見守りの実感

昨日、私の尊敬する医者の医院へ訪問しお会いして治療もしていただきました。

相手のことを思い、真剣に丁寧に一切の妥協を許さずに取り組む姿勢に感動してすぐにその医師の志に惚れたのを憶えています。その後は、すぐに社内でお話を皆で聴かせてもらったりとご縁をいただきました。

その後、その医師はご自分の医院を開院して今では経営と医師の両方で沢山の方々の心の支えになっています。

久しぶりに治療を受けていると、他人に頼るということの居心地よさと大切さを思い出しました。

いつも誰かの相談にのり、いつも誰かの問題に一緒に真剣に関わっている中で相手が安心感を持ってくださり、肩の荷がおりて気楽になっていく様子に有難く思うことは多々ありました。しかし、その安心がどのようなものなのかまではあまり考えず、本当に善かったと幸福感を味わっているばかりだったように思います。

ただ相手の安心感とは何かと思う時、自分にはできないことだからお任せしようと実感するときの絶対安心の幸福感とはまた違うものがあるのです。

人は誰かを深く尊敬し、そして信頼するときはじめて「認める」ということの素晴らしさに気づきます。

人が人を認めるということは、信頼しているということです。

信頼というのは、この人なら大丈夫、この人であるならば任せられると、自分が心から尊敬し尊重する人だからこそできるように思います。

そしてそこには、その人の生き方や働き方、そして志を感じることで得ているようにも思うのです。きっとこの人は妥協しない、この人なら遣り遂げるという安心感は、「助け合える」という安ど感なのかもしれません。

医師と患者、コンサルタントと御客様であってもこの信頼感が持てるならどれだけ安心する幸福を味わえるのだろうと感じたのです。

安心というのは、お金では換算できないものですが何かあったら連絡ができるという強い絆、ご縁を活かそうという前向きな動機、そして何よりも一緒に向き合ってくれるという心強さが信頼の証明としていつまでも心を支えてくれるのです。

不安があるからこそトラウマも悩みも大きくなります、しかしそれが安心に裏打ちされるからこそトラウマも怖いものではななくなってくるように思います。安心というものは、親の傘があることを実感するのに似ているのかもしれません。

見守るということの奥深さに触れる大切な一日になりました。すべての物事には必ず確かな意味がある、感じるままに実践することができて本当に有難うございます。

常在正直~御役目~

人は役割を自覚するのに、主体的であったか受身であったかは後で大きな差になっていきます。

自分の役割が何なのかということを自覚できるということは、全体に対して自分が何ができて何ができないのかを理解することができているということです。言い換えれば、自分そのものを過大評価も過小評価もせずにあるがままにありのままに自分にしかできないことを遣っているということでしょう。

これは刷り込みがあると大変難しいことです。

誰かから役割を与えられたり、自分はきっとこういう役目であろうと勝手に思い込むとそれ以外のことをしないようになるものです。実際には何のために自分があるのか、何のためにそれを遣るのかと原点から考えていれば自ずから自分の役割が顕現してくるものですが頭で考えてきっとこうだろうと相手に合わせていると本来の役割や役目を実感できなくなるものです。

言われたことが役割だと勘違いしたり、言われていないことは役割ではないのだということの考え方の中に、役割というものは外から与えられるものだという思い込みを持つのです。

本来の役割とは自発的で主体的なものです。自分ができることは何かと突き詰めれば、自分の得意や長所が役に立つのは自明の理です。また目的に対して全身全霊の真心だからこそ自分にしかできないことを確認することができます。

