視野を広げる

塩野七生さんという歴史作家がいます。「ローマ人の物語」というローマの1300年の興亡を描き切った方です。私も読めていないのですが、文章のところどころに視野の広さや戦略のこと、政治と軍事のこと、本当に深く洞察されております。

歴史は、よく見直し洞察すると現代でも起きている戦争や政治の混迷などほとんど似ていることが発生します。似ているということは、過去から深く洞察し歴史から学べるということです。

「戦略は、現状を正確に把握していさえすれば 立てられるというものではない。 過去、現在、未来を視野に入れたうえで、 それらを統合して立てるものである。そうでないと、たとえ勝利しても それを有機的に活用することができない。 活用できないと、戦闘には勝ったが戦争には負けたということになってしまいがちだ。 「自覚」が重要なのは、これこそが一貫した戦略の支柱になるからで、 それが確立していないと、 戦争の長期化につながりやすい。戦争は、攻められる側だけでなく、 攻める側にとっても悪である。 「悪」なのだから、早く終わらせることが何よりもの「善」になるのだった。」

本来の戦略とは統合されているものということ。統合できる視野があることを洞察されています。今のウクライナやロシアの戦争もまた、どのように終わらせればいいか、どの視野でこれをリーダーたちが理解できるかどうかによります。

「兵士を率いて敵陣に突撃する一個中隊の隊長ならば、 政治とは何たるかを知らなくても 立派に職務を果せる。 しかし、軍務とは何たるかを知らないでは、政治は絶対に行えない。 軍人は政治を理解していなくもかまわないが、 政治家は軍事を理解しないでは政治を行えない。人間性のこの現実を知っていたローマ人は、 昔から、軍務と政務の間に境界をつくらず、この間の往来が自由であるからこそ生れる、 現実的で広い視野をもつ 人材の育成のほうを重視したのであった。」

政務と軍務も本来は統合されたものです。それを分業することで視野が狭くなります。広い視野とは、分けないということ。それは一体であるという認識を持つことです。違いを認め合い、お互いの持ち味を活かすことこそ視野の広さを醸成していきます。

組織を含め、分けていくのは簡単ですが分けることで視野はどんどん狭くなるものです。どうやって共生するか、そして統合し思いやりのあるいい状態を創造するかに視野は育つように思います。

他にも塩野七生さんの遺した言葉があります。共感するものばかりです。

「危機を打開するには、何をどうやるか、よりも、何をどう一貫してやりつづけるか、のほうが重要です。」

「戦争は、死ぬためにやるのではなく、生きるためにやるのである。戦争が死ぬためにやるものに変わりはじめると、醒めた理性も居場所を失ってくるから、すべてが狂ってくる。」

「 100%の満足を持つなんて、自然ではない。天地創造主の神様だって幾分かの不満足は持ったに違いない。本当の仕事とは、こんな具合で少々の不満足を内包してこそ、実のあるものになるのだと思う。」
「危機の時代は、指導者が頻繁に変わる。首をすげ代えれば、危機も打開できるかと、人々は夢見るのであろうか。だがこれは、夢であって現実ではない。」
どれも高い視野で語られている言葉です。ローマという国がどのように興亡したのか。そこには歴史の深い教訓があります。人類は今こそ、歴史に学び直す必要性を感じています。
身近な実践から見つめていきたいと思います。

経世済民と暮らしフルネス

徳が循環する経済をと取り組んでいますが、もともとはこの世はすべて徳が循環することでいのちが繁栄しているともいえます。経済を単なるビジネスという視点で観るのか、それとも経世済民というように暮らしや幸福として観るのかではその結果も目的も変わります。

そもそも貨幣経済は方法論ですが、はじまりは政治が深くかかわっています。つまり、どのように社会を修めていくかという仕組みです。これは、すでに中国で論語の大学で「古之欲明徳於天下者、先治其国、欲其国者、先斉其家。欲其家者、先脩其身」と示されています。有名な一説、「修身斉家治国平天下」です。

