集大成

「集大成」という言葉があります。これは辞書では、多くのものを集めて、一つのまとまったものにすることとあります。この集大成の語源は、中国の孟子(もうし)の逸話や問答を集めた『孟子』巻10・万章章句下に記された言葉です。

「伯夷は、聖人の中でも清廉な者でした。伊尹は、聖人の中でもすべてに責任を感じる者でした。柳下恵は、聖人の中でも人との調和を大切にする者でした。孔子は、聖人の中でも、時勢にしたがう者でした。つまり、孔子は、彼らの「集大成」と言えます。

この集大成というのは、鐘を鳴らして磬などの玉や石製の楽器で演奏を終えることと同じです。鐘を鳴らすのは、曲のながれを始めること。そして、玉や石の楽器は、曲のながれを終えるということだからです。曲のながれを始めるのは智の仕事であり、曲のながれを終わらせるのは聖の仕事です。

智は、例えるなら弓を射る技術。聖は、例えるなら弓を引く力。百歩の距離から弓を射るとして矢が届くかどうかは、弓を引く力によるます。しかし矢が当たるかどうかは、引く力によるものではないのです。」

漢文だと「集大成」のところの文章は「孔子之謂集大成、集大成也者、金声而玉振之也、金声也者、始条理也、玉振之也者、終条理也」と書きます。つまり「孔子之謂集大成(孔子は之を集めて大成す)」と書いています。孔子はまさに多くの徳を集めて人生を大成した人物だと。

今まで、徳を実践し容どってきた人たちがいて孔子はそれを倣い、それを実践し、孔子が一つのまとまったものにしたということでしょう。

つまり孔子一人が完璧で全部もっていたのではなく、「繋がってきた徳を集めてまとめた」ということです。ここに私はとても大切な意味があると思うのです。以前、坂本龍馬が船中八策という新国家体制を起草したものがあります。これは坂本龍馬が出会った人たちからつむいだ言葉をまとめたものだともいえます。これがのちの明治政府の五箇条の御誓文になったといわれます。

そう考えると、みんなの遺志や生き方を真摯に学び聴いて実践しそれをどうまとめたかということに尽きます。「人は一人で何かを為すのではなく、みんながつながってその中で集大成によって為る」ということです。

私が今世で取り組んでいることも一つの集大成でもあります。

先人たちやご縁あった方々の遺志を尊重し、守り、育て、子どもたちの未来のために紡ぎ纏めて容にして伝承していきたいと思います。

 

原始の信仰

日本には今まで、独自の信仰形態がありました。それが修験道です。この修験道は、はじまりは山信仰からはじまったものですがそれが時代を経て様々な神様が融和して人々のこの世とあの世の境界の聖地としてそこで心を磨き精神を整える場として発展してきました。

神話や古事記、日本書紀の中でも、カミガミが山頂までいき修行を得て霊験を経ている話がたくさんあります。御神体が山そのものというのは、原始から続く私たちの信仰の形態でした。

それを明治に入り、神仏分離令というものを発令しことごとく山そのものが御神体という信仰形態を破壊していきました。その代表が修験道ということになります。この神仏分離令は、言い換えれば神仏習合を禁止するということです。

多神教を一神教に変えなさいという命令でもあります。明治のころは、海外の列強が日本を侵略しようとしてどうしても明治天皇を中心に国家を統一し直す必要があったのかもしれません。しかし今まで日本は、天皇一神教だった時代はなくずっと原始からの信仰形態をもっていた民族でした。

それが時代を経て、仏教を取り入れ、密教も融和し、他にも様々な叡智を山が包容して日本独自の神仏習合のカタチをつくってきたともいえます。そして、その信仰形態は私たちの伝統精神、伝統文化を育みました。

つまりいのちを重んじる自然崇拝です。

山はいのちが生まれてくる場所です。水が湧き、植物や木々が生え、森を形成し、生きものたちを誕生させます。そしてその山を中心に、山の周辺には豊かな暮らしの場が広がっていくのです。