自分が何で御役に立てるのかは、御役に立とうというような気持ちよりも何でもさせていただきたいと願う謙虚な心の時に観えてくるのかもしれません。

自分が求めた御役目よりも、来たものを選ばずに何でもやらせていただけるという仕合せに生きていけば御役目も役割も感謝のままに勤めさせていただけるように思います。

自分勝手に他人の役割や役目を決めるのは、どこかで自分の思い込みや固定概念によって他人を操作したいという願望や自分の計算を入れてしまうのでしょう。

世間でいう大人になっていくというのは、ある意味で計算してしまうことかもしれません。その計算という「計る」という思想の中に、まっすぐであること、正直であることを邪魔する何かが潜んでいるような気がしてなりません。自他に対して計算をしないと決めることが自分を直していくための王道なのかもしれません。

人がバカ正直だと馬鹿にするところにこそ、本来の正直の真価があるのかもしれません。素直な子どもたちはみんな正直ですから、馬鹿になるのはそうではなくなった方かもしれません。

そう考えれば自分の御役目や役割を自覚するには正直であるということが大前提に座っている必要があるのでしょう。自分に正直に、他人にも素直にという生き方はとても謙虚なものです。謙虚にいきていれば役割や御役目もまた自然に融和し共生の理に従って楽しく仕合せになっていくようにも思います。

何をさせていただけるのかはその時その時の楽しさですが、常在正直であることを大切に実践していきたいと思います。

信頼と信愛

人は信頼関係を結ぶことで絆を強くしていくものです。

その絆は、一度結んだからいいわけではなく常に結び続けることで確かなものになっていきます。そして結ぶというのは、片方だけがするものではなく御互いに結び合うことではじめて結ぶということになるのです。

これは紐で結び合う時に、片一方だけで巻こうとしても結べずにお互いが結び目を中心に絡めて引き合うことでその結び目が締まっていくように、絆もまた其処で強く厚くなっていきます。

この絆の強さや厚さがあるからこそ、離れてもその絆や信頼があることを実感し、独りになっても背中に残る信を感じながら自らの脚で立つことができるように思います。

この信頼を結ぶというものが人間関係において具体的に何かといえば、「助け合う」ということだと私は思います。

どちらかだけが一方的に助けられる関係だと、紐を結ぶことができません。そうではなく御互いに助け合うことでその紐も結び合えます。そしてその助け合った数が絆の厚さになっていくのです。同時に助け合った質が濃く高いほどに、絶対的な信頼感を持てるようになっていくように思います。

御互いに助け合える絆やご縁を持たせていただけるというものは、本当に有難く尊いものでそういう人たちと共に歩めるという道の中にこそ真の信頼関係があるように私は思うのです。

それは英語でいえば、ギブ&テイクという言い方かもしれませんが日本語でいえばご縁を活かすということに尽きるように思います。人は周囲を信頼することでオープンになります、しかしその信頼を深めるためには自分から周囲の助けを求め、そして自分のから周囲の助けに応えていかなければなりません。

自分のことだけをすればいいではなく、どれだけ全体が困っていることに向かって解決するために行動したか、また周囲の方々のために自分を活かしているか、感謝を主軸に沢山の関わり合いの中に自分を置いてこそ信頼関係が築けていくのです。

人は社會で生きる生物なのだから、この助け合い信頼するという絆を常に結び続ける努力を怠ってはならないと私は思います。

なぜなら、つながっていることを忘れてしまったり、つながりが切れるのではないかと不安になったりすれば人は信を自らに持つことができなくなるからです。常に信を持つことができるというのは、常につながりつづけるという実践が必用なのです。

人は目には視えないものでつながっているものです。そのつながりをより強くしていくことで社會の中で自分というたった一人を活かしていくのだと思います。その一人として社會を存在するのもさせるのも自分次第ですから自分への信頼こそが社會そのものの安心になっていくのです。

常に信頼し助け合える数を増やすこと、助け合っていく質を高めること、言い換えれば真心のままに人を愛し信じて歩んでいきたいと思います。

幸福の選択

過去のことをふり返ってみると、かつて自分が迷い苦しみながらも選択した進路はすでに決められていたのではないかとも感じます。

今というものを噛み締めれば噛み締める程に、過去にあの出会いがなかったらとか、あの場所でなかったらと、一つ一つのことが今の全てに活きているのを実感するのです。

一つの選択が次の選択を呼んでいくように、自分の選択したことで人生そのものの流れができていきます。それはまるで山の上からの水の流れのように、せせらぎが川になり海につながっていくかのように流れていきます。