まず自らを修め、家を修め、国を修める道こそ天下が幸福になると。そのためには経済をどう修めるかということを説くのです。国東にある三浦梅園もまた、その著書、価原のなかで道徳と経済の意味を説いています。

この道徳経済の一致は、他にも二宮尊徳や渋沢栄一、石田梅岩なども同様に実践と意味を発信してきました。結局たどり着くのは、何のための経済か、そもそもこの仕組みの初心は何かということを忘れるから何度も時代を超えて説かれるのです。

人間は、置かれた環境の中で多くの刷り込みを受けます。今の時代であれば、お金持ちというだけで大きな立場が得られて誰からも勝手に尊敬されます。良し悪しなどは、関係なく社会のなかで大きな地位や名誉、立場をえます。しかし、政治を考えたとき、何を規範にするか、どう修めるかをみんなで取り組むことで本来の政治は調いました。

徳を実践する人がいない世の中になれば、どうなるでしょうか。便利さや効率、そして合理的な判断が優先され政治はずる賢い人たちが世の中を統治するようになります。国家が乱れ、戦争が起きるのはそういう状態になっているときでしょう。それは歴史が何度も何度も証明しています。

だからこそ、国を修めるためには先ほどの修身斉家治国平天下という道徳=経済、つまり経世済民の思想と実践が必要だと何度も語られるのです。人は、油断をすると実体がないものを実態があるかのように仮想かして現実を塗り替えます。自然と不自然がわからなくなるのもそこからです。

本来、何が自然であるのか、何が当たり前であるのか、そういうところから今を見つめ直し、どうあるべきかをみんなで考えて取り組むのが学問の本質のように私は思います。

子孫のことを思えば、先人がどのような道を歩んできたかを観てもらい、その道が今どのようになっているのかを検証する必要を感じています。つまり歴史に学び、故人の遺志を伝承するということです。

小さなところから、ご縁のあるところから、徳の循環する経済、徳積経済と暮らしフルネスを体験を通して弘めていきたいと思います。

郷里の食文化

福岡の郷土料理にもつ鍋があります。以前、東京に住んでいるときにもつ鍋を食べたことがありますがもつが美味しくなくびっくりした記憶があります。故郷や地元で食べた方が鮮度も味も抜群です。特に私は炭を使いますし、水も井戸水などだしもこだわりますから遠方からの来賓のおもてなしで喜ばれています。

このもつ鍋の福岡での歴史はそんなに長くはありません。もともとの起源は、終戦して間もないころに当時炭鉱で働いている朝鮮半島の人々がもつとニラを一緒にアルミ鍋で炊き、醤油味で味付けして食べていたところからだといいます。もともと朝鮮半島の料理はチゲもですが、ニラや肉や魚の内臓をいれて煮炊きします。日本では、動物の内臓はもともと食べないことが多く元々は捨てるものであるとされていたことから関西弁で捨てるものを「放るもん」ということから「ホルモン」と呼ばれるようになったといわれます。私たちの郷里でも、捨てることを放るといいますから関西弁ということでもないのかもしれません。

内臓を食べる料理というのは世界中にあり、栄養価が高く健康にも優れているということもあります。それに戦後の食糧難で、どんなものでも大事に食べて健康を保とうとした工夫からもあります。もともと薬膳鍋のような効果もあり、消化にもよく、疲労回復や美容効果もあるといわれます。

もつ鍋に使うそれぞれの食材が栄養豊富なので、もつ鍋一食で摂れる栄養の種類も多く一つの鍋で多種類のビタミン・ミネラルを一度に摂ることができる優れものです。

その土地にある歴史を感じながら食べるということを私たちはつい忘れがちです。本来は、その土地に何かの文化が創造されたからこそ食文化も誕生します。その歴史の上に今の私たちがいることを忘れてはいけません。

今、私たちが住んでいる町はそれだけ文化が誕生し今でもその文化を伝承し、さらにもう一歩、その文化を甦生し創造していくことでいつまでも食文化も発展していくように思います。食べるということは、本来は文化を伝承しているということです。