山を守る、山を信仰することは、いのちを守ることであり私たちは自然と共生して里山のような循環型の暮らしを実現して今日まで心穏やかに永続する豊かさを手にしてきました。

現代、その信仰形態は破壊されたままで日本人の精神文化は別のものに入れ替えられてきているようにも感じます。それは身近な自然破壊の現状をみても明らかでしょう。

決して私は何か宗教的に正しいとか正しくないとか、宗派がどうかとかの話をしているのではありません。迷っているとき、大事な局面のときには原点回帰が必要と実感しているのです。

原点回帰すれば、私たちが今まで何を信じて暮らしてきたのかという先人からの初心に気づきなおせます。そしてそれは私たちの血肉になって文化として根付いていますから、その根から栄養を吸い上げられ元氣が湧いてくるのです。生きる力、いのちの源泉からの力を得ることができるように思うのです。

日本という国、いや日本という生き方がこれからの世界には必要です。資源が枯渇していのちが消えていく前に、私たちの役割を果たしていきたいと感じます。子どもたちのためにも、暮らしを甦生させていきたいと思います。

遺徳

現在、英彦山の宿坊の甦生を手掛けていますが朝晩の冷え込みはかなりのものです。じっとしていると体温が奪われて身体の芯まで冷えていきます。音も静かになり、空気も澄んで遠くから冬鳥たちの鳴き声が聞こえるだけです。これから雪が積もっていきますが、工事が無事に終了することを祈るだけです。

英彦山という場所のことを改めて調べているととても不思議なことが分かってきます。もともとこの甦生中の宿坊は長野覚先生のご実家で、長野先生自身も守静坊の10代目坊主でした。そして地理の先生でもあり、ご自身の御先祖様を辿り整理するなかで英彦山の本当の歴史を知ります。そして地理的研究を通して、英彦山の歴史の真実を突き止めるのです。

そして山伏というものはかつてどのような暮らし、生き方をしてきたのかを発見し世界へとその事実を伝道されました。その山伏こそが、日本人の原点を持ち、日本人を導いてきた存在であったことを示されました。

歴史というものは、常に権力者によって書き換えられていくものです。本当の歴史を守ると都合が悪くなってきた人たちが、自分たちに合わせて真実の方を歪めていきます。

時には改ざんし、時には消し去り、時には入れ替えたり、また時には別のものをさも最初からそうだったかであるように創作してしまいます。私たちは、素直であれば歴史は正しく子孫たちへ伝承されていきます。しかし、欲望に負けて自己を正当化しようとするとき子孫たちは別の歴史が伝承されていくのです。それが教科書になり、私たちはいつまでも思い込みの歴史を真実のものとして後世に伝えていきます。

そのことから間違えていることがわからない歴史がはじまります。それは偽物の歴史であり、事実とは異なる世界を新たに作り出すことでもあります。歴史は人類を守るほどの偉大な力がありますが、逆にいれば歴史は人類を滅ぼす力ももっているのです。

例えば、その土地や風土の伝統を改ざんし入れ替え消し去ったとするでしょう。すると、それまで自然と共生してきたその風土と組み合わせて長い時間をかけて発明して磨いてきた智慧が消えていきます。それは特産品であったり、衣装であったり、工芸であったり、またあるいは人々の気質であったり、生活文化そのものも失われます。

そのうちアラスカで東京の人たちのような洋服や暮らしが伝統といわれたり、私たちの使っている言葉もアラビア語になったり、食べ物も砂漠の人たちのようなものになったり、おかしなことになっていることはその時はすぐにわかります。しかし、それが長い時間をかけて歴史を信じ込まされると非効率で非合理であってもそれが今までの伝統や文化や歴史だと思い込むのです。

しかし不自然ですから、その不自然さゆえに私たちはそれまで培ってきた膨大な時間や体験、そしてその風土自然との共生ができなくなっていきます。すると暮らしが替わり、不自然な暮らしを続けては次第に自分たちも弱っていくのです。