人生の道というものもまるで川の流れのようなものなのかもしれません。

時折は、静かに穏やかに流れ、また時折は濁流の中を駆け抜けるように流れていきます。自分のいのちの水がどのように流れていくのかを見つめていると、そこには多くの支えがあること、出会った人たちの呼び水によって流れがあることに気づけるのです。

運命とはよく言ったものではないかと実感します。

この運は運河と同じように、ただ流れていくのに身を任せているのではなく、流れに対してどう運ぶのかは自分自身であるという意味なのでしょう。

どうせどうにもならない流れならば、如何に善いご縁にしていこうとするかは自分のいのちが決めるということです。そう考えてみると、選択というものは正しいかどうか答えにそっているかどうかではなくいのちの尊さや有難さのままに感じたか、幸福を実感しているかということになるのではないかとも思うのです。選択とはもっと偉大なところで行っていくというのが運の本質なのかもしれません。

そう感じて観ればどの選択もいつも幸福につながっているということを実感していることが運命をより善く生き切るということであり、運が善いということなのでしょう。

全てを信じる生き方ということもまたその選択の中に存在しているように思います。
日々の一つ一つを真心で味わって噛み締めていきたいと思います。

体験融和

人は教えられないものに気づくというのは体験をするということです。

体験をすることで、今まで気づかなかった新しい世界が顕われてくるからです。分かれていた世界が繋がるように、二つ以上のものが一つになるように体験をすることで一体になっていくように思います。

そもそも分けてきたのは、脳が整理をするために様々なものを分けているともいえます。

空気や水、太陽や光という自然のものまで分けていますし、他にも仕事とプライベートとか、平日と休日とか、社会の枠組みにあわせて分けているものを見て、分けているものに自分を嵌め込んでは脳の考えている社会の中で自分というものを配置しているものです。

しかし時折、その脳で考えている通りにはいかないことで苦しむように思います。

きっとこうではあるはずだ、必ずこうなるはずだと先に答えや結果から悩むのもまず脳が先に構築したものと大きくズレてしまうことで混乱しているのです。正しいと思い込めば、その正しいことに固執してしまいます。

巷の経営論や、数々の評論によるものは参考にはなりますが体験にはならないものです。

自分の体験としてどれだけのことを融和していくかが、学びを消化していくことかもしれません。喰わず嫌いになる前に、喰って味わってみてから深める方がそのものが何であったかを丸ごと認識できるようにも思います。

体験ということができるというのは尊いことです。脳はすぐに体験する前に知りたくなりますが、心は常に体験したがっているようにも思います。せっかく自然豊かな地球に生まれてきたのだから、人は地上の楽園で色々な体験がしたいと思っているのが本能のように思います。

体験が楽しくなるのは、その固定概念を壊したときかもしれません。

小さな微細な体験からコツコツと積み重ね、より偉大で奇跡のような体験を深く厚く味わっていきたいと思います。掛け替えのない日々を大切に遣わせていただきたいと思います。

天性

人は自分の中にどのような向き合う鑑を持っているかがとても大事なことのように思います。

いくら向きあったといっても、相対的に向き合っていたのではその主軸次第でいくらでも自分の都合の善い方へと解釈しているだけで本来の正直な内省や反省になっていることになっていないからです。

ちゃんと向き合えば、そこに確実なものが顕現してきます。それが観えれば、それに照らして自分を素直に変えていくことができるのです。

しかし実際は、なかなか向き合えないものです。本質を捉えるにも実力が伴います。ありのままを見抜くには自分の心と対話し本来のあるがままの答えを自らで明らかにしていかなければなりません。しかし他人にはそれぞれに正しいと信じ込んだ思い込みというものがあります。特に教えられた知識でそれが上手くいき、当たり前になるように習慣付けばその習慣はなかな手放せません。