子孫たちへ食文化の誇りも伝承していきたいと思います。

病気の正体

現代人の病気のほとんどは、がん・脳卒中・急性心筋梗塞・糖尿病、そして精神疾患があります。どれも理由ははっきりしていますが、その環境は取り除かずに病気を退治しようとするのでこれらの病気を扱う病院はいつもいっぱいです。それに医療費の負担も増え、そのうち何のために働いているのかと気づくほどにみんな病気に近づいていくかもしれません。

本来の健康は、未病であり、病気にならないような暮らしを調えていくことによります。病気になる生き方には、他人軸といった評価や期待、空気を読みすぎたり、比較されたり自分に厳しすぎて自己を大切にしなかったことなどで頑張り無理がたたり心身が病んでいきます。もちろん、いくら気を付けていても自分のいる環境がそういうところにいる場合は知らず知らずのうちに影響を受けて病気になることもあります。

自分というものを大切にしていれば、環境の影響があっても自分というものを持ち続けることもできるかもしれません。しかし人間は弱いもので、欲望もあり感情もありますからそんなに強いメンタルを維持することはなかなかできません。

そういう時は、自分にもお手入れが必要になります。自分のお手入れというものは、日々に自己の心と対話をする習慣をもったり、身体の声を確認する時間があったり、あるいは環境を変えて心身を調える場に身を置いたりなど工夫はできます。

私の場合は、ライトワークとして徳の循環する経済圏を創生していますから意識的に水や火を用いて自然から離れないよう、不自然と自然が何かを常に確認する機会に恵まれています。そして場づくりで風水をよく感じて、気の流れが澱まないように気を付けています。そもそも病気というのは、気の流れの澱みから発生するのではないかと私は直感しています。気が流れれば、病気は次第に快復していくからです。

例えば水でいえば、澱むことで水は腐ります。私たちは水を纏い循環することで生きていますが、排水や排出ができないと病気になります。植物も同じく、水というものがいのちの中心でありその水の流れ方がどうなっているのかというのはとても大切です。

暮らしフルネスを実践していますが、これはメンタルヘルスにも大いに役立ちます。そもそもむかしの先祖たちは病気を一番、気を付けていました。今では仕事を一番気にして病気になるという悪循環ですが本来は健康であることが一番であったのです。

健康でなければ喜びもしあわせもありません。常に健康で自他が喜び合う中に徳もあります。子どもたちのためにも、暮らしフルネスを伝道して子孫へと先人の生き方の知恵を伝承していきたいと思います。

私の伝統

私は色々なものを甦生していますがその一つの伝統というものがあります。そもそも伝統というものの定義は曖昧なものだと最近は感じています。最初からすべてのことはほとんど伝統ともいえます。誰が農業をはじめたのか、誰が林業をはじめたのか、創業100年とか500年とかいいますが、実際には農業はもう人類がはじまったくらいからありますから数万年あるいはもっと長く続いている伝統です。

10年でも伝統といえば、1000年でも伝統という。しかしその伝統とは、結局は続いているということを言っているように思います。むかし、誰かが発明したものが今でも採用され続けてどこかで使われているということです。

そしてそこにまた逆説があることがわかります。誰も採用しないものは伝統ではないとかということです。採用されないものを伝統だからと遺そうとするのは無理があるように思います。文化財の保存なども、私の場合はすぐに活用しようとしますがその活用を否定する人もいます。しかし活用を否定して伝統を守るというのは不可能ではないかと私は思うのです。一時的に、誰も採用しないので保存しておこうとするのはわかります。しかし実際には、活用しようとすると法律や日本独特の空気感で新しいことをするなと言わんばかりの声もでます。

