純善たる伝承

レッジョエミリア教育というものがあります。これは、イタリアのローリス・マラグッツィという人物の思想や実践が一つの形として表現されたものです。

もともとこのレッジョエミリアは、第2次世界大戦後1946年の北イタリアの町の名前です。その街の郊外のヴィラ・チェラという村でガレキの中から復興を志し、幼児教育に力を入れようと熱心な親や町の人々が教育者、専門家と一体になって立ち上げたことがはじまりでした。このチェラでは、戦後に住民たちが戦争で残った石やレンガを使って、幼稚園を建てるためにドイツ兵が残した戦車やトラック、馬などを売って運営資金にしていたといいます。その後の数年間でレッジョ・エミリアでは女性たちを中心にして60にも及ぶ幼稚園が開園・運営されました。

戦争で子どもたちを保育する場所を自分たちの手で母親たちが主体的に復興するのです。そしてようやく1963年にイタリアで最初の公立の幼児学校がこのレッジョ・エミリアで誕生しました。そこから公立の幼児学校はイタリア全土に広まっていきました。

そもそもイタリアは元々昔から地方分権が強い場所でレッジョ・エミリアはファシスト政権に対する「レジスタンス運動」の本拠地で市民たちの自治意識が高い土地だったといいます。

その当時、教師やジャーナリストとして活動していたレッジョエミリア教育の中心となるローリス・マラグッツィは地域の教育活動に尽力していきます。

このローリス・マラグッツィは「100の言葉」という詩を書きその理念や哲学の中心になるものを残しました。そこにはこうあります。

「子どもには 百とおりある。
子どもには 百のことば 百の手 百の考え 百の考え方 遊び方や話し方
百いつでも百の聞き方 驚き方 愛し方 歌ったり理解するのに 百の喜び
発見するのに 百の世界 発明するのに 百の世界 夢見るのに 百の世界がある
子どもには 百のことばがある…それからもっともっともっと…

けれど九十九は奪われる
学校や文化が 頭とからだを ばらばらにする

そして子どもに言う 手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい 話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい 愛したり驚いたりは 復活祭とクリスマスだけ

そして子どもに言う 目の前にある世界を発見しなさい
そして百のうち 九十九を奪ってしまう

そして子どもに言う 遊びと仕事 現実と空想 科学と想像 空と大地 道理と夢は 一緒にはならないものだと つまり百なんかないと言う

子どもはいう でも 百はある 」

自分なりの意訳ですが、それぞれの子どもにはそれぞれの子どもの人生がありその人生には正解などなく、それぞれに自分らしい人生があるということのように思います。この時代、いや今の時代も、子どもが真に尊重されているかといえば教育はその真逆で今でも軍隊のように権利を奪われ、画一的に個性をつぶし、あるいは大人の都合で子どもが主体的に自分のままであることを認めないものばかりです。

「子どもは無限の可能性をもち、あらゆる権利を持っている。そして、それは誰にも奪われず、主体として大切にすることが教育のあるべき姿だ。」とローリス・マラグッツィは静かに諭します。

その後、1991年に「ニューズウィーク」誌は、レッジョ・エミリアのすべての市立幼児教育センターと保育園の代表として紹介し園長を務めたディアナ保育園を世界のベスト10校の一つに挙げました。今では、グーグルやディズニーでも採用され世界中に実践が広がっています。

そう考えてみると、日本ではどうでしょうか。

どのような保育こそが、真にその子どもの主体性を保障し、無限の可能性を奪っていないのか。私は自然農法なども行い、暮らしフルネスを実践しますが日本人はいのちとの繋がり、つまりは物も人もすべていのちの顕現したものという意識を持ちます。

本来は、子どもがもっとも世界で仕合せに暮らす国だったように思います。そういう文化の国が西洋からの古臭い教育で色々な歪が出てきました。今一度、本来の日本にある伝統の教育を今に甦生する時機に入っているように思います。

私が実践する暮らしは本来の日本の保育そのものです。それを大人がまず実践することで、子どもたちにその保育を伝承することができます。大人か子どもかではなく、共に生きる、つまり一緒に暮らすことで実現するのです。これは働き方と生き方の一致でもあるし、過去と未来と今の一致でもあります。

いのちの共生、ものも人もすべて繋がっている場をつくりだす。これが日本式の子どもを育てる伝承法である。それを純善たる伝承とも呼ぶのでしょう。

時機が到来していることに仕合せを感じつつ、かんながらの道を真摯に力強く動き出していきたいと思います。

 

