懐かしくて新しい経済

経済という言葉や思想の変遷を深めていると、今の時代の経済がいわゆるむかしの商人の経済になり、それが価値観として最上のようになってしまっていることがわかります。

日本での経済の本来の意味は6世紀以降から中国の古典に記載のある語句に「世を経めて(治めて)民の苦しみを済う(救う)」という経世済民という言葉が使われていました。これは為政者たちが国を治めるために必要な徳目の一つでした。民の暮らしを豊かにして平和を持続するために、経済を調える必要があったからです。目的は、人民の幸福と国家の安寧のためです。

しかし江戸後期になり貨幣経済が発達してくると経済は次第に社会生活を営むための個人の消費や商売活動のみに意識が変わっています。明治に入り、西洋のeconomyという言葉が入ってくるようになりいよいよ経世済民というものは古い概念になり、新しい経済はいわゆる物の消費や利益を確保し個人が富を確保することのように変わってきます。

三浦梅園先生はそもそも為政者は、富を自分のところに留めてはならないといいます。それをすると単なる商人であると、為政者はその富を必要なところに循環させ自分ではもたず経世済民を怠らないことを説きます。最近近い人を見たなと思い出すと、世界一貧乏な大統領といわれたホセ・ヒムカ氏は経世済民の人物でした。資産はなくても心はとても豊かな方です。

話を戻せば実際に江戸初期の商人の行う経済と為政者の行う経済は別物でした。これにより富が独占され世の中が乱れたことで石田梅岩という人物を中心に商売と道徳の融合を唱え、江戸初期には士魂商才といった老舗を代表とする道徳と経済を一致させるような商人道が実践されてきました。大阪の懐徳堂をはじめ、近江商人などその頃は「三方よし」などの全体最適、利他を主軸にした道徳の経済が繁栄していきました。

この道徳の経済は、決して古臭いむかしの終わったものではありません。私の言葉にすれば「懐かしい経済」です。現代の新しい経済はどこか、個人主義や資本主義でいうところの「主義」に囚われ、自己主義で商売をし、国民全体、世界家族全体を豊かにしようとするものからますます遠ざかっているようにも思います。

実体の経済というのは、マネーゲームのように賢い人たちが富を使ってあれこれと遊んでいるのとは別のものです。自然と共生し、豊かな美しい徳に根差した暮らしの中でみんなで自己修養や集団の自治につとめ人格を磨き社会を調和させていくものです。商人が道徳を忘れてしまったら、国は乱れていきます。

実際に江戸時代初期の商人は、為政者の経済ではなく個人主義の経済でしたから卑しい存在だと疎まれたようです。しかし商人が卑しいといわれていたからこそ石田梅岩は、商売と道徳を一致させる商人道を切り拓きました。そして「お金は堂々と稼いだらいい。ただし、商売は正直と倹約の心を持って行わなくてはならないし、得た利益は、最終的に世の中のために役立てなくてはならない。」といい実践しました。

今は逆に道徳ではない商売の方が尊敬されているという不思議な時代です。現代では、お金持ちが偉い人、経済を動かす権威は立派な人だと尊敬されていますが時代が変われば価値観も変わるものです。こういう時は、尊敬されているのだから誰もここから道徳にとはなりません。だからこそ、何が必要か。それは「恥」の意識であろうと思います。尊敬でも軽蔑でもなく、恥の意識を持つこと。

恥ずかしいことをしまいとする、士魂士道、つまり生き方を実践する経済が必要だと私は感じます。これこそ、「懐かしくて新しい経済」になるように思います。

人間は時代の変化と共に価値観が変わります。しかしよくよく歴史に学び直し、価値観が変わっても、変えていいものと変えてはいけないものをしっかりと心に保ち実践することで子孫の永続と繁栄があります。

子どもたちのためにも、利己主義の経済に呑まれないように恥の感覚を磨いて仲間共に徳積みの実践を続けていきたいと思います。

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