習慣は第二の天性という言葉がありますが、今まで身に着けた習慣を変えるということは本当に大変なことだからです。それは単に行動だけを変えればいいのではなく、自分にとっての不可能に挑戦するような実践をすることで意識を丸ごと変えるというような大転換が必要になるからです。

そしてそこには全て心を伴いますから、強い心を持てるようになることが肝要なのかもしれません。だからこそ人には信念というものが用意され、その信念を正すために理念があるということです。

理念があるということは、その理念に照らして実践を改善することができるということです。理念というものは、いわば映し鏡であり自分の心を照らす鑑であるのです。

その理念に沿って如何に本当の自分を持つか、自分らしさを大事にするかは、自分の心を自らで守るような実践を日々に持てるかどうか、また心を共に守ろうとする仲間に出会えるかどうか、そして心が常在感謝になっているかどうかに懸かっている気がしています。

私達の家訓に天の道理は謙虚としているのは、天というものへは感謝できていないと天からの恩恵を自由に受け取ることができないという意味でもあります。天の恩恵を上手にいただき活用するには自分の中の生き方として如何に天性を感謝に合わせていくのかという克己実践が問われるように思います。

常在理念、常在信念であり続けるということが人生道場の基本ということなのかもしれません。

一家としての一年目は、どれだけの意味が隠れていたのでしょうか。
二年目には各々安立に確実な芽も伸びていくと思います。

天性に感謝しつつ、天性に合わせて、天性を存分に発揮していけるようになりたいと思います。

好奇心~決心式~

人間には何よりも大切な宝として好奇心というものがあります。

この好奇心というものがある限り、私たちは自然から離れることはありません。

子どもの心は純粋で無垢です。

この純粋と無垢とは何かといえば、好奇心を持っているということです。

好奇心というのは、自然に触れたいと思う心。自然と一体になりたいという心。自然を愛でたいという心です。つまりは五感を超越した第六感ともいえるもので、いのちの正体です。

いのちというものは、感じることで活き活きしていきます。

もしも無感動無関心になるとしたら、好奇心を苛まれる枠組みや常識によって本来のいのちが閉じ込められることで発生しているといっても過言ではないと思います。人は好奇心を失わない限り永遠に光り輝き続け、そしていのちの灯を炎々と燃やし続けることができるからです。

今の社會は好奇心というものをあまり大切にしていないように思います。

その好奇心を守るのは自分自身です。

如何に面白く楽しい日々を送っていくか、それは自分の生き方によります。そしてその生き方の根幹に「感じる」という力をどれだけ養うか、目には視えないものをどれだけ実感しているか、すべてのものにいのちがあるという感覚をどれだけ研ぎ澄ませているかで変わって来るようにも私は思うのです。

三つ子の魂とは何かといえば、私は好奇心のことであると定義します。

大宇宙の中で、地球の一部として活かされているこのいのちが、そのいのちの顕現である子どもたちが、いつまでも子どもたちらしくそのままでいられるような社會にしていきたいと思います。

引き続き、社業にいのちを懸けて実践していこうと思います。

天の恩恵

人は自分の人生を遣り切るかどうかというのはとても大切なことのように思います。

そもそも人生の善悪も好悪もそれは、自分の都合で置き換えられているものです。自然界や全体から観れば、そうなるようにそうなるのは必然であり、なぜ自分がと思うことの方が多いのが人間ですがそれはバランスの中に存在しているのが私達だからです。

誰かが強く引っ張れば、その反対は引っ張られるかのように御互いに関係を引きずりながら右往左往しているのもまた人間社会であろうとも思います。その中で如何に自分の人生を味わうのか、生き切るのかは、どうせどうにもならない運命だからと悲観するのではなく、運ぶのは自分だからと考えることで同じ運命でも異なったものになるように思います。

