本物の佇まい

本物には本物だけが持つ佇まいというものがあります。例えば、自然物でそのいのちが壊れないように丁寧に丹精を籠めたものはそれを手に持つと独特の佇まいが出てきます。他にも、神社仏閣であっても古来からの技術や祭祀をそのままに守り徹底して厳修されているものにもまた独自の佇まいが出てきます。

この本物が持つ佇まいとは何かということです。

例えば物事には本質というものがあります。何のためにそれをするのか、なんでそうなるのかということを透徹するまで磨き上げその本質に辿り着くとします。それを守るためにありとあらゆる手間暇と真心を込めていくと自然にあったかのような雰囲気が出てきます。そこに人工的なものがなく、まるで自然のものになるのです。言い換えるのなら無心であるそのものが顕れます。

こういうものは我が入っておらず本質そのものになっています。本物というものはこういう佇まいを放つのです。つまりは本質や本物には人間の我や慾をどれだけそぎ落とされたものであるか、どれだけ純粋であるかということと同じであるのです。

人は知識を持てば、その知識によってある程度のところを狙っては妥協していくものです。もしくは自分のことを中心にその知識や認識で考えているうちに自然から遠ざかってしまうものです。自然とは何かすらわからない状態では、本物が何かも分からないのです。

自然物というものは誰がつくったのか、それは自然にできたものです。誰かがではなく、自然の御蔭で出来上がっているのです。そういう御蔭様をもって自然に本物は顕現します。

自然の力を引き出すのも、自分の持ち味を引き出すのも、その中心には何のためという本質に由ることが本物であることです。本物の佇まいとはつまり自然体であるということです。

引き続き、自然と本物を深めて近づいていきたいと思います。

  1. コメント

    貝を磨きはじめまだ数日ですがふと気づいたことがあります。それは明らかに白光りしはじめ、柱を磨き木目がはっきり浮き出てくるようで、貝が海を漂う中で纏ったもの磨くことで本来持つ色を放っているのかなと感じています。引き続き磨き、これは一体どういうことか探り、自分自身の言動でも不自然だと感じたところは一つ一つ直していきたいと思います。

  2. コメント

    「本物」には、本物独特の波動があります。これは、「場としての環境」と同じ働きをして、使う人の心を整えていきます。ときには「威厳」を持ち、ときにはその「品格」で圧倒し、ときには深い「思いやり」で、使う人を魅了します。それは、その造り手が、自然と一体となった状態でいのちを吹き込んでいるからでしょう。やはり、どんなものを使っているか?!どんなものに囲まれて暮らしているか?!ということが「環境」として大事になるのではないでしょうか。

  3. コメント

    一年前よりも、聴福庵や秩父夜祭などの体験を通して、より「本物」というものが何であるかを体験から感じられる機会をいただいているように思います。自分たちが目指しているもの、行っているものを、大本は同じことなのだと思えば、そこからどう繋げていくかが大事だと感じています。そのためにも、自分自身を本物に近づけていきたいと思います。

  4. コメント

    砥石も天然の砥石には佇まいがあります。しかし、その佇まいも、周りが不自然だったり、扱う人が不自然では、その佇まいが引き出されないような感じがあります。包丁や砥石も、大事にされていないとなまくらになっていくような気がするのです。本物との関係性が「本質」であるかどうか、そこに自分の改善点や反省点があるように感じます。粗雑さは個性ですが、曲げることは出来なくても磨くことは出来るのではないかと思います。本物との関係性から学びを深めていきたいと思います。

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