四季の呼応

秋の空はとても澄んでいて、風の通りが心地よいものである。

この時期の山川草木の自然の姿には、クールダウンしていく美しさがある。

山々には、獣の足跡から様々な鳥や虫の鳴き声が豊穣を木魂してくる。

褐色の地面の下では、命が緩やかに静かに揺らめいている。

穏やかに一休みするということの意味。

そこに秋の真の醍醐味がある。

人間も一生懸命生きてきて、思い切った心の一休みが次の四季の準備してくれるもの。その瞬間の心が、次の季節を楽しむ豊かな自然と繋がっている。

そして人々の毎日の暮らしの中にも四季は備わっていて、それが毎月、毎年となって新たな記憶が深いご縁と折り重なり積み上がっていくようなもの。

如何に豊かに生きるかというのは、変わらない日々ではなく、変わる日々を味わい尽くすことにある。

そして人にも門出というものがあり、季節の変わり目には常に四季の歓び寂しさ、楽しさや哀しさなどがある。

こういう季節を映し出す心こそに情緒があり、生きることの妙味がある。

春の出会い、夏の盛り、秋の休み、冬の別れ、その一つの四季にも素晴らしい感動と幸せがある。

自分の心が四季を感じるままに、人生の妙味を楽しむこと。
四季は心の中に呼応し新たな門出を祝ってくれるもの。

一期一会に支えられる今に感謝していきたい。

成長の本質

自然を観るとき、全体にとってどうかということは遠大な心で感じなければ理解できることではない。

一見、対立するものが実は長い目で観れば必然的に調和していたり、あまりにもかけ離れたものが一番身近なことであったりもする。

自然界は、様々な形に変化を繰り返しながらひとつの調和へ向けて合成されているのであろうとも思う。

妥協も理想も、時代的な役割分担があり、何かの一方に偏ることでそうではない一方に偏ろうとするのはこの世の法則なのであろうとも思う。

人間の集団を考えるとき、その土地やその地域に必然的に発生する気候や風土にあわせて文化というものが起きてくる。

砂漠には砂漠の、湿潤には湿潤の、平原には平原の、山岳には山岳というように切っても切り離せないその土地の関係性から全ての生命は様々な進化を遂げてきたのであろうとも思う。

都市化されてくると、その環境の変化というものと切り離した世界を構築するから進化するということに鈍くなっていくのであろうとも思う。

進化とは、成長とは、自然の微細な感性に自らが感応するときに真価を発揮するのであると私は思う。それは、人との間だけではなく物との間にもシンクロニシティを感じるような出来事をたくさん積み上げて気づき呑み込んでいく中で感動しながら発達を遂げていくようにも思う。

つまりは自然の中でしか育たないということである。これは単に川や山などの自然のことを言っているのではない、これは自然あるがままの環境のことを言う。

内外一体の自然は、その自らの心の中にあるものとと宇宙一体のものとが混然一体になっている姿こそある。

成長の本質は、自然との調和にあるのだから決して成長するということは、人間個人の意図的に頭で判断して独りよがりに計算できるようなものではない。

成長とは、自然の持つ好奇心のような内面の深い葛藤に感応していくかのように万物を必然的にそのもの全体を受け容れ、その中で最も善い理想を貫くときにこそ命の煌めきは真に輝くということと同じである。

そしてその命が煌めいていないものに成長はない、言い換えれば、成長とは自然に命が揺れ動くことであり、精魂の揺さぶりのような驚異的な感覚のことなのである。

人生は二度とはないからこそ、無難に生きるという選択をしながら成長ができるとは甘えてはいけない。人は頭で生きるのではなく、心でこそ生きるからである。

そして私も実践者として一期一会に生きるからこそ、有難であろうとも理想を貫き最期まで諦めずに遣り抜くという気持ちを優先していきたい。

子ども第一主義の第一とは、理想のことである。

理想は、現実によって磨かれ、現実は理想を明瞭に澄ませてくれる。
愛する仲間たちとともに人生を楽しんでいこうと思います。

天を信じる

出来事を観るとき、自分だけの一方的な価値観で視るのは危険なことである。

果たしてそれが本当はどうなのかは、自分の先入観や感情を交えずに冷静になって観照してみなければ本来の正しいことは分からないのである。

これは例えば、現象に対するものでもそうだけど一見、良くないことが起きているような出来事が起きたとしてもそれは長い目で観るととても素晴らしいキッカケを与えてくれていたことが分かったりもする。