私たちが健康で末永く豊かに生きていくには、風土や自然の智慧が必要なのです。それは、今までどうやって暮らしてきたかということを伝承していくことなのです。まだかすかに残っている歴史や文化、そして伝統をその風土と一体になり自然と共生し、子孫たちに自分たちのルーツは何か、どのように今まで暮らして辿ってきたかを伝えることが千年先の平和のためには必要だと私は感じます。

途切れる前に、みんながいのちのバトンと共に智慧が伝承していけばと祈ります。長野先生の遺徳を感じながら、真摯に宿坊を甦生していきたいと思います。

原点回帰

私たちは様々なものを分類してきました。人間の発明した言語はその分類わけの象徴でもあります。人間と動物を分けたり、男女を分けたり、大人と子供を分けたりとあらゆるものを分けていきます。

そうやって自分と他人ともわけて、自国と他国とも分けているうちに別のものとして同じ存在として感じることがなくなってきました。先進国と後進国や、富裕層や貧困層などあらゆるものを便利に分け隔てていきます。

そのうち、なんでも他人事のようになっていき気が付くと人類の危機にまでその状態から追い込まれてきました。分類わけを発展や繁栄だとし、細分化して成熟しきった世の中が今であるともいえます。

もはや分けようがないところまで分けたことを学問が進んだとしたりして、奇妙な言語も増えてきました。現実から乖離した言葉遊びのような学問では、現実が変わることがなくなってきています。

こういう時代、何が必要かと向き合ってみるとそれは「原点回帰」であることがわかります。原点回帰とは、分かれたものを一つにするという意味です。今まで分かれていたものは、本来は一つであったということ。そのことに気づいて、もう一度、正しく整理していく必要があるということです。

つまり人や動物、昆虫などではなく「いのち」とすること。また世界とか国とかではなく、「地球」とすること。他にも、文明か文化ではなく「暮らし」とすることなど、今一度、きちんと言葉として言語を磨きなおしととのえていく必要があると私は思うのです。

なぜなら言語は分けることで人は言葉を自分事ではないものにしています。すべてを自分事になり自分の責任とみんなが思うからはじめて世界は改善され変化が形になるのであって、どこかの誰かのせいにしたり、自分には無理と諦めたり、他の誰かに期待して何もしなかったら人類は滅びてしまいます。しかも、他の生き物たち、いのちにも大きな迷惑をかけてしまい結果、共倒れしてしまうのです。

分けないというのは「一緒に生きる」ということです。この一緒という字は、つながっているという意味です。一緒の存在、一緒のいのち、一緒の暮らしと今一度、すべてを一緒に考えて生き方を見直す時機だと感じています。

人類は何度も文明が崩壊し、その都度学び直してきました。今までは文明が滅んでも、人類自体の滅亡は免れてきました。隕石が落下したり、地殻変動や気候変動で滅亡しかけたことはあっても自滅するのは悲しいことです。

いのちまで分けることをやめて「いのちは一緒の存在」へと人類の精神や心がアップデートしていくことで禍転じて福になるようにも思います。人類のゴールは、世界がいつまでも永遠に平和で豊かで幸福な暮らしを実現することです。

子どもたちに遺していきたい未来のために挑戦を続けます。

人類存続の智慧

私たち人間の平均寿命はいくら長くても約100年くらいです。むかしはもっと短く30年くらいの時もあったでしょう。そして一家族がもしも10人くらいいたとしても、その歳まで生きられた人はどれくらいただろうかとも思うとかなり少ないものです。

100年でも3世代、1000年になると30世代くらいは繋いでいきます。縄文時代は1万年ですから300世代くらいということになります。

自分の代で人類が終わってしまうような危機は何度もあったはずです。祈るような気持ちで、子孫たちにいのちのバトンをつないでいったのでしょう。

そのいのちのバトンを渡す側の気持ちはどのようなものだったでしょうか?そしていのちのバトンを受ける側の気持ちもどのようなものだったでしょうか?