自分のままでいられる場所

自分のあるがままを受け容れるということは大切なことです。それができないと苦しでいる人が多いといいます。では、なぜその自分のあるがままを受け容れることができないのか。言い換えれば、自分のままではいけないという他者や周囲からの影響を受けるからです。

例えば、全部がまっすぐに同じ大きさと長さ、形で同じスピードでと求められる植物があったとします。他はみんなそう育っているのに、自分だけ他と異なる状態になればこのままではいけないと焦るものです。しかしどうやって演じてもそうならない場合は、自分を責めてなぜこんなことになど悲嘆にくれます。あるいは、開き直って諦めてしまうこともあるでしょう。しかし、周囲と比べて奇怪な目で見られたり差別や排除されると苦しくなるのです。

本能的に私たちは社会をつくりますし、周囲と調和したいと思うものです。生き残るためには、周囲のお役に立ちたい、自分の存在が認められたいと思うものです。だからこそ、頑張って自分もそうなろうと思うのです。

しかしその自分が周囲から求められる姿が、あまりにも自分とは異なる歪なものであれば本人はとても苦しみます。鳥にカエルになれと言われても無理ですし、蛇にライオンになれというのも無理です。しかし、人間の可能性は無限で特に小さな子どもならほとんどどんなものにもなれるような気もするものです。

人間は、誰がどのように育てるかで変わります。動物に育てられれば、動物のようにもなります。そうやって、どのようなものにするのかというのが教育というものです。

自分らしくいられなくなるはじまりは、みんな同じように金太郎飴のようになる社会設計に組み込まれるときにはじまっています。

お互いを尊重しあう社会というのは、持ち味を発揮する社会です。持ち味が発揮されるというのは、その人がその人らしくいることができてそれをみんなもわかっているという社会です。みんなもそれをわかっているから、それをそのままに活かそうとします。自分がこれを役にたちたいと思っても、もっとお役に立てるものがあるとみんなが気づいてその人を尊重できるのです。

その人らしくいられる環境というのは、みんなが持ち味を活かせる場があるということです。こうならねばならないという、無理や頑張りは心を痛めていきます。

居心地のよい場所は、自分のままでいられる場所ということです。

子どもたちにも無理をしないでいいように、場の大切さを感じてもらいそれぞれの個性や持ち味、自分らしさをみんなで活かしあう豊かで平和な社会になるようにその実践事例やモデルケースを場でととのえていきたいと思います。

子どもから学ぶ

子どものことを思うと、主体性というものが如何に大切なことであるかがわかります。私の恩師も、先日のセミナーの中で見守る保育には、選択すること、参画すること、自由に遊ぶことの意義を伝えておられました。

そもそも、自分で自分の生き方を決めるというのは私たちがこの世に生まれてきて体験していく醍醐味でありそれを見守る社会というのはこの世の楽園にするための大切な要素だと私は思います。

一度きりの人生を、自分らしく生ききることができるときいのちは光り輝いていきます。それぞれの人には、それぞれの天命や役割がありそれを全うしていきます。そう生きられない、それはしてはいけないと、刷り込まれていくことは人間社会においての不自然さを感じます。子どもは、自然に未来を創造していきます。本来は、余計なことをしなければ自然に調和をし、世界をととのえていくものです。

そこに大人のあらゆる編重した教育や、歪んだ自由を与えられることで、思考停止して元氣が失われていくものです。

現代病の大きな一つは、その元氣さというものによります。こういう言い方をすると誤解されるかもしれませんが、目が輝き、元氣溌剌として魂を全快に愉快痛快に楽しんでいるのが子どもの姿でもありました。生まれてきて好奇心旺盛で、思考は自由自在にのびのびと働きます。

海外の保育を視察した時には、カンボジアをはじめ何か所かの国ではそういうところもありました。日本のむかしも、子どもたちは安心して育つ環境があったように思います。

本来、私たちは自然から自然を学ぶように子どもから本来の子どもを学ぶ必要を感じます。誰かが言ったからや、海外で評価されているからや、科学的だからというものもあるでしょう。しかし、子どもの本来のあるがままの姿をよく観察して学べば、子どもがどうありたいのか、子どもが何を求めているのかを見守ることで本来のいのちの姿を実感することができるように思います。

自然であれば、土や種、そしてどのような環境だと元氣になるのかを学び直します。同様に子どもも学び直せるものです。

時代が変わっても、普遍的な道は変わることはありません。子どもの姿は変わらないものがあるのです。そういうものをよくみんなで学び、保育をさらに磨いていく。私たちは保育の道を提案する会社でもありますから、引き続き真摯に学び続けていきたいと思います。