本来、伝統とはその都度、新しく磨き上げていくものです。なぜなら、採用し続ける状態、活用し続ける状態を維持していかなければならないからです。

私も古民家を扱えば、色々な専門家からあれは間違い、これはわかっていないだのご指摘いただくことがあります。もちろん、それは学び、深め、理由を理解しますがそのうえで自分の好きなように改善します。なぜならそれが活用だからです。他にも、宿坊を甦生するとどうしても世間から見れば宗教染みたことをやってしまっていたりします。別に特定の宗教や宗派、ルールなど周囲を気にしていたら何もしない方がいいということになってしまいます。何もしなかったら活用できませんから維持存続することもできません。そうなれば伝統はそこで終わってしまいます。

私が考える伝統は、活用ありきなのです。活用するというのは、ちゃんと自分のものにしてそれを新しくし、使い続ける創意工夫をしていくということです。その時、それまでとは形が変わってしまうかもしれません。もちろん先人の知恵や技術、そして思想や真心などは当然尊重して尊敬していますがどう使うかはその時々の人たちの全身全霊ですから同じことはできません。

同じことなどは存在しないのですが、同じことを形だけ続けることよりも先人たちと同じようにその時代を真摯に生きてその真心と丹精を込めた生き方を実践していくことで人事を盡すことしかできないと私は感じます。

そもそも伝統とは革新のことです。つまり伝統=革新なのです。だからこそ、私の取り組んでいる仕組みは、これからの伝統を創造しようとする人たちの仕組みの参考になるのでしょう。

子どもたちや子孫を第一優先して取り組むからこそ、私は色々と批判や非難をされても、ご迷惑を多少おかけして人間関係でも少し距離を置かせていただいていてもこれは自分の使命だと思い取り組んでいます。

先人たちが譲り遺してくださった未来を、そのままにさらに新たにしてもっと先の未来のために創造を挑戦していきたいと思います。

徳の宝

明日の守静坊の夏至祭の準備で宿坊を調えています。もともとこの宿坊の伝承では、夏至に太陽の光を鏡に受けるという行事があったといわれています。今は、もう文献も残っていませんがそれを甦生させてみようと試みています。

本来、神事というものは形式が問題ではなくその本質が何だったかを学び直すことのように思います。繰り返し伝承されるものは、形式が問題ではなくその伝承したものの本体をどう承ることができたかということによります。伝える方がいなくなったのなら、伝える側が使ってきた道具たちやものたちに物語を謙虚に教えてもらいそれをなぞりかたどるなかでその真心を直感していくものです。

私が甦生をするときは、まずよく「聴く」ことからはじめます。この聴くは単なる思い込みを外すだけではなく、そのものがどうしたいのか、何のためにあるのか、もともとはどうだったのかと深く丁寧に時間をかけて取り組んでいきます。そうしていると、早ければ数日、遅くても数年から十数年で次第にその本質にたどり着くまでの情報やご縁があちこちから集まってきます。

そのためには、そのものへの敬意や畏敬の心が必要です。何かを学ぶというのは、それだけそのものから学ばせてもらうための心の姿勢が大切になります。わかるとかわからないとかという心情ではなく、真心に対して真摯に応えるという真剣さが必要になります。それは深く礼を盡して、純粋で素直、そして謙虚であるかという心の基本が立っているかどうかによります。

自然から学ぶ、自然から聴くというのもまた同様です。

今回の夏至祭もまた、どのようなものであったのか。それを今、辿っていますが太陽の徳を感じています。太陽は、広大無辺に私たちいのちがあるものを遍くすべてに徳を与え続けます。その姿は見返りのないあるがままのものです。

そして夏至は、その太陽の光がもっとも長く、高く、広く、私たちの今いる場所を照らしてくれています。植物たちや木々を英彦山の山中でよく観察していたらこの太陽に徳に報いようと一生懸命に成長しているのを感じます。成長するというのは、この果てしなく広大な太陽の恩徳をいただいているからだと気づきます。