私たちはその先人たちのバトンを受けているから今を生きています。

よく何百年も続く老舗企業に言われることですが、老舗企業が廃業する一番の理由は不景気の時よりも好景気のときといわれます。時代が滅びに向かう時もまた、同様に悪いときよりも良い時です。人間は、欲に呑まれて謙虚さを失う時、いのちのバトンが消えかけます。

子孫たちのことを思う時、私たちはどのくらいの長さを想定していのちのバトンを渡そうとするでしょうか。自分の子どもや孫くらいは誰もが考えます。しかし本当は人類の子孫というもののことももっと真剣にみんなで考えて議論する必要があると思っているのです。

国の違いや、人種の違い、地理的な分け方とは別に地球全体のいのちをどうつないでいくかという視座で私たちはもう一度、原点回帰するときが来ているように思います。

なぜならこのままの状態であと1000年後に果たしてどのような未来が来るかが想像できるからです。世界中の資源を消費し続け、貧富の差で富を摂取し続けて地球にないからと宇宙に探しにいくというのはあまりにも欲に呑まれていると思うからです。欲は生きるエネルギーですが、それを謙虚に制御していくことで先人たちは永続する暮らしを実現してきました。

それを人類存続の智慧と呼ぶのでしょう。

人類存続の智慧がそろそろ消えかけてきています。それを甦生し、すべてのものを原点回帰してやり直す必要が出てきています。言い換えれば、学び直しの時代というkとでしょう。

子どもたちの未来が、真に豊かで平和になるように脚下の実践をさらに真摯に取り組んでいきたいと思います。

 

 

ブロックチェーンバレー

私はFBAというフクオカ・ブロックチェーン・アライアンスのボードメンバーでもあります。このFBAは、産学官民が連携したアライアンスで福岡県飯塚市を拠点に九州一円にあるブロックチェーン事業者とも連携し、あたらしい経済のあり方、豊かな生活をテクノロジーが支える時代を見据え、ブロックチェーンの拡大&展開を推進するために設立しました。

このフクオカ・ブロックチェーン・アライアンスでは、ブロックチェーンを基軸とした「人材育成」、 「企業誘致」、「創業支援」などを通じて、福岡県にブロックチェーンの産業クラスター(産業集積) 「ブロックチェーン・バレー」を形成し、世界に誇れる地域づくりを志して活動しています。

私の役割は、このブロックチェーンバレーなどを実現してこの場を整えていくことです。そのために世界中からブロックチェーン技術者や企業が集まる街の実現のために、様々な取り組みを行います。例えば、エンジニアが働く場所を自由に選び、より個人の成⻑を高める環境を自ら作り出すオフィスを持たない” 新しい働き方(暮らしフルネス)”の実現です。

私はブロックチェーンというのは、テクノロジーの名前ですが一つの思想を持っているとも思っています。よくブロックチェーンで使われるDAOはDecentralized Autonomous Organizationの頭文字をとった単語で「ダオ」といわれています。日本語では「自律分散型組織」と訳されることが多いものです。

この分散のところだけを使われ、分散型の働き方ばかりを取り立てることが多いように思います。しかし、私はこの自律分散型とは何かということを日本語にすべきではなかったかと思います。

自律というのは何か、それは真に自立して協力し合える関係が築けるということです。つまり自律=協力であり、真の自立は人々が支え合い助け合い豊かに見守りあうような社会を築いていくことをいいます。

それをテクノロジーの力を使って実現しようというのが、私のブロックチェーンの定義なのです。エンジニアではない私は、何ものなのかと思うことがあります。しかし本来、人間はカテゴリー分けできるほと単純なものではありません。

ある人はアーティストと名乗りながら、アーティスト風の職業をやる人のことをいうこともあります。偉い学者でも同じく、資格や立場があれば誰でもが学者です。こんなことをかくと批判とも思われるかもしれませんが、そうではなく大切なのはその本質が何かということを深く理解し、それを深堀りしつかみ取るように分かることが重要だと感じています。

この土地、この場所で、真に協力しあう風土や環境が仕上がっていくこと。それを人類のアップデートと共に、テクノロジーもアップデートさせようとしているのが私の試みであり挑戦でもあります。

少しずつ、同じ志の仲間が世界から集まってきています。子どもたちの未来は、私たちの人類の未来です。そこから逆算して、どうある世界がもっとも私たちが願う平和なのか。真摯に真向から取り組んでいきたいと思います。