聴福人の実践

先日、あることで松下幸之助さんの生前の講演動画を拝見する機会がありました。そこでは、私心を消すことについて謙虚にお話をされておられ色々と省みる機会になりました。

そもそも私心というのは、小我やエゴなど自分がという己の存在を過少過大評価をしている状態のことです。何物もでもない、存在している自分をよほどの存在として独善的になっていくと私心に囚われた状態になります。

本当の自信を持つというのは、難しいことでそれだけ日々に自分というものと向き合い、自分の中の私心がどうなっているのかを見つめ続ける必要があるように思います。

松下幸之助さんも、自分の私心が毎日出てくるからそれを危険だと思って気を付けていると。賢い人こそ、危険であるから要注意であると。賢いからこそ会社をつぶすことがあると、使い方次第であると仰っていました。

確かに、今の能力も才能もそして自分というものもそれをどう使うかというのは心が決めるものです。それを世のため人のため、そして社会のため世界のためにと自分を天から預かりものとして使うときは私心はなくなっていきます。しかし、それを自分のものだからと勘違いして特別な存在だと勘違いしてしまうと私心にまみれて判断がすべて己の方に引き寄せようと欲望に吞まれます。

この世のすべてはみんな天が与えた存在であると自覚すれば、天命というものの声も聴けるように思います。しかし、天命がわからなくなるのは自分勝手、得手勝手に勘違いし視野が狭くなるからのようにも思います。

視野の広さとは、自分はとても小さな存在と思えるとき視野は広がります。永遠から結ばれている先祖からの自分を感じたり、この世のすべてのいのちは繋がっていると感じたり、宇宙や星々、光や道を感じるときもそう感じます。しかし便利さや自分の権利が当然のような環境の世の中では、そういう感覚は麻痺してみんな私心まみれ我欲まみれになりたいように思います。

夏目漱石が晩年の境地に「則天去私」(天に則り私を去る=てんにのっとりわたくしをさる)ということを語っておられます。天命に生きることの要諦で、亡くなるまでずっとその道に挑戦されたことを想像できます。

また松下幸之助さんを尊敬されておられた稲盛和夫さんもこう仰っています。

「私心を捨てて、世のため人のためによかれと思って行う行為は、誰も妨げることができず、逆に天が助けてくれる。」

動機善なりか、私心なかりしかと、自問自答を日々に繰り返されたいたそうです。毎日、私心はないかと自分に尋ねるというのは本当に大切なことだと反省するばかりです。

最後に、私が大好きな良寛さんの遺した言葉だそうです。

「おらがおらがの「が」を捨て、おかげおかげの「げ」で生きよ」

感謝や御蔭様というのは、私心を毎日お手入れすることに似ています。自己の徳を磨いていくのは、それが天命であることを忘れないようにしていくためかもしれません。

よくよく反省して、自ら勘違いしないように周囲の声に耳を澄ませ、聴福人の実践を真摯に取り組んでいきたいと思います。

未来の可能性

未来の可能性というものは、今の自分の能力で推し量ることはできません。それは未来が予測できないことと似ています。今の自分が、今こうなっていることを40年前やもっと前に予測できたかといえばほとんど予測できていません。そこには数多くの奇跡やお導きがあり、今に結んでいます。

ビジョンというものは、方向性を決めるものですがこうなると未来が予測できるものではないように思います。しかし、そうなると未来を信じるのだからその信じるものを実現するために自分の能力を磨いていくのです。

そうやって人は成長し、進化していくものであろうと思います。

しかし、あまりにも高い理想や現実の世界の価値観とかけ離れたようなことに取り組もうとなると未来の可能性がどんどん小さく感じるものです。本当に実現するのか、実際には不可能ではないかと不安にもなるものです。

実際には、小さく感じても小さなことからコツコツと挑戦をし積み重ねて可能性を広げていきます。特に自然を相手にしてみるとわかりますが、思いどおりなどにはいかず、自分を謙虚に素直に改善していくしかありません。

そうやってコツコツと取り組んでいると暮らしが次第に変わってきます。日々の日常の中で、変化が出てきます。その変化こそ、未来の可能性ともいえるものです。

実践するというのは、日常の暮らしから変わっていくものです。

時間がかかっても、未来の可能性を信じて知恵を活かす新たな能力を磨いていきたいと思います。

智慧と感謝

今までの人生を振り返っていると、有難い智慧というのは自他一体の時に巡り会ってきたように思います。自分が大変だから智慧が湧いたのではなく、誰かのために、あるいは小さな自我を超越して、みんなのためにやお山、あるいは地域、先祖、歴史など、偉大な自我と向き合ったときに出会いました。

