浩然ノ気

私が好きな言葉に「至誠」がある。
故吉田松陰先生の遺した生き様の中でも特に大切にしている言葉だ。

今の言葉にすると、まごころや情け、哀しみという意味になるのだろうか。
時代が変わるだけで言葉にある重みや深みが変わってしまう。
それは人々の生き様やイキカタ、思想、文化、、それらに大きな影響を受けてしまうからだ。
言霊とはよく言ったものだと思う。
言葉は常に使う人によって、聞く人によって命が吹き込まれ、生き、活き、逝き、、そういったことから霊性を与えられるのだろう。

日ごろ使う言葉のなかでも「尽くすや至る」というものには、普遍的に一道を歩んだ先人達の揺ぎ無い覚悟を私は感じる。

何かに尽くし、一道を極め至る。というものには永遠の邂逅が在るように感じる。
たとえば、仏陀やキリスト、空海や孔子、遺した言霊は永遠に朽ちてこない。
師匠のブログにもよく論語が紹介されるが、そのどの項目を読んでも心にズンとくる。

孟子にある。

「至大至剛、直を以て養ひて害するところなければ、則ち天地の間に塞がる。」=(これ以上ないくらい大きく、これ以上ないくらい強い、そして正しく美しいもの、それを立派に育てれば、宇宙天地の間に無限に満ち満ち溢れんばかり広がる。)

これを「浩然の気」という。

「浩然」という言葉をインターネットの辞書で調べると

1 天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気。
2 物事にとらわれない、おおらかな心持ち。「—を養う」
《「孟子」公孫丑上から》[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]

となっている。

過去や今を振り返っても、志の定義にも色々とあるような気がした。
勘違いしやすいのだが、志とは深い情けや愛情がなければ立つはずがない。

もちろんニンゲンはそれぞれが自分の命を見つめ正対して生ききるのだと思う。
その中でも世界への一隅を照らすもの、その中でも未来へ向けて自然や空になろうとするもの、数多く「生きる」「生きている」という普遍的な真実が在る中で時間と価値観のハザマにて命を超越していこうとする。

そして、それを求め道を目指せば「志」というものが練り上がっていくのだろう。
そして練り上がって養っていく中でそれは、世界に対しての深い真心や情け、愛情や勇気といったような深く地に根付いた浩然の気になっていなければいけないのだと師匠は仰っているのだと思う。

日々継続して学び続けること、一瞬でも気を抜かず自分の命をなすべきことをやり通す勇気、忍耐、いい加減にしない実直さと覚悟、本当に師匠の凄さを肌身で実感してしまう。

志を持ち続けてその気を養う、「浩然ノ気」

まだまだ観ないといけないもの、まだまだ知らないといけないもの、まだまだやらないといけないもの、たくさんある。

天地大地の広大な全てを包めるように子どもたちの未来が浩然としてできるようにしていきたい。