新しい社会への挑戦

現在、「Society5.0」に「地域循環共生圏」を加味された新しい社会を目指してAI、IoTなどのICTを最大限に活用しようということになっています。このsociety5.0は以前ブログでも書きましたが狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)といった「人類がこれまで歩んできた社会に次ぐ第5の新たな社会を、デジタル革新、イノベーションを最大限活用して実現する」という意味で「Society 5.0(ソサエティー5.0)」と名付けられたたものです。

Society 5.0は、それまでの産業だけに特化したものの変革中心ではなくICTやIoTなどのデジタル革新により「社会のありよう」そのものを変えることによって、社会が抱える様々な課題を解決しようとする包括的なコンセプトであるということがポイントになっています。同時に世界の課題解決という観点から、国連が提唱する「持続可能な開発目標(SDGs)」と絡めて、「Society 5.0 for SDGs」として用いられています。

そして第5期科学技術基本法では日本政府の研究開発への投資額は5年間で26兆円が見込まれ、その市場規模は760兆円あるとされています。大きな市場規模であることからもこれからの新しい社会に向けて変化させるための挑戦をしようとそれぞれの民間企業を含め、社会起業家たちも革新のためにしのぎを削っています。

現状としては、下記の具体的な革新を提案されています。

CPS(Cyber-Physical System)における知覚・制御を可能とする人間拡張技術
革新的なAI用ハードウェア技術とAI応用システム
AI応用の自律進化型セキュリティ技術
情報入出力用デバイスおよび高効率のネットワーク技術
マスカスタマイゼーションに対応できる次世代製造システム技術
デジタルものづくりに向けた革新的計測技術

これらの技術をシンプルに言えば、サイバー(仮想)空間とフィジカル(現実)空間の融合を優先しています。最先端のテクノロジーを使って、どう様々な問題を解決するか。そういう意味では、それぞれの技術者たちが全員であらゆる分野から智慧も腕も磨き挑戦する時代に入っています。

私は懐かしいものと新しいものを融合させる甦生家ですからこの新しい社会の創造は私のライフワークそのものでもあります。現在の単なるITだけでは片手落ちなものを先人の智慧や古代からの叡智からカバーしていくことができます。

技術だけあっても社会ができるわけではなく、そこにはやはり人類の智慧が必要になります。子どもたちに譲り遺していきたい本物で真に豊かな社会に向けて、私にできることで挑戦していきたいと思います。

危機に備える

昨日に続き、環境のことについて少し深めています。最近、サーキュラーエコノミーという言葉もよく聞きます。このサーキュラーエコノミーを日本語にすると、「循環経済」となります。これは「大量生産・大量消費・大量廃棄」を基本とする従来型の経済を「線形経済」と定義し、サーキュラーエコノミーは「3R(削減・Reduce、再利用・Reuse、再生・Recycle)」を基本にし、そこに技術革新などを通じて資源循環を促すことで新たな価値を生むことを目指す経済活動にするといことをいいます。

シンプルに言えば、これまで「廃棄物」とされていたものを「資源」にして、廃棄を出さない経済循環の仕組みするということです。言い方を選ばなければ、この仕組みやルールで大きな利益循環を産み出そうとする政策です。これをオランダ政府ではサーキュラーエコノミーを「Linear Econony(直線型経済)」だけではなく、リサイクルを中心とする「Reuse Economy(リユース経済)」とも明確に区別しているといいます。

こうなったのもつまり、人口も増え消費がかさみもはや資源の量が追いつかないということです。持続不可能なエコノミーではなく、持続可能なエコノミーに換えないとほとんどの企業が倒産もしくは廃業することになり人類も滅ぶかもしれないという予測からです。

今の物質的に豊かな状態を維持しながら、それをできるだけ維持するためにテクノロジーを活用しうまく回していこうというものです。具体的な方法論としては、国際的なサーキュラーエコノミー推進機関でもあるエレン・マッカーサー財団というところがサーキュラーエコノミーの3原則というものを設定しました。

