夜祭の原点

先日の秩父夜祭の際に、御旅所にて玉串奉奠をしたあと宮司様にお話をお伺いするご縁がありました。そこで夜祭の起源、そもそも神事は夜に行われていることの意味などをお話いただきました。かつて神代から神事は夜に行われ、次第に人間の都合で昼になってきたということも分かってきました。

以前、鹿児島の上野遺跡にお伺いした時にお祭りの原型のような遺跡を見たことがあります。そこには、ずっと昔の先祖たちが桜島を正面にして少し小高い場所の真ん中で火を熾しその周囲には様々な供物を捧げる土器や壷、その周りでみんなで一緒に火を囲み食事をして楽しく踊っている様子が遺っていました。

これは私の想像ですが、火山の噴火する火を観ながらその大地の地熱によって作物が育てられ、水が天から降ってくることに由って生き物たちが潤い、月や星々、その暗闇によっていのちが育まれていることを知っていたその当時の人々は、自然に今の大地があることは祖先の人々の丹精によってあることを自覚し、感謝してきたことから祭りがはじまっているのではないかと思うのです。

あらゆる自然の御蔭様、そして祖先の人々の御蔭様、そういうものに対してみんなで一緒に祝おうという真心から神事とお祭りが実践されてきたように思います。

今は、西洋から個人主義の価値観が入り込み教育によって歪んだ個人主義が広がっていてあまり神事の意味もお祭りの価値も伝わらなくなっていきますが神事や御祭りを体験すると日本人の心にはその原点、故郷が息づいていますから原点を思い出すのです。

何の御蔭様によって私たちがあるか、闇夜の中で瞑想しつつ火を灯し、心中に平和をつくり、自分自身の精神や魂を見つめ、対話し、その原点に回帰するならば私たちは先祖からの真心や生き方と結ばれ穢れを祓い清め浄化していくことができるように思います。

日々に昼の明々としているところ、夜にも電気がついて明々とした中で生活していたら次第に穢れが増していくものです。夜の静けさ、闇のぬくもりの中でこそ祓いができますからいつまでも神事は子どもたちの心を守るために存在させていかなければならないと感じます。

囲炉裏の火を囲み、円になって闇のぬくもりを感じながら心の声を聴く。ここに私の聴福人の極意もあります。

引き続き、温故知新して今の時代の祭りを復古創新したいと思います。

  1. コメント

    昼間のように全体が照らされていると、意識は分散されなかなか集中できませんが、「暗闇のなかで火を焚く」と、そこに特別な「場」ができます。また、夜は、生活を止め、活動を止め、会話を止めますから、昼間の雑な人間の波動を整えることができます。そうして、神様をお迎えし、声を聞くことができる環境をつくり出しているのではないでしょうか。日頃から、そういう時間を持つ必要があるかもしれません。

  2. コメント

    御神幸行列の際、御神輿を担ぐ声が響き鳳凰が光を放ち、真っ直ぐにその姿を見ていたからこそとても厳かな雰囲気を感じていました。聴福庵でも明かりを灯しじっと眺めていると、それだけで心が鎮まります。落ち着いた中で振り返り、味わう。日々の中でもそういった時間を少しでも設けたいと思います。

  3. コメント

    神事や祭りのカタチを受け継いでいくことはもちろん大事ですが、果たしてそれを行う側の人間の心の方がどうなのだろうかと考えさせられます。一番肝心なものが異なっていては本質は守れないように思いますが、それに気づかせていただけるのもまたカタチがあるからなのかもしれません。土台から見直していきたいと思います。

  4. コメント

    太陽と月と神事で過ごす暮らしでは、見える世界、感じる世界は全く異なるのだと、夜祭で感じました。それは、信じているものが違うからです。暦が違い、習慣も、文化も何もかもが、未体験でした。まだまだ、大前提に分からないこと、体験した事がない世界があることに気づき、ワクワクしています。ひとつひとつ、飛び込んで行きたいと思います。

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