そして運に対して命とは何かといえば、どうにもならない中でも最善を盡すということでしょう。

その最善を盡すとは何かとえば、「必ず意味がある、必ず善いことになる」と信じているということです。一見、今までの過去から捉えたり、一般的な解釈からみれば不幸であったり不運であったり、不調であったりと感じることがあったとしてもそれを如何に前向きに捉えて福にするかということです。

幸せという字は仕合せであり、ぴったりと合わさっている意味です、そしてそれが福であるということです。つまり何事も全ては福であるという考え方のことをいうように思います。

人は最も苦しい時、前向きになれるかどうかが何よりも大切なことのように思います。そしてそれは誰もが善くないことが起きていると思うことを仕合せ、それを転じてこれは総じて善いことだと誰よりもその人の運命を丸ごと信じることができるかということです。

信じるというのは、言い換えれば結びは必ず善いことになると信じ切っているということです。そこに疑いを持たない生き方というのは、自分の人生を生き切る実践とその眼差しのままに、目の前の人のことを思いやり一緒に遣り抜く覚悟を持っているということなのでしょう。

そしてそのたった一人の自分の御役目を諦めないというのは、最期まで自分の役割を全うさせていただくという感謝の発心のように思います。

産まれてきては、日々に様々な御役目をいただき、そして豊かな役割を与えてくださるのが天の恩恵です。その天の恩恵すべてを受け取ることができて活かされているのが私たちなのかもしれません。

出会いがいつもそれを形を変えては教えてくださいます。

これからも真心のままにかんながらの道を噛み締めて往きたいと思います。

いのちのつながり

今朝も池の周囲のゴミ拾いを続けていると、新たなことに気づきます。

これだけ美しい自然や景色をなぜ汚すことに気にならないのだろうかと感じる時、心に映る世界はきっと環境や人々の状況によっても異なっているのだろうということを発見するのです。

人は自分の見たいように世界を観ているものです。それが美しいと思えば美しく感じ、それを汚いと思えば汚く見えるものです。人間の心の世界というのは、その人次第でどうにでも変えていくことができるのです。その人たちの心がどれだけ澄んでいるか、穏やかであるか、和やかであるか、潤い暖かいかを私たちは常に意識している必要があるのかもしれません。

今回もゴミを拾っていく中で落ちて捨てているものには、タバコの吸い殻、お酒、お弁当箱、博打後の紙、缶コーヒーやジュースのペットボトルがほとんどでした。昨日は粗大ごみや大きなものばかりが気になりましたが、今回は小さなもので隙間や端々に落ちているものに目がいきます。不思議ですが、毎回、拾えば拾うほどに自分の見えている世界もまた美化されていきます。まだまだ実践が足りませんが、整理整頓の力とはこういうところで磨かれるのかもしれません。

今回はそのゴミを捨てている人がどんな心境であったのか、またどんな気分であったのか、色々と想像しながら拾いました。ゴミの種類を見ても朝早くから捨てている感じではなく、夕方から夜、深夜にかけて捨てているのが分かります。しかも誰も見ていないだろうというところに捨てているのが分かります。誰も見ていなければ捨ててもいいと思うのは、その人が周囲や人々から見守られているよりも見張られているかどうかを基準にしているのではないかと思うのです。

しかしこうなってしまった理由は誰がとかどういう人がとかが理由なのではなく、根源は人間の心の問題、そしてそこから顕現する社會問題であると私は思います。

かつて歴史を鑑みても、人心の荒廃は社會の貧しさによって現れてくるものです。その最初の兆候は身近な神社や、道端のお地蔵様に対する感謝や、先祖や先人たちへの報恩などが消失していくところからはじまっていくように感じます。

共同で築き上げてきた絆を、歪んだ個人主義や利己主義が蔓延してくると社會の弱い立場の人たちにそれを押し付けられていきます。本来、社會とは結びつきで成り立っているものであり、皆がかかわり合い、助け合い、見守りあい活きるからこそ存在できているものです。