一つ目は、自然のシステムの再生(Regenerate natural systems)。これは有限な資源ストックを制御し、再生可能な資源フローの中で収支を合わせることにより、自然資本を保存・増加させる。二つ目は製品と原料材を捨てずに使い続ける(Keep products and materials in use)。これは技術面、生物面の両方において製品や部品、素材を常に最大限に利用可能な範囲で循環させることで資源からの生産を最適化する。そして三つ目、ゴミ・汚染を出さない設計(Design out waste and pollution)。これは負の外部性を明らかにし、排除する設計にすることによってシステムの効率性を高める。としています。

自然資本をできるだけ保存し増やしながら、物を捨てず長持ちする仕組みをつくり、ゴミが発生することがないようにモノづくりをするということです。

基本的には、全部当たり前のことですがもはやこれができない状態の経済社会にしてしまっているということが現実なのでしょう。古の先人たちが当たり前にしてきたことは今では当たり前ではなくなっています。今の時代にタイムスリップしてきたらどう思うでしょうか。

ありあまる物や豊かさに溢れたこの時代、多すぎていらないから捨てています。そしてあるとき、途端にすべてがなくなってしまいます。まさかと思いますが、気候変動というのはそういうリスクがあるものでこれは太古の昔から何度も発生してきたことなのです。

そのリスクに備えるために、この当たり前であった準備をする暮らしを尊んできました。失ってみてはじめてわかる本当の有難さみたいなものです。

子どもたちのためにも、本来の足るを知る暮らし、あるものを活かす満ち足りた生活、暮らしフルネスの実践でこれから訪れるであろう本物の危機に備えていきたいと思います。

子どもたちの未来に向けて

最近、カーボンニュートラルートラルや脱炭素社会という言葉をよく聞くと思います。これは地球温暖化の原因となる温室効果ガスの排出量を実質ゼロにしようとすることやその社会のことをいいます。

産業革命以降、40%も上昇した二酸化炭素の排出量があり地球温暖化が進んでいます。先進国が優先して取り組んだ京都議定書から発展途上国も参加したパリ協定、それをもってしても温暖化を止めることにはならない計算です。

なので5年ごとに、見直しをかけるとし昨年、日本からは「2050年を目途に、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする」という脱炭素社会への所信表明をしています。

具体的には二酸化炭素だけでなくメタンや一酸化炭素など、温室効果ガス全体の排出をゼロにするという内容でした。そこでカーボンニュートラルという言葉が出ます。このニュートラルというのは、CO2の排出量と吸収量を相殺してゼロにするものです。つまり「CO2実質ゼロ」だとここからいいます。

出したものを差し引きするという考え方です。余談ですが、先日お酒を飲んでいたときにお酒の量と同じ量のお水を飲めば血管や心臓に負担をかけないからいいと医者に言われた話がありました。プラスマイナスゼロのゼロが実質ゼロということでしょう。このカーボンニュートラルは、温室効果ガスの吸収、および除去量を排出量から差し引いた合計をゼロにすることで温室効果ガスの排出を実質的にゼロにする仕組みです。

また排出・廃棄物を最小限に抑えつつ資源を有効活用する循環型社会「ゼロエミッション」という言葉も誕生しました。この「ゼロエミッション」は産業活動から発生するものをゼロに近いものにするために最大限資源の有効活用を目指す理念のことをいいます。つまり、完全に循環して無駄が生まれない、日本では江戸時代に誕生していた循環型社会を実現しようとするものです。

ちなみにこの「ゼロエミッション(zeroemission)」の語源は、数字の0を表す「zero」と排出を表す「emission」を組み合わせた言葉の造語で排出ゼロ構想ともいわれ1994年に国連大学によって提唱されたものです。

難しく説明しましたが、結局はシンプルに言えば過剰な産業発展で傷んだ地球を思いやるためにそれぞれの国でちゃんと考えて新しい産業構造を構築してくださいという具合です。そこに、新しいゲームルールのようなものを設定しそれぞれで競い合って取り組みましょうというものです。取り組まないものには罰則や罰金などを制裁しますよという感じでしょうか。

