繕を行いました。毎年、2回ほど柿渋を塗り棕櫚縄で結び直したりしていましたが少しずつ傷んできます。蔓が巻き込んで壊したり、雨風でどうしても木材が腐食してきます。竹も時間が経てば、表面にざらざらと埃がついたりして傷みます。

お手入れをしていくことで長持ちしますが、油断していると急に壊れた気がしてきます。しかし実際には急にというのはなく、心を籠めて丁寧に観察していればどこが壊れてくるかなど次第にわかり早めにととのえておけばお手入れも少しで済みます。

もともと現代はやることが多く、少しでも気を抜けば忙しくなってしまいます。暮らしが消費に傾いていて、消費することで経済を活性化するというモデルですから世間の空気がそういう消費やスピードの空気です。特に都会に住めば、この空気はさらに密度が濃くなります。何かをやっていないと不安になるかのようにあらゆるものに手を出していきます。情報化がさらにそれに拍車をかけていきます。

本来、自然のリズムで生きていけば自然の循環を身近に感じてどのようにお手入れをしていけばいいかを暮らしをととのえながら組み立てていきます。それは今ではむしろ正反対、自然の利子で得た分をどうみんなで分け合うかという発想になります。なければないなりに工夫し、あればそれを使って修繕をしたり未来への徳を譲る活動をしてきたのです。

話を竹垣に戻しますが、聴福庵の竹垣は透かし垣です。もう一つの和楽の竹垣は遮蔽垣です。境界を示し風通しのよいものと、お庭の目隠しやプライバシーを守る意味もあります。

竹は天然の素材で毎年間引いていくことで美しい竹林ができます。またタケノコなども美味しく、旬を味わい健康にもなります。間引いた竹を家のあらゆるところに活用でき、しかも丈夫で長持ちし柔軟で使いやすい素材です。竹をつかった伝統工芸もたくさん出ていますがこれも自然のリズムと自然からの利子を活用した知恵です。

私たちはどうやったらこの地球で長く豊かに仕合せに暮らしていけるのかを考えて創意工夫して今があります。縄文時代より前、もう数万年も前からみんなで豊かに仕合せに生きていくためにあらゆることを実験して取り組んできたように思います。その知恵は古臭い過去の産物ではなく今でも最先端であり新しく、そして錆びつくことのない叡智そのものです。

竹垣は修繕したおかげでその場所にさらに深い愛着がわいてきます。さらにお手入れをして長持ちさせたいという気持ちも増えてきます。豊かさというものは、こういう物だけではなく心の豊かさや足るを知る感謝とともにあります。

子どもたちに暮らしの豊かさと仕合せ、暮らしフルネスの実践を伝承していきたいと思います。

甦生という技術

滝場との関係性が深まってくると、滝行する際の滝との関係性も変わってきます。この滝は、流れ続けている水であり澱んでいるものはありません。また岩場から流れ落ちるものです。その水は、ただの水ではなく信仰のある人たちは「お水、お滝」としいのちあるものとして接していきます。

このお水やお滝を大切ないのちのある存在だと深く尊敬している人には、形が同じものではなくなります。毎回、そのいのちに触れるたびに感覚が異なることに気づくように思います。

それは単に水量や水温、天候の違いだけではありません。その時、流れているお水やお滝の状況や状態、そして自分自身の内面、身体の状況で異なります。

時には、非常に冷厳で凍てつくような強いときもあれば穏やかで心地よく透明な風が吹き抜けていくような優しいときもあります。その時々のお水やお滝に触れることで自然と一体になることができるのです。

私たちは自然から離れることで様々な問題を抱えていきました。自然との共生をやめたことで苦しみや不自然が溢れてきました。そのことから自然の循環にある喜びや仕合せを感じにくくなり、心身の病も増えていきました。

人間だけが創り上げた世界や社会のストレスは、心身を蝕みます。愛を学び、人間であることの喜びも感じますが知識が氾濫し、分化し続けてきた複雑な状態は私たちの暮らしに大きな負の影響も与えます。