本来、人は奪うために存在するのではなく与えるために存在しているものです。これは人に限らず、すべてのいのちというものは与えあい助け合うなかで共に生きていくものです。

つまりは共生というのは、自然の掟であり野生のものは本能でそれを獲得しています。だからこそすべてのいのちには智慧が具わり、この宇宙のなかで共に生命を謳歌していくことができるのです。

その逆に共生をやめてしまうとどうなるか、対義語は自存といいますがニュアンスは自分だけのことしか考えないということでしょう。先日、地域の長老にお話しや智慧をお伺いすることがありお時間をいただきました。その方は95歳ですが、この世紀、どこに今につながる分水嶺になったかをお伺いしたら戦後、平和になりみんなが自分のことしか考えなくなったと仰っていました。

よく、今だけ、金だけ、自分だけという言葉があるともいわれる時代です。今さえよければいいと問題を先送りし、なんでもお金で解決すればいいとばらまいて、あとは自分のことさえ守られればいいと他人事のように考えていく。これは先ほどの、自然の共生や人間の本能としての社会というものを破壊していくもののように思います。

不自然もここまで極まれば手のうちどころがないほどです。しかし、禍転じて福になるようによく反省して自分を見つめていれば、それが問題の根本的な解決になることに気づきますし、何より智慧が存在することにも目覚めます。

私は、先ほどのでいえば今だけではなく長い目でずっと遠いことを優先し、お金だけではない真の豊かさや足るを知る暮らしを実践し、自他一体となって同じように伝統や伝承をしようと純粋に苦労している人たちと相互扶助の仕組みをつくりたいと徳の循環する経済に取り組んでいます。

そもそも自分の生活や暮らしがどうこうではなく、子どもたちが憧れる未来、子どもたちの参考にできるような智慧を少しでも遺していけないかと取り組んでいます。そのため自然の法則や自然の掟を学び直し、環境や場を改善していくことが第一だと地道に実践を積んでいます。

有難いことに、たくさんの仲間やご縁に恵まれ場も増えてきました。時代のスピードに流されることなく、今の自分を保てているのは今は亡くなられた恩師たちやメンターたちのご指導の御蔭さまです。

引き続き、初心を忘れず感謝を磨いていきたいと思います。

場を磨く

自分らしさというものがあります。その人の持ち味ともいえるものです。その人の持ち味とは何か、それはその人にしかない味わいのことです。

例えば、私たちが飲んだり食べたりする素材があります。これはその素材の持つものを味わってみようと試みれば色々な味わいがあることがわかります。その味わい方は、いくつも方法があります。料理の方法やその飾り方、環境、あらゆる要素が味わいを深くしていきます。

その他にも味わい深さは、その素材が誕生してたどり着いたプロセスのようなものもあります。滋味あふれる深い味わいは、その素材の真の持ち味ともいえます。つまり、この真の持ち味こそ自分らしさの源泉というものです。

自分らしさを磨いていくには、天命を知る必要があります。他人軸ではなく、自分軸で生ききり、自分に与えられた唯一の道、つまり天命を生きるときその人にしかない深い味わいがにじみ出てきます。

これはその人にしかできないというもの、まさに天から与えられた唯一無二の人生を歩んでいるときその人らしさの持ち味が発揮されるものです。

そして本来、これは特別な人にしかないものではありません。誰もが持っているものです。これを私は徳とも呼びます。徳を磨いていくことで、その持ち味は発揮されます。そしてその徳が集合し、調和していのちが循環するところを私は「場」とも呼びます。

私は場道家を名乗り、場づくりを専門にしています。

持ち味を活かすための仕組み、自分らしくいられる環境づくり、それを頭でっかちに理解してお金にすることを仕事にするのではなく、まさに暮らしの中でそれを体得するという生き方を伝承しているのです。

暮らしフルネスの場に来る人たちはそれを感じることができます。

これから少しずつ、仲間を増やしていきますが気づいた人は訪れてほしいと思います。先祖に報いて子孫に徳をそのままに伝承していけるように場づくりを深く磨いていきたいと思います。

憧れ

暮らしを追及していると、生き方に出会います。生き方は暮らし方になっているからです。そして生き方を見つめていると死に方と向き合います。死に方は暮らし方の延長にあるからです。そして生き様というものが顕れ、死に様というものでその縁起を覚えます。

