似て非なるもの

昨日、自然農の田んぼの草刈りを行いました。この時期は初期の見守りの大切な時機で、1週間田から離れただけであっという間に稲だけではなく周りの雑草も勢いよく伸びてきます。肥料も農薬も使わない農法というものは、見守ることによって育つのを支えていく農法です。だからこそ、田んぼの中に入り自分の手と眼で触りながら稲の様子を一つ一つ確認していくことが自然農をするうえで何よりも大切なことです。

草刈りにおいていつも気づくことがあります。それは稲の周りにとても稲によく似た草が沢山集まってくることです。例えばイネ科のノビエ(イヌビエ)などは酷似しており、慣れていないと間違って稲の方を刈ってしまうこともあります。この稗(ビエ)は田植え前後に芽生えたらほとんど稲と同じサイクルで育ちます。さらに稲が刈り取られる前にすべて種を散らしますから毎年かなりの量の稗がまた翌年出てくるのです。初年度の取り組みのときはこれにかなり苦戦したものです。今では、苗の時にしっかりと関係性を築いてから本田に入れますから自ずから稲の気配のようなものも感じ間違えることが少なくなってきました。

しかしこの「似て非なるもの」が如何にこの自然界の摂理であるのかをこの時期はいつも痛感するのです。ほとんど見分けがつかないこの稲と稗ですが、実際は収穫においてとても大きな差が出て来ます。

この「似て非なり」という諺は孟子の言葉です。孟子は「似て非なる者を悪む。ゆうを悪むは其の苗を乱るを恐るればなり」といい、これを徳の賊であり道の人ではないと言います。似非(えせ)ものという言い方もここから来ています。

この孟子を引用し、佐藤一斎の「言志四緑」ではこう言います。

「匿情は慎密に似たり。柔媚は恭順に似たり。剛腹は自信に似たり。故に君子は似て非なる者を悪む」

つまり感情を表に出さない匿情は、慎み深い親密な様子に似ている。物腰柔らかく媚びる柔媚は、うやうやしく従う恭順の様子に似ている。剛情でいじっぱりの剛腹は、自分の力を信じて疑わない自信のある人の様子に似ている。それで孟子に、「孔子曰わく、似て非なる者を悪む」とあるのは、このことを言っているのであるといいます。

見た目がいくら君子に似せていても、当然その本質や中身は本物の修養と人格によって異なります。見た目君子や見た目良い人は今の時代、見分けがつきません。それだけスピード社会で情報化が進んで、時間をかけずに世間の評価や見た目で誤魔化しさも本物のように振るまいそれが本物に取って代わったような時代になっているとも言えます。先日からブログで書いている「家」のことでは、ハウスとホームの異なり、リフォームとリメイクも異なりと同じくそれが混同されて間違って使われているのと同じです。本や知識が横行し、頭でっかちになればなるほどに本能が減退してくるのでしょう。

だからこそ常に本質は何か、本物とは何か、そういうものを見極める目は自然の中に入ってこの「似て非なるもの」に気づく感性を磨くしかないと私は思っています。

 
また森信三先生はこう言います。「すべて物事は、平生無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違うとも見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最期、そこに歴然として、よきはよく悪しきはあしく、それぞれの正味が現れるのです。」

古民家再生を深めていく中で、如何に近代建築が永くもたないことに気づきます。見た目の強度ばかりを誇り、実際に天災がくれば天災が大きかったからという。しかし何百年も今でも顕在する古民家のことは議論にもしようとしない。こういう浅はかな考え方が偽物をこの世にたくさん生み出していきます。偽物とは、歴史や自然の篩にかけられればすぐにバレます。こういうものを付け焼刃の刀とも言い、必ずメッキは剥がれるように思います。

後世の人たちにわらわれないように常に「似て非なるもの」を自戒し、本来の姿に立ち返り実践により本物になることを目指したいものです。子ども達は本物を直感的に察知しますから、その子どもたちに恥じないように着実に成長していきたいと思います。