そういうものとのバランスをととのえるには、暮らしが重要です。ここでの暮らしは、仕事の余暇としての暮らしではなく自然と共生し一体になる暮らしのことです。すべての地球や宇宙の生命が循環しているいのちのリズムともいっていいかもしれません。

暮らしをととのえるというのは、この自然との調和に他なりません。その自然との調和の要諦は、甦生であることは間違いないことです。いのちは澱むと元氣が失われますから、定期的に甦生させていく必要があります。私たちが朝起きて夜眠るのもまた甦生の繰り返しです。他にも、火や水を活かしていくのも甦生の技術です。

科学がもっと進めば、本来の自然テクノロジーの価値も見直される日が来るかもしれません。今はまだ、時期尚早でオカルトや宗教などと偏見を持たれてしまいます。しかし先人たちが知恵を伝承して子孫たちにつないできたものは、確かな最先端の科学であることはそのうち証明されるはずです。

それまでの間、地道に粛々と子どもたちに伝承が途切れないように徳を磨いて積んでいきたいと思います。

使命の全う

昨日からハーバード大学で修験道の研究をされているカナダ人の方がBAに来られています。色々と情報交換をしていると、この道に入ったことの理由やその哲学などを語り合い豊かな時間を一緒に過ごしています。

もともとこの方が大学生の時に、仏教のことを教えるいい先生に出会ったことが切っ掛けだったそうです。この先生は、仏教の教えとして苦労することの大切さ、そして森羅万象の死について話をされたそうです。そこで価値観が転換し、仏教の道を学び始めたそうです。

その後は、カナダの先住民族の儀式で日本でいうお祓いのような行事に3年間をかけて参加して自分の中の価値観を醸成されたそうです。もう日本は12回目の訪問で、少し前までは出羽三山で研究を進めていたそうです。

このカナダの先住民の儀式をきくと面白いもので、シャーマンが石を火にかけてそれを円の中心に置き、サウナのようにみんなでその中に入ります。その石に、聖水や薬草のような何かをいれてかけてその水蒸気を浴びながら祈る、謳うという具合です。夕方17時くらいからはじまり深夜まで行われたそうです。まるで温泉やサウナに入ったあとのようなととのうような感覚だったそうです。

これを何のためにするのかと聴いたら、先住民族の方々は「甦生するため」とあったそうです。毎週1回、これをすることで生まれ変わることができるという意味だそうです。

この感覚は、私の取り組んでいる暮らしフルネスの「お手入れ」と同じです。私も、生きていたら日々に穢れもくすみもでてきます。それは物事が分化して複雑になっていくからこそ、初心に帰るように原点回帰していくためにも行います。

掃除も同じく、洗濯も同じく、使うと器が汚れるからそれを濯ぎ洗い拭いて仕舞うのです。私たちの心身は器ともいえます。その器には何が入っているのか、それをある人は心ともいい、またある人は魂ともいいます。どのような呼び方であっても、私たちは器に盛られた一つの存在です。

どのように生きるのか、器と一緒にどこに向かうのかは自分で決めることができます。どの時代においても、先を観て何が大切なのかと伝承してきた人たちは古から知恵を受け継いで現代も暮らしをととのえています。

暮らしがととのうことは、人間が自然の叡智をもって自然と共生し平和を保っていくことです。人間がこの甦生や生まれ変わりをしなくなれば、そのうち穢れも積もり悲しい出来事が増えていきます。

苦労も死も、私たちがどうにもならない諦観を持つための材料として存在します。何を諦めて、何を諦めないのか。現代のように人間中心の世界や社会が広がるなかで、どのような空気を吸っているのか。私たちは蓮の花のように汚泥で美しい花を咲かせる時、先人の偉大な徳を感じるものです。

子どもたちのためにも、自分の使命を全うしていきたいと思います。