本当の貧しさとは

先日、ある仕事をしている中で様々なことを考える機会になった。

今の社会は物質的に豊かになり、食べ物がないという飢えという貧しさはこの国からほとんどなくなった。お金持ちも増え、みんな裕福になった。ニュースもトレンドも全部そういうものばかりで身の周りは包まれている。

しかし、それと同じくらい孤独な人たちが増えた。食べ物の飢えがなくなって、精神的な飢えを持つ人は大量に増えた。大人たちも自分たちの個性や価値を見出せず心を病み、疲れ、他人を羨み、また孤独になっていく。

貧しさというのは、決して一つではない。

世界には、食べ物という飢えに苦しむ人もいる。
そして、孤独という飢えに苦しむ人もいる。

時代は昔も今も特定の人間たちが自分だけの物質的裕福を求め続けて満たし続けたことが世界での食糧難を生み出してきた。

そして精神的裕福を求め続けて満たし続けたことが隣人への愛を与え続けて世界での平和という豊かさを生み出してきた。

人間は学んでいるようで学んでいないし、学んだことをすぐに忘れてしまうのだなとつくづく思う。

如何に教育が重要なのかということを本当に最近は思う。

心が満たされなければ、どんなに物質的に豊かになったってそれは貧しいことと何も変わっていないのではないかと思えるからだ。

今、洞爺湖サミットが北海道で開催されているがニュースを見ていると色々と経済主導の駆け引きが見られる、これも日本では本当の意味で価値を見出すことができるのかと私は静観している。

物質的豊かさを手に入れている私たちが持つ本当の使命は精神的豊かさを世界へ還元することだと思うし、今はそれこそ先進国の使命ではないかと真摯に思う。

いつまでも奪い合いのモデルを示せば示すほど、人々はこれからもずっと孤独になっていくのではないかと思えるからだ。

大人の欲望は尽きることがない。
私が伺う保育園の子どもたちは、純粋に素直に与えあうことの素晴らしさ、豊かさを自然に内包している。

それすらも保護者と大人、先生の刷り込みで大人社会の孤独を与えるのはどうかと思う。

個々のユニークさというのは、本当は精神的豊かさを持った大人の見守りの中でしかはぐくめるはずはないはずなのだ。

仕事をしていると、様々な批判、非難にもあう。
それぞれで正義があるからそれも仕方ないし、何せ私は商売道を歩みながら祈りを実践で捧げるのだからそんなものは当然だと思っている。

しかし、負けそうになるとき、挫けそうになるとき、支えてくれる偉大な人たちの言葉が心に突き刺さる。」

マザーテレサの詩のような言葉がある。

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人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善をおこないなさい。

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく、し続けなさい。

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。
気にすることなく、創り続けなさい。

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。
蹴り返されるかもしれません。
でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。

「本当のクリスマス マザーテレサの収録の言葉より(ドン・ボスコ社)」

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どんなことがあっても大事なことは自分の持つ「最良の善を与え続けること」だと改めて思う。

誰が何と言おうが、自分が信じる自分の祈りこそ、もっとも子どもたちに届けられるプレゼントだと信じている。

今、様々な職場環境、教育環境で孤独は生まれている。

もうこれ以上、貧しい人をそのままにしておきたくない。
その思いが、見守る保育に自分の志を駆り立てる本当の理由になっている。

これからも日々の実践を怠らず、自分を傷つけるほどの本気の愛を多くの人たちに最期まで与え続けていくような仕事と生き方を貫いていきたい。