私が尊敬する人たちは、みんな生き様が見事な方でした。ここ10年で私が憧れた人たちが次々とお亡くなりになりました。ごく自然に、距離を持ち、そして静かに穏やかに逝かれました。

生きているときに常にこれが最期のような感覚をいただき、お別れするときは今世はもうお会いできないのではないかという寂しさがありました。そうしてまたお会いしたいと思ったときにまたタイミングがきてお会いすると、出会えた喜びに生まれ変わったような気がいつもしました。しかしもうお会いできないという状況になると、まるで深山の巨樹のようにまだそこに存在して見守ってくれているのではないかという気配があるものです。

ある方は、光のように、ある方は風のように、ある方は土のように逝かれました。生き方はそのまま死に方になり、生き様はそのままに死に様になりました。

これらはすべてその人の初心が顕現しているとも言えます。どのような初心を以って道を歩んでいくのか、その初心の余韻が場に薫ります。

私たちはその人になることはありません。しかしその人の歩んできた道を共にした経験によって歩き方も変わっていきます。振り返ってみたら、自分もまた歩き方がだいぶ変わってきました。歳をとり、若い時のように歩いていくことはできません。歳相応に歩いていきますが、気が付くと無理ばかりをしているようにも思います。

初心を忘れてはいけないと、歩き方を歩き様を振り返っては反省の日々です。

憧れた大人になるように、そして子どもたちの憧れるような大人になれるようにどう生きるか、どう死ぬか、そしてどう逝くかを見つめています。

盂蘭盆会の準備に入り、夏の風が吹いてくると日が強くなり死が身近に感じられます。日々の小さなことに感謝して前を向いて歩んでいきたいと思います。

徳の宝

明日の守静坊の夏至祭の準備で宿坊を調えています。もともとこの宿坊の伝承では、夏至に太陽の光を鏡に受けるという行事があったといわれています。今は、もう文献も残っていませんがそれを甦生させてみようと試みています。

本来、神事というものは形式が問題ではなくその本質が何だったかを学び直すことのように思います。繰り返し伝承されるものは、形式が問題ではなくその伝承したものの本体をどう承ることができたかということによります。伝える方がいなくなったのなら、伝える側が使ってきた道具たちやものたちに物語を謙虚に教えてもらいそれをなぞりかたどるなかでその真心を直感していくものです。

私が甦生をするときは、まずよく「聴く」ことからはじめます。この聴くは単なる思い込みを外すだけではなく、そのものがどうしたいのか、何のためにあるのか、もともとはどうだったのかと深く丁寧に時間をかけて取り組んでいきます。そうしていると、早ければ数日、遅くても数年から十数年で次第にその本質にたどり着くまでの情報やご縁があちこちから集まってきます。

そのためには、そのものへの敬意や畏敬の心が必要です。何かを学ぶというのは、それだけそのものから学ばせてもらうための心の姿勢が大切になります。わかるとかわからないとかという心情ではなく、真心に対して真摯に応えるという真剣さが必要になります。それは深く礼を盡して、純粋で素直、そして謙虚であるかという心の基本が立っているかどうかによります。

自然から学ぶ、自然から聴くというのもまた同様です。

今回の夏至祭もまた、どのようなものであったのか。それを今、辿っていますが太陽の徳を感じています。太陽は、広大無辺に私たちいのちがあるものを遍くすべてに徳を与え続けます。その姿は見返りのないあるがままのものです。

そして夏至は、その太陽の光がもっとも長く、高く、広く、私たちの今いる場所を照らしてくれています。植物たちや木々を英彦山の山中でよく観察していたらこの太陽に徳に報いようと一生懸命に成長しているのを感じます。成長するというのは、この果てしなく広大な太陽の恩徳をいただいているからだと気づきます。

一年に一度、私たちは徳の存在に気づくことがこのお祭りの本質であり、そしてその徳を一年、そして一生忘れないで暮らしていこうとする意識こそ太陽を拝む生き方なのかもしれません。カラスもまた、太陽の使いや太陽に住む鳥ともいわれます。英彦山には烏尾観音や烏天狗の伝承もあります。太陽と深く結ばれ、太陽に祈る文化があったように私は思います。

当たり前に気付ける感性、もともとある存在をいつも感じる感性は、徳を磨く中にこそあります。今の時代は変人だと思われるかもしれませんが、太古のむかしからつながっている物語を今の時代も変わらずに実践し、子孫たちへ徳の宝を結んでいきたいと思います。

天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。