一年に一度、私たちは徳の存在に気づくことがこのお祭りの本質であり、そしてその徳を一年、そして一生忘れないで暮らしていこうとする意識こそ太陽を拝む生き方なのかもしれません。カラスもまた、太陽の使いや太陽に住む鳥ともいわれます。英彦山には烏尾観音や烏天狗の伝承もあります。太陽と深く結ばれ、太陽に祈る文化があったように私は思います。

当たり前に気付ける感性、もともとある存在をいつも感じる感性は、徳を磨く中にこそあります。今の時代は変人だと思われるかもしれませんが、太古のむかしからつながっている物語を今の時代も変わらずに実践し、子孫たちへ徳の宝を結んでいきたいと思います。

保存食の知恵

燻製の歴史を考えてみると、どこからどう誕生したのかを想像してみます。歴史をたどれば、今から13000年前くらいの石器時代にその原型があるともいわれます。それから古代ローマに入り、ゲルマン人が塩を使い保存し、その後はスパイスが混じり今のような燻製の形になっているともいわれます。

随分長くこの燻製という調理法は大切に伝承されてきました。煙を嫌う生き物たち、煙が如何に防虫防カビ、除菌などにすぐれているかに気づいた先人たちの知恵の御蔭で今私たちはこの調理法をもっています。

他には発酵や乾燥、冷凍、焼く、水で洗う、干すなどもすべて常温保存のための知恵です。特に水が多い日本では、水を上手に活かして保存していきました。どんぐりなどのアクの強いものも水にさらすことで食べれるようにし冬の間の保存食にしました。干し野菜や焼き米なども同様です。

つまりは、今のように冷蔵庫や保存料、防腐剤などがなかった時代、如何に栄養がありいのちが充実し飢餓や飢饉から身を守ろうかと生み出した知恵でもあります。特に燻製は、動物性の肉を保存するには最適でした。普通にしていたら腐ります。それが燻製になると腐りにくくなります。そこには熟成という知恵が働きます。

この熟成は肉の中に酵素という物質があり、それが肉のタンパク質を分解し旨み成分であるアミノ酸に変わる工程のことをいいます。酵素がタンパク質を分解するには日数が必要です、その間、腐敗に傾かないように塩漬けにしておきます。この塩漬けは、水分を脱水し味をよくするためです。水分が残ると腐敗がつよくなりますから、そこに塩を入れて腐敗の微生物たちをおとなしくさせておくうちに熟成するのです。

なぜ人は熟成するものを美味しいと感じるかというと、化学的にはタンパク質がアミノ酸やペプチドに変化し増量するからだといわれます。人間の舌はこのアミノ酸を旨味として捉えておいしいと感じるからだといわれます。また人間の体はのたんぱく質は、そのままでは吸収されずペプチド・アミノ酸に分解され吸収されますが熟成肉はすでにアミノ酸になっているのでそのまま栄養が吸収されるそうです。

肉は腐る前が一番うまいという言葉もあります。この熟成の技術は、食べるものをよく観察することで得られるように思います。むかしの人たちは、どこまで食べれるか、いつまで食べれるか、そしてどうすれば長持ちするかとその3つを真摯に研究してきたように思います。

今のような飽食の時代、ありあまり食料を捨てている時代にはわからなくなっているでしょうが本来は食べるという営みの源流はこの保存食の知恵にこそあります。

子どもたちに保存食の意味を伝承していきたいと思います。

種のメッセージ

私は伝統の在来種の高菜を育てて守っていますが、種は同じにみえても実際には大きく異なることがわかります。また収穫する時機になると、その違いがはっきりと出てきます。一般的に、野菜のことになると改良された種のことなどはそんなに抵抗なく取り組まれている農家がほとんどです。しかし、もしも人間でとなると遺伝子組み換えやキメラの問題などは道徳倫理に関係すると抵抗します。

実際には、農業ではすでにそのようなことが当たり前に行われておりクローンのようにコピーできたり、かなり改良が進んで本来の野菜の原型とはかけ離れたものも食べられていたりします。また農薬をはじめ化学肥料、そして遺伝子組み換えによって防虫や成型の改良も進んでいます。