またもしも良いことばかりが起きていたりせよ、それが実際は後の試練に向かっていることもある。

つまりは、目先の出来事がどうかではなく如何様にも転じる力、それを自然な流れであると受け容れる力、そして自分がどうあるべきかを見抜きそれをじっせんする力など様々な力をバランスの中で活かしてこそ本来の天命を活かすに至るのであろうとも思う。

これは人間万事塞翁が馬の故事にあるように、人は如何に泰然自若と信じるかが心胆の練磨により可能になるのだとも思う。

そう考えてみると出来事には本来、善悪があるわけではなくただ陰陽があるのみである。人智を超えたところで、その陰陽は働き、それはまるで私たちが何か偉大なものに活かされていることを知るかのような出来事を感じさせるのであろうとも思う。

陰陽を感じるとき、如何に自分の浅はかな判断を容れないかということであろうとも思う。

その陰陽のバランスが保てるように様々なことを通じて私たちは自分の生き方を普遍的なものへと自然にあわせていくのであろうとも思う。生命とは、そういう絶妙なバランスが生み出している奇跡であり、そういうものが一切別れずに全体として存在するときにはじめて自分というものの本質が顕われるのであろうとも思います。

感覚を近づけて知っても、感情により心が曇ればまたいつもの価値観に支配されるようでは平常心が身に着いたとはいえません。どんな時も、ある一点を信じられるよう遠くを観て実るのを待とうと思います。

考えても分からないことは考えないのは決して受け身ではなく、天を信じるからであろうとも思います。

バランスが取れなくなっているときこそ、信じる力が振り戻すのだと思います。学びを実践から掴み取っていこうと思います。

ご縁がある

感情というものには、喜怒哀楽様々なものがある。

嬉しいと思える感情と寂しいと思える感情もどちらに良し悪しがあるのでもなく、どちらに正否があるのでもなく、そのままそういう感情があるということである。

例えば出会いというもので考えてみる。

出会いは、出会いの瞬間が感動であればあるほどに、その別れもまた同じく感動のあるはずである。そうなれば感情も同じようにその出会いの時のものと同じものが別れのときに訪れるのであるのだと思う。

感情は嬉しさから寂しさへ、楽しさから哀しさへ、喜びから怒りへと、まるで陰陽あわさっているかのように様々な形に変化しバランスを取っているのであると思う。

その感情の何かを人は否定してしまうことで、本来、自分が最も望んだものを否定しようとしてしまうことがある。しかしその矛盾にバランスを怖し自分の心身が苦しむことになったりもする。

人はそれに耐えられず、素直な心で生きるなら如何にその感情自体を理性で避けようとしても結局は自分が最も望んでいる方を最終的には選ぶのである。それに感情を押し殺して生きるのはもっとも悲しい生き方でもある。

子どもの頃、愛され過ぎた人は人を愛しすぎるのかもしれないし、悲しみがすぎる人は人を悲しませすぎるのかもしれない。しかし人はその両方の人が出会うことで、御互いの埋められなかった感情を埋めたり、補ったり、支えたりするのであろうかとも思います。

そしてそうやって出会う新しい自分との出会いというのは本当に素晴らしいものだと思います。

新しい自分は、過去の自分との別れでもあり、過去の関係の卒業は、新たな関係との入学でもある。人は、節目というものがありいつの時代もどんな時でも新たな環境で自分自身と出会っていくものです。

私自身は一期一会を座右にしていながら、どちらに偏り過ぎるのはまだまだ未熟だからであろうとも思います。しかし、この感情を味わい尽くしているとき自分の人生がそして他人に対しての真心が相手を自分を大切にしていきたいと思えるから出会いには哲学があるのだとも思います。

人は誰にしろ、出会いと別れを繰り返し成長していくものです。
何かの別れは新しい出逢いを彷彿させてくれるものでもあります。

同じ志を抱く人には、出会い別れはなく永遠に道の途中、共に受け継いで生きていくのだとも思います。

しかしそうではない人とも大切なご縁がある。
すべてのご縁を善きものにできるかは、自分の心がけ次第である。

私は座右に対して恥ずかしいことをしないように、まずは自らの信念に沿って生きていきたいと思います。

原点に帰れる場所があることに深い感謝です。

未熟なままの素直であれ

無知というものについて深めてみる。

人は知識というものを沢山得れば知者になったと信じている人が多い。

しかし知識を得たからといって真理が分かることはなく、真理を理屈で理解した風になろうとするだけで実際はそのものの本質に気づいたわけではない。

先日、若いタクシーの運転手の方とのお話の中でこんなことを聴いた。

「この業界には50才代、60才代の新人社員が沢山いるんですよ。その人たちが新人なのに頑固というか変なプライドを持って自分は何でも知っているのだというオーラを出してくるのです。東京都内の道なら何でもしってるんだぞといった感じです。しかしこういう人たちが実際は仕事ができない場合が多いです。成績も悪いし結果も出ない、それに勤務態度も悪く人間関係もうまくいかずとても残念な感じです。」

とあった。

こういう話はどこでもよく聴く話で、年代に関わらず20才代でも30才代でもそういう先輩なんだという年配者によくありがちなプライドのような肩書持ちの人に出会うこともある。

このおかしなプライドの正体は一体何なのだろうか?