しかしそういう結びつきや絆が薄れてくるからゴミが散らばっていくように私には思えます。昨日はゴミそのものの概念、価値を亡くすことに問題があると実感しましたが今朝は人々の絆が失われていくことに問題があることを実感するのです。

ゴミとは物の価値と人の価値、これらの価値が循環していくものそのものへの否定です。

物も人も勿体ない存在、だからこそ、その御蔭様に感謝して大切に恩返しをしていくということも分からなくなっていくのでしょう。しかしこれらはすべて「いのちのつながり」の中で実感する境地です。

いのちのつながりを断裂することで、日々のゴミは拡大し続けるのでしょう。

経済も教育もそして信仰も、当たり前のところが歪んでくることで社會はすぐにその影響を受けていきます。地球という世界に棲んでいるのだから、ゴミを出すのは地球ではなく人の心です。

もう一度ゴミを出さないとかゴミを増やさないという前に、大前提の人間としての生き方の方を学び直していく必要性を感じました。物にも人にも溢れかえっているような時代だからこそ、真の心の豊かさ、自分が活かされているという有難い今を大切にしていくところから実践していきたいと思います。

貧困の原因

今朝がた朝練中に池の周りを走っていたら沢山のゴミが落ちていました。花見客がそのままバーベキューなどをして片づけをせずに捨てていくのでしょうが、朝練の子どもたちと一緒に走った後にゴミ拾いをしてきました。

最初は大きな袋2つで足りると思っていたら、ゴミの量はとても多くあっという間に一杯になり袋を増やしてまた取りました。その他にも網、瓶、段ボールその他の粗大ごみまでそのままに捨ててありました。

捨てているゴミを見ていたら、いつも同じところで同じ缶コーヒーを飲んでは捨てているものがあったり、マクドナルドのハンバーガーやたばこの箱、一番多かったのがビール缶でした。

改めて他人の捨てるゴミを拾っていたら、今まで見えなかったものが観えてきます。

裕福そうに観え、豊かそうに感じる日本ですが捨てられたゴミからそれを実感することができません。物の価値が下がり、便利なもので溢れていく中でまた買えばいい、持ち続けるよりも捨てる方がいいという考え方が拡がっています。

有り余るから使い捨てるという考え方ですが、果たしてこれは豊かというのでしょうか。

最近では、飲み放題とか食べ放題、使い放題とかそういう無限にあるものが価値があるかのように宣伝されます。それにチラシには激安とかお買い得とか、色々と安ければいいという考え方もまた広告されます。そこに何か貧しさや虚しさといったものを感じるのです。

豊かさというのは、物量が増えることではありません。

豊かさというのは、心の豊かさでありそれは物量とは関係がないということなのでしょう。むしろ今のような時代、有り余る物量の中でお金で何でも買えるようになればより一層、貧困は拡大していくばかりです。

その心の貧困は、貧富の国の差ではなくゴミであるという考え方の中にあるように私には思えるのです。日本には、かんながらという伝承された生き方が残っています。そこには、八百万の神々がいるという全てのものにはいのちがあるという真心のことです。

どんなものにもいのちがあり、そのいのちを尊敬し慈しみ愛おしむように大切にしていくということですが、その中にこそ真の豊かさがあるのではないかと私には思えるのです。

そしてその豊かさの正体は、感謝のことです。この感謝を人々が忘れることで世界中のゴミは悪循環に増え続け、そして貧困もまたそれに引っ張られて拡大し続けます。

最後に、二宮尊徳の道歌に、「むかしより人の捨てざる無き物を拾い集めて民に与えん」があります。

本当に価値があるかないかは、その人の心しだいなのかもしれません。今朝は粗大ごみの中でまだまだ使えるものを拾うことができました、話し合った結果、それを持ち帰り長く使わせていただくことになりました。

学びは脚下の実践の中にあります。

色々とまた教えていただき有難うございました。