本当のチームワーク

何かの物事に取り組むとき、人は周囲と力をあわせて何かを為す。

一人だけで全部やれるというのは単なる錯覚で、本当は様々な偉大なものの力を借りてはじめて自らの力を発揮することができる。

そしてそれを仕事や学校でも「チームワーク」という。
主にチームワークの定義とは、他人の意見に耳を傾け、建設的に反応し、ときには他人の主張の疑わしき点も善意に解釈し、信じ、彼らの関心ごとや成功を認めあうといった価値観が集約されたものをいう。

しかし巷ではチームワークというとみんなで同じことに取り組むとよく誤解されていることがある。

よくよく考えてみると、当り前のことだがみんなが全員で同じことをやっていたらチームである必要はない。

その人その人の個性や、その人その人の能力が異なり、その異なる力をあわせてみんなで実現したいものに取り組んでいく必要があるからチームを組むのだ。

同じではなく、一体になっているというイメージだろうか。
それは「阿吽」とも言うのかもしれない。

以前、中学生の時、梵字(サンスクリット)にご縁があり学んだことがあった。アとウンとは、真言の最初の韻と最後の韻を結ぶものになっていた。

調べると、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされていると書いてある。

つまりは、一対だということ、同体ということを表すのだと思う。

良いチームワークは、阿吽なのだろうと私は思う。

たとえば、「あなたがそれをするなら、私はこれをやる。私がこれをやるからあなたはこれをやる。」というような相互一対になっていることだと思う。

つまりお互いがお互いのやることをきちんと観えている状態。
それが本当に良いチームワークだと思う。

しかし、世の中はマニュアルが横行し、マニュアル人間ばかりが育つような管理主義やそんなコンサルタントがまた便利な方ばかりに導いているのを現場でみかける。

人間は、お互いを思いやり、そして認めあうとき、信じることができるようになる。信じることができれば、自ずと相互扶助の関係を構築していくものだ。

変なルールを無理やり押し付け、強引に管理して進めるというのはなんだか単なるもの分かりの良い関係をつくるための安易な方法だなとつくづく思う。

そういうことばかりで人を管理して使うから大事な時に動けない人を創ってしまうのだと思う。

では、良くないチームワークとはどのようなものだろうか。

それはやはり、同じことをみんなに求めてもともと違うのにそしてその仕事が合わないのに一斉に何かをやらせようとすることや個を潰すことで何となく団結したようにみせかけて上から強引に良かったことにさせようと価値観を押し付けている関係だと思う。

違いを認めず、お互いを信じず、目に見える安易なルールだけを信じ、それぞれの良さを活かすのではなく悪いところばかりを補い、対話を避けて誰かに依存しようとしてしまうことだと思う。

本当のチームワークは、お互いの個を存分に出し合い、お互いのやりたいことを深く認め、信じ合っていて一体化している豊かな「阿吽」の状態なのだと思う。

つい刷り込みや何かのテクニック本などで本質がわかりづらくなっているけれど、子どもたちにも自然にチームワークで学び合えるような環境を用意していくために、大人の理解、またその個を信じ合える環境を用意してあげ見守ることを大事にしていきたいと思う。

カグヤでも、チームでの仕事がこれからはほとんどすべてになっていく。

私自身がまず、深くチームビルディングを学び、自らが実践して見守るようにゆっくりと深く味わっていきたいと思う。

これからも関わるパートナー園とのチームワークもこの中に容れてさらに子ども第一主義を貫いていきたいと誓う。