それは、いつまでも本当のことを知ろうとする勇気がないことである。
それは自分が未熟者であるということを受け容れられないということである。

自分はきっと未熟ではないと信じたいというエゴのことである。

なぜ素直になることができないのか、なぜ失敗から学ぶ事ができないのか、なぜに成長を止めてしまおうとするのか、それは未熟であることを無知であることを覚りたくないからである。

それをすることはとても勇気がいることだからである。

プライドがある人がよく話す「分かりません、知りませんと聴くことができない」というのはそのためである。そして自分を偽り知ったかぶりをしてきた年月こそがその人をより頑固にしていくのである。

なぜ教えてくださいと聴けないのか、なぜ指導してほしいと頼まないのか、徹底して拒絶抵抗するのかは未熟な自分だということから逃げたいからに他ならない。

自分で責任を持って何かをやろうとすれば、私自身も思えば本当に気づかなかった、自分が未熟者だった何かがあるたびに反省することばかりである。

その失敗から何を気づこうか、その経験からどう成長していこうか、そういう気持ちこそが「向上心」といい、その心が自分が無知でしたと素直に受け容れる勇気に変換されているのである。

人は、誰しもすべての事を知っている人などいないし知っていても意味がないのである。大切なのは、自分の人生の目的に気づく事であったり、自分が何のために生まれてきたのかを知るためでもある。それこそが良知である。

もっと表面上の分かるといった知るではなく、本質的に根本的に気づくという知るでなければその知は単に自分の心を完全防備する壁にしてしまうだけである。

その生き方は自分に正直ではないのだからとても苦しいのである、自分を説得するための知識だったのか、それとも気づいて成長しようとした知識になったのか、大事なことは無知であることに気づくこと、そしてそれを受け容れる実践、つまり素直になることは未熟でしたと知ったことである。

まずは私が示し、それを周囲に感化していけるよう子ども達にはそういう大人たちの歪んだ知識教育によりおかしな生き方に導かれないようにしてあげたい。

この人間の傲慢な知識教育の刷り込みこそがバランスを見失わせたのである。

教育者こそ、自分の未熟さに誰よりも先に気づく人であるべきである。

私は、一生そうありたい。

あの子ども達の姿こそ、あの子ども心こそ完熟していると思えるからである。

我が大人たる者の未熟さを恥じて、愛と勇気のヒーローのように素直な自分を受け容れて学び続けていこうと思います。

使命感

人生はどんな目的があって今があるのだろうか。
人は何のために生まれてきたのだろうか。

そういうものから自らの人生の意義、つまりは自分の決めた生き方とも言うべき使命というものを考えるのだと思う。過去はどうであれ、今この瞬間にも、その生き方というものは万人に等しく自由に選択をすることができるもの。

生き方とは自分の存在や自分の価値をどれだけのものだと自ら信じているか、自分の人生をどれだけ大切にしようとするかというべきまず自らの命そのものに対する責任と自覚のことだと私は思う。

例えば、仕事も同じく責任感や使命感とはその自分の役割や任務の価値にどれほどの誇りと意義を持ち働くかということも同じである。生き方と働き方とはまったく同じものであるからである。

もしも今の自分を偽り、自分を欺き、自分を蔑にすれば、不正直になりいつもその因果応報の結果として自分の命の責任をも何かに転嫁するような生き方や働き方になってしまう。