例えば、種であれば伝統の在来種と改変されたF1種を比べてみると下記のような違いがあるといいます。

在来種は、作物の大きさや形が均一ではなく、その生育の時期がそろわないので収穫時期にばらつきが見られます。また味が濃厚で個性的な豊かな風味があります。そしてその種は自家採種によって命をつなげていくというものです。

そしてF1種は、先ほどとは全部逆で大きさが同じで均一した形をし生育が早くなります。また色がきれい。柔らかく、味が甘いなど、薄味で調理人向きの味です。また花粉を作れない株の一種で不妊植物と呼ばれてもいます。一代限りで、種はとれません。以前、このF1種の種を翌年に植えたことがありましたがまるで違う作物のような実がなりました。

これは今、農業では当たり前に行われている常識になっています。そんなに家庭菜園をする方も、在来種かF1種かなどは気にもしていません。

しかしこれを人間の子どもで置き換えたらどうでしょうか?

今の教育や、日本の子どもの育て方はどこかF1種的になっているような気がします。どちらの作物の方が仕合せにその一生を過ごすことができ、どちらの種の方がいのちが充実しているでしょうか。簡単に想像したらすぐにわかります。

私たちの体は食べ物でできています。どのようなものを食べるかは、細胞のレベルでも影響されます。野菜の一生を私たちは取り入れますから、どのように暮らしている野菜かでその栄養だけではなく意識にも影響を受けるように思います。それは量子力学など科学的にも証明されてきています。

子どもたちの未来や仕合せを思うほどに、在来種を守りたいという気持ちが強くなります。保育に関わるほどにその思いも強くなります。子どもを守るためには、環境も一緒に守る必要があります。

引き続き、自分が気づいたことからそしてできることから改善を進めていきたいと思います。

天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。

天命という考え方

最近、若い人たちの間でコスパやタイパという言葉が流行っていることを聞きました。これはコストパフォーマンスとタイムパフォーマンスの略だそうです。コスパの方は、損得勘定で如何に得をしたかという考え方、タイパの方は、如何に時間が稼げたかという考え方。これは消費するものを前提に考えたときによく使われる言葉ではないかと私は思います。

そもそもコストパフォーマンスはビジネス用語として使われたそうです。費用対効果がいいということで、価値があるという意味になります。その価値は、費用とはある事をするのに必要な 金銭 。 また、ある事のために金銭を使うことをいいます。お金を使うのだったら如何に価値がある方に使うかという意味になります。

なんでもお金で換算するということができればいいのですが、世の中にはお金に換算できない価値というものもあります。時として費用にできない無駄と呼ばれているものでもそこには真の価値があるものもありますからすぐにコスパで考えるというのは大事なものを見失ってしまうこともあるかもしれません。同様に、タイパというのは時間のことですが時間もまた同様に価値はその人のものです。時間が無駄になったかどうかは、その人の生き方や何を学んでいるかにもよるので結果だけをみてスケジュールのみを考えて価値があったかどうかというのを考えるというのも本来の時間という誰にしろ平等に与えられている唯一無二のものを大切だと思うことを忘れてしまうかもしれません。

一般論として、世の中全体がコスパやタイパというものを基準に判断し行動する社会になってきたともいえます。効率や効果ばかりを優先した合理的な社会を推し進めてきたことによるのかもしれません。機械やロボットなどはまさにこのコスパとタイパを極めたところにいるような存在でもあります。

現代、人間というものの価値や人間であることの意味などを考える機会も増えています。本来は、真の豊かさとは何なのか。真の仕合せとはどのようなものか、そういうものを見つめ直す時代に入っているともいえます。子どもたちは将来にどのような希望をもつのでしょうか。周りの大人はどのような生き方をしているでしょうか。

生き方や考え方はそれぞれですが、むかしから変わらない大切な人生の仕合せや喜びなどは子孫へと伝承していきたいものです。引き続き、世の中の風を感じつつも自分の天命を全うしていきたいと思います。