尊厳愛

今年最後のGT主催のセミナーで藤森平司代表が講演をした。
毎年続けているこのセミナーでよりシンプルに明瞭になっていく藤森先生の理念に触れることは本当に有難いことだと思う。

人は、深い哲学と真理を探究する求道者のことは知りはしない。
その人がどれだけ孤独に道を貫くために、自分を律し、社会のために自分を遣っているかということまでは理解することすらもできない。

道を同じくして歩んでみてはじめて分かる境地だし、それが分かるというのは自分もその道の素晴らしさを共感し、自らが歩みの実践をしているということになる。

ただ話が良いからや分かりやすい、とても感銘を受けたとだけで何もしないのならばそれは道が分からない人だということになる。

人は、それぞれ自分の使命がある。

この世に生まれてきた以上、何かしら必ず生まれてきた意味が存在する。
その意味を感じつくしていけば自然に、自分が必要とされ社会の中で自分が使われ幸福に満たされていく。

だからこそ、常に真理探究を失わず本質を見極め、まずは自分の脚下の道を自立して歩むことが大事なのだと思う。

今回の講演の中でも素晴らしい気づきをいただいた。

人は強くしていかないといけない、強くすることでより良く本人が生きる力を手に入れ社会で立派に自由に自分らしく生きれるようにしてあげるのが養育でもある。

そしてそのためには、多少は限界を超えることで強くさせることも要る。

普段人は、自分が思っている限界までやるのは誰でもやる、そしてそれが限界だという。ちょっと辛いと限界は超えられない、しかしそれだけをやっていても強くはならない。本当に強くなるには、限界のもう少し先、一つ先をやることでその限界を少しずつ広げていける。

アスリートなどもそうだけれども、自分を知ってくれているコーチからもう少しだけと要求されることに応えながら自分を高めていく。コーチがそれができるのは、自分もその体験をもって掴み、また相手のことを深く思いやり共感し、強くしていくことがどういうことなのか、またその適切な力加減が観抜ける専門性があるから行うことができる。

子どもの発達も同じで、どこまでいけるかは見守る側の専門性が求められる。

たとえば、子どもが何かを頑張っていて限界だと言うとすぐに可哀そうだと思う人がいる。誰でも、ついきつそうな姿、シンドイ様子をみると可哀そうだと同情する。

しかし、一旦それだけを切り取ってみると可哀そうに思うけれど、本人がやりたいと思っていること、人生をよりよく生きようと思っていれば、それは可哀そうなことではない、それは相手を自立させるために強くしている取り組み、生きる力を手に入れているのだ。

可哀そうと思うから大人が先に全部やってしまう、それがいけない。それが見守るではなくやってあげるということ。

情けは人にためにならずとは、こういうことを言うのだと私は思う。人は、やってもらうと自分自身が元来持っている能力を引き出すのを止める、つまりはその力を失ってしまう。先にやってしまうと、その能力は要らないのだと認識してそれ以上は二度と使わない、むしろその力は自分にないのだと先入観を持ち思いこむことになる。

そうなると、もう次はその自分の決め付けを裏切るような出来事が起きるまで気づくこともないのだとも思う。

藤森代表は言う、その人をできないからと可哀そうだとは思ってはいけない。
本当に可哀そうというのはどちらがかわいそうなのかと思うことだと。

私の解釈では、自分自身で生きる力をつけていかないといけないのだから、それを失わさせることが本来の可哀そうなこと。そこを見捨てるのは、優しさではない。

自立することは決して可哀そうなことではない。
それは、本来、自分がよりよく生きていく、幸せになるために必要なのだ。

だからこそ、私自身、ついきつそうだったり、つらそうだったりするときに、可哀そうだと思う前に、しっかりと本人に共感し、受容し、その人が自らの持っている力で自立し、自分らしく生きる力を手に入れるようにそっと援助していきたい。

誰かが見てくれている、見守っているということがどれだけの自分の内面にある自信と力を引き出してくれているかということをいつも感謝し、そういう存在であろうと改めて思う。