本当に自分が遣りたいことは何か、それはその自分の命をどう使うかを決めるか、つまりは使命感がどうなのかということでもある。

人はいつも使命を覚えるとき、自分の命の本体と向き合うことになる。
その本体とは、偽らない自分の本心のことであり真心のことである。

そして真心から生き方を決めたらその「志」を自ら立てるかどうかが重要になる。

自分が志を立てるということは、自分がその生き方を使命を果たすために遣るということを決めるかということである。

人生と仕事、人生と役割、人生と使命、人生と貢献、等々、人生そのものと全てのことを一体にしていく覚悟のことである。

誇りを持って生きることは、自信を持って生きる事である。
自らの心に問うのは、使命感なのである。

そして人は使命感を持つかどうかということが、自立の本質となる。

この生まれてきた命をいったい何のお役に立てるのか。
その役目を如何に大切に果たす覚悟であるか。

生死を超えたところで、使命感が信念となり、芯強く嫋やかになるのである。

至誠の源、大和の魂、我が心中にこそ在り。

先達の人生の志士に見倣い、私たちは篤い真心で生きていこうと思います。

信仰心の本質

信仰心というものがある、これは信じる方を仰ぐ心と書く。

何があろうが絶対的なところで信じるという行為は、人が生きていく上で迷わずに覚めた人としているためには必要なものであろうとも思う。

通常は、何か自分に都合が悪いことが起きればそれが悪いことが起きると判断したり、目の前の出来事次第で一喜一憂しているうちに心が不安定になってしまうものである。

しかしそれを絶対的な場所で捉えれば、人生には無駄がなく全てが必要な偉大なプロセスの一部であるということになれば無駄というものはないことになる。

心がそうやって全受容全肯定で必ず善いことと思っていればいいのだけれど、少しでも疑いや迷いが発生すればすぐに心とのバランスが不安定になってしまうものである。

信を優先するというのは、心も頭も両方共が同時に理念や信念を守っているということでありそうしているからブレナイでいることができるのである。

逆に不信を優先するというのは、いちいち事物や現象が自分の思い通りいかないからと言い訳や愚痴ばかりを日々に考えて一向に何もしようとしない状態を言う。

人間は自分の信じたことを自分が信じてあげて最期まで遣り切るとき、そのことが如何に後でとても重要であったかを必ず人は気づくものである。

その瞬間はよく分からなくっても自分の本心が望んでいく方、自分の澄んだ心が求める方へと一心不乱に向っていけばその時、何か不思議な信じる力に自分が見守られていると実感するのである。

自分を中心に善悪を決めず、自分を中心に良し悪しを定めず、自分を中心に物事の正否を決めない、そういう素直な良心が働いているようにすることが信の入口であるのだと思います。そして入ったところから継続して改善を繰り返すことで全体にとって善いことや、社会にとって最良のこと、生き方として正しいことになり、万事如意の状態になるのだと思います。

信仰心の本質は、全てにおいて絶対的な自分を信じることができるかどうかです。

日々は道場、人生の修練場であるからこそ、自分を信じるために心の中に起きることを見つめ正し、誠を尽くし、常に学び直しを楽しんでいこうと思います。

生活研修

人は最初の関わりでどのように育ってほしいかでその研修や教育の中身が変わってくる。一番初めに何からどう関わるか、その初心や原点ともいうべきものがなければ後々に正しく素直に育っていくことが難しくなる。

これは自然農と同じく、最初に耕してしまったり肥料を入れたりすればそのあとそれを修正するためのことばかりをしないといけないように、人も同じくまずは心から学び、経営者の人間観を感じ、企業文化に馴染み、仕事の仕方を覚えるというように、その踏むべき手順というものがあるようにも思う。

何かの大切な使命や目的があって、社会に出てきて組織の中で活躍するのだから優先順位を体得することは自立するための重要なプロセスとなる。

長い目でものを観た時に、将来、その人にどのようになってほしいかから考えれば目先のことを教えるよりももっと大切なものから感化しようと思うはずである。

最初が肝心で時間がかかるけれど、それをしっかりやるから将来社会で有益な人財となって貢献してくれる人になるのだと思う。

例えば、会社なら社長になる人は最初から社長になる教育を受けているのである。
最初から一般社員になるような教育などは受けていないのである。

しかし世間では即席栽培ではないけれど、すぐに収穫しようと焦り、また本人も早く実がならなければと自ら正しく学ぼうとはせずにいるから、大事なものが観えなくなっていくのであろうとも思う。

人間同士の深い関わり、人間観の触れ合いから最も優先している大切なものは、その生き方や生活から学ぶことが本質的であるのだと思う。

あの偉人をたくさん輩出した松下村塾も、徳風で満たした藤樹書院も生活を通して塾生を感化さしめたからこそそこから生きる根本の意義や塾長と言われる人の生きざまや大義に触れて将来の自らの参考にしたのだとも思う。

思いやりや真心というものは、正直に素直に学び合い続ける間柄でしか機縁は生まれず、そういう澄んだ世界でのみ互いに伝授伝播されていくのであろうとも思います。

学びとは表面的なところではできないことの証明であり、それは人間は深くその人の人間性に触れることでしか共にできないことも顕しているのだと私は思う。

これからの新人研修のあり方や、その志のある人物の見極め方、またどう感化するのかは生活が基本になっていると実感します。

思い返せば、自分が今まで恵まれていた有難い学びの環境があったと本当に感謝に尽きます。これは志の御蔭かもしれませんが、今は同時に役割交代として頂いたものを次へ譲ることで恩返しをしてその学びをさらに深めていきたいと思います。