世界を変えるという仕組みの一つに、構造全体を換えてしまうためのルールや法規制というものがあります。私は、別の仕組みとして原点回帰というものがあると思っています。本来の原点は何か、本質は何か、真の意味での豊かさや幸福さに気づき実践して変わろうというものです。

世の中は経済が最優先ですから前者を取ります、これも確かに分かりやすく欲望も活かそうという発想です。しかし、それだけでは片手落ちです。私は後者の真の意味でというのが大好きなので暮らしフルネスを提唱するのです。

今、全世界全人類が同じ課題に取り組む必要がでてきた時代でもあります。新しく懐かしい生き方、そして働き方、暮らし方を子どもたちの未来にむけてここから提案していきたいと思います。

修験者

験者という言葉があります。これは修験者の略称で古来験士・修験師ともいわれており、正しくは修法師ともいわれます。秘法を修めており病気平癒、除災得幸等の加持祈祷をなし、功徳利益の霊験(威験)を表す法師のことをいうそうです。

世界大百科事典第二版にはこうあります。

「験者〈げんじゃ〉とも言い,験をあらわす行者や修験者を指す。法華経や密教経典によって加持祈禱を行い,験者声と呼ばれる押しつぶしたような声で,悪霊などを退散させ,治病・除災をした。験者は,諸霊を自由に使役しうる霊力を感得するために,深山幽谷にこもり,山岳を抖擻(とそう)して修行したので,〈山の聖〉とも呼ばれていた。平安時代には,病難・難産は,生霊・死霊・物怪(もののけ)などのしわざと信じられていたので,験者が宮中に招かれて修法を行う機会も多く,その情景が文学作品によく描かれている。」

平安時代には、人々の怨嗟や権力闘争などで恨みをかうことで疫病が流行るなども信じられており陰陽師たちによって加持祈祷が行われていたともいいます。この時代は、急病人がでるのは怨霊、物怪の類と信じられそれを退治する加持祈祷が医療行為そのものでした。

枕草子にも急病人があるので験者を探しやっとのことで加持祈祷ができ治癒した様子なども記されています。他にも宇津保物語には験者による加持祈祷で物怪の調伏させ医師による後、ようやく治療ができたともあるそうです。

現代のような西洋医療で科学療法が当たり前の時代では、ありえないように感じますがこれも伝統的な日本の医療の一つでした。つまり修験者たちというのは、加持祈祷ができ医療技術がありそれによって病気を治癒した人たちであったというのです。

先日、石鎚神社のある宮司さんで修験者の方にお会いした時に今でもこの時代と同様に治療をしている人にお会いしました。多くの方々が、その方に依頼し実際に奇跡的に病気が平癒している話をたくさんお聴きしました。

修験者でも実力がある方はおられ、今でもその不思議な加持祈祷の力添えを使って心身をととのえ平癒させていくのでしょう。

病は気からともいいますが、実際の病気には心と体は常に密接です。科学療法だけでいくら薬を飲ませても、その本人が真摯に向き合って治す気がなかったり、健康であることが分からない状態になっていたりすれば治るものも治りません。

先日、ある有名な精神科医の方にお会いした時も同時といって相手と一体になり、相手の病気を自分に受け容れてそれを自分の身体を使って身代わりになり整えていくという治療が修験者にあったということをお聴きしました。

自他一体の境地で相手を治癒するというのは尋常ではありませんが、山の奥深いところで心身を磨き上げた先達や聖にはそういう不思議な力を持っていた人がいたのかもしれません。

もちろん、数が少ないでしょうから偽物もたくさん増えたでしょう。改めて、日本に古来から医療の歴史や日本人がどのように病気を捉えていたのかもわかり、山伏や修験者たちの役割のようなものも感じます。

現代は、科学的で目に見えるものしか信じなくなりましたが精神的に病む人も増え、コロナなどの伝染病も出て、癌などの病気も次々で発生してきています。そう考えてみたら、かえって時代がこのような加持祈祷を必要としてきたのかもしれません。

改めて、先人たちがどのような智慧で困難や病気を乗り越えてきたのか時間をかけて深めてみたいと思います。