負の連鎖

先日、ある組織の話し合いなどに参加する機会があった。

そこでは、いろいろな方々があまり話が紛糾しないように主義主張を出し話し合いをしていた。問題はたくさん起きる、それは当然今まで正しいと思われていたことが、時代が変わっていく中で合わなくなってくることがたくさん出るからだ。

ただ、いつもその機会を見て感じるのは、結局は言うだけで最後には大事なところはいつも変えないということ。理由はいくつかあるけれど、大事だと勘違いしているだけで本当にそれは大事なことかなと思ってしまう。

その方々の言う大事なところとは、私が観ていると先人の残した成功のカタチのことを言っている気がする。その人たちは、新しく壊したというように思われることを、先人の苦労を否定してしまい裏切ったことだと定義し勘違いし、頑なに保守に固執するばかりである場合が多い。

もしくは、過去に認めてもらったその人に報いたいとその人の考えをそのまま残そうと周りも見ずに躍起になって反対する人もたくさんいる。

万物流転、時代も変わっているのだから、本当に尊敬する先人の叡智や智慧を残そうとしたらキチンと本質を観て常に時代にあわせて変えていかなければ守れるはずもないのに、カタチダケのものを残せば遺したと勘違いした負の連鎖は広がるばかり。

こうなると、夏に冬服を着てクーラーを入れているようなものだし、冬に夏服を着て暖房の中で引き籠っているようなものだ。自然にあわせていくことをしなければ、如何に無駄が生まれ、そのツケを別の形で解消していかなければいけないという本質からソレタ問題にばかりにエネルギーを割かれることになる。

リーダーが気付かずそうなってしまうひとつは責任があるのだろう、自分がその役を持っているのだから今までの流れは変えてはいけないという目に見えた責任があるのだろう。しかしよく観ると、目に見えるものばかりを変えてはいけないという大多数の考え抜かない無責任な組織の人たちの言いなりになり、なるべく平穏に無難に済ませようとするのはそれで本当に今までの流れを守っているのだろうかといつも疑問に思う。

人は常に変わることで守っていく。

その変わるというのは、本質を守るために、周りの変化にあわせて順応させていくようなもの。その順応には、激しく革新するものもあれば、静かに維新していくものもある。

人はなぜ役割分担があり、代を重ねていく意味があるのか。
それを鑑みるとき、私が静かに思うのは人は成功体験があればあるほどその思い出の美しさに於いて執着が生まれ、それを美化しそこに囚われていくもの。

短い人生において、そういう思い出が人生を素晴らしく味わいあるものにする。

引き際というのはとても難しい。

今を生き切り、全身全霊で生きているときっと臨界点を知るのだと思う。
そしてその臨界が、自分にしかできないことの本質に巡り合えるような気もする。

無心というのは、無の心だけでは生きてはいけないのだろう。
そこに、確かに自分の中にある一つの道での無で有ることの方が優先されるのだろう。

業界を観ていると、生き残りをかけて何があってもカタチが変わらないようにと無理をして守ることばかりに囚われて排他的に新しいものを受容しない負の連鎖は続いているように感じる。壊れるのを待つばかりというのもなんだか受け身なことだと憤慨してしまう。

しかし、私たちの業界は子どものためのもの。

子どものことを本当に思うと果たしてどうだろうか。

子どもたちは、そうやって頑なになった大人から何を学び何に挑戦し新しく創造していけるのだろうか。

子どもを信じるのならば、時代にあわせて変わるのは自分自身だと自分を見つめ、子ども自身が変わっていくことを信じて新しいものを受け容れる思いやりや優しさをもっと大切にしていけばいいと思う。

決して若いものや新しいものは、卑下して遠ざける対象ではなく、そのものにより時代の流れにあわせて自分の本質が練磨できる最高の機会だと思うことがより先人の思いや遺志を継ぎリーダーとしての責任を果たすことに繋がっていると私は思う。

若い人や新しいことをする人は失敗をする。
それは当然失敗をする、子どもと同じで必死で「練習」しているからだ。

もっと新しいものになるために挑戦し練習する若いものたちに優しくいれるようにいつも私は居たい。

私自身は、この若い頃の保守的なものの組織からの軋轢などをよい体験と訓戒に昇華し、子どもの未来により確かな本質を譲れるように自分を本質にあわせていく方に迷わずに不動の心で邁進していきたいと念じる。

負の連鎖を断ち切れるような、新しいモノサシを創っていきたい。