行事の在り方

人間は本質が何かをまず考えなければどんな業務も増やしていくことになる。

例えば、学校行事などでも本質を深める前に、昨年評判が良かったからと行事を追加していくだけで今までのものを減らしていなければ増え続ける業務の中で忙しくなりたくさんやれば質が上がるなどと本末転倒なことを言っている人もいる。

忙しいのだろうけれど、いつも忙しいと言い訳を頭に掲げて同じことをやっていたらいつまでも忙しいままだろうとも思ってしまう。そうならないように他人は知恵を使って創意工夫していくことで改善していくしかないのである。

これは学校行事とはそもそも何か、本当は何のために行っているのか、そのはじまりはどのような理念であったのか、そういうものをよく知らないやよく分からないままで指示された通りに動こうとしたり、目先の期限ばかりに追われていたら忙しさというものはなくなることはない。

目先に姿ばかりを追っかけてみては思い込みで育てようとすることがより「深く考えない」環境を構成していくものだと思う。

目先には心は入ることはない。
心の余裕というものは、常に本質から考えたから生まれているのである。

そして話を戻せばこれは学校行事に限らず、何のためにやるのかというこを主軸に、そこから外れないようにと自問自答した後、皆で取り組めば温故知新に古いものは整理され新しいものが上書きされるというように変化に準じていくことができるのである。

つまりは考えればいいだけであり、何でも深く考えることで済むのである。
考えるために対話をし、考え切るために学問の修練があるのだ。

もう一つの例では学校でいえばすぐに危ないことや危険だからや不安だと、子どものことか自分の保身かがすり替わっていることも多いけれど弱体化していく子どもにあわせてさらに弱体化する環境を用意するというのは、自分が弱くしておきながら弱くなったからもっと環境を弱いものにあわせないととしているということになっていることに気づかないだけである。

弱体化の悪循環はこのままずっと考えないことによる弊害を受けることになる。反応的になにかをやっていたって、問題はいつになっても解決しないのである。

大人が何かを意図するのであれば、当然、その理念を先に立てるまで徹底して納得する心の時間をとるほうがいい。何の経営でも、スタッフが納得しないものを上から降りたからとただ従うという組織こそ思考停止し、全体の営みの質を下げていくものです。

まず私たちは自分たちの実践を通じて、深く考えて掘り導き出せるような関係性をより学んでいこうと思います。子ども達に本質的なものを考える環境を用意していきたいと思います。

自然に帰る

世界では、今、様々な難しい問題をみんなで解決するための教育が盛んにおこなわれているところもある。

人類の未来のことを真剣に憂慮するならば、人間がどうあるべきかということを問い続ける人たちが世界をいつも改善して持続可能なものにしていっているようにも思う。

戦争もそうだし、人間は自分の保身というものを集団で優先していけば本来のあるべきものを歪めていくこともできる。

例えば、それが一部の権力によって行われることもある。

中国の明代に、洪武帝という皇帝が教科書を改ざんし孟子の平等の思想だけを切り取り隠蔽し、その部分以外を教え込むというやり方をした。その際には、宦官の文官政治が蔓延し世の中が乱れ多くの優れた人物や思いやりのある人たちが弾劾されたという歴史もある。

一部の権力によって正しい教えを歪める、真理を改ざんするというのは人間をコントロールするということにおいてはその人にとっては都合がいいのでもあろうとも思う。

しかしそうしたことから、自ら恐怖を感じて現実から逃避し、ついに分限を超え、自分すらも住めなくなるような世界にして滅んでいるということを気づかないのだろうか。

支配者がエゴに支配されることほど愚かなことはない。

自然の掟があるのだから、自然にそれは元に帰るのであり、自然治癒の偉大さはそういう回復力にこそ備わっているのであろうとも思う。

今、どこからがもっとも考え直す必要があるかといえば何かを教え込もうとすることである。

そういうことをすることで深く考えない人を増産れば、自然治癒に備わっているより世界は変わろうとする力を活かすことができなくなる。

今は何より一人一人が考える時代、つまり対話の時代であり、対話をすることで一人一人が深まっていくことで本質に気づき、自然治癒を促すような時機である。

対話を繰り返すということは、自然に帰るということである。

これからも子どもたちに対話を通して学ぶことを伝えていきたい。