信仰の原点

物が溢れあらあゆるものが人間の思い通りになる世の中に入ってくると精神的な豊かさよりも物質的な科学的な贅沢の方が価値があるように変化してくるものです。昔は、まだ物がなく人間の思い通りではなかった時代はみんなあるものを上手に活かしたとえ思い通りにならなくても発想を転換したり、自分たちのものの見方を転換したりして目に見えない部分の豊かさを味わい生活を工夫していました。

今では宇宙にロケットでいける時代、遺伝子操作からAI、バーチャルリアリティとさらに物質的に人間が思い通りにできるように科学のみを発展させています。それはそれで恩恵があるのですがあ、その分今度は非科学的なものを否定して精神的な豊かさの方を排除する気風が出てきました。

少しでも目に見えない世界のことを語ると宗教やオカルトっぽいなどと言われ、気持ち悪がられたりするものです。しかし、この世の中は実際の科学でもまだ証明されていない目に見えない不思議なものに溢れています。宇宙をはじめ、生命や、自然のことなど感覚でしか感じられないものもまだまだたくさんあるのです。

かつてのご先祖様たちは、暮らしの中で自分の思い通りにならないことを悪いこととは思っていませんでした。そこには深い信仰があったように思います。

つまり自分が存在しているという原点があることをいつも忘れていなかったのです。いくら人間の思い通りになると信じてみても、水も空気も作り出すことはできません。この世の中のあらゆるものが私たちを存在させてくれていることを忘れてしまえば、人間はごう慢になって信仰もまた廃れてしまいます。

如何に信仰の原点を磨くか、それはその人たちの生き方に懸ってきます。同じものを見ても何を観て生きていくか、どんな時代になって環境が変わっても何を信じて生きていくか、そこに存在の原点があるかないかはその後の進路を大きく変えてしまうように思います。

人類は今、岐路に立たされています。

改めて自分の志が向かおうとしていることを再認識し、学び直しを大切に取り組んでいきたいと思います。

  1. コメント

    自分の存在の原点を知ること、自分が存在することの大前提を見失わないことが、やはり大事だと思います。その認識によって見えてくる世界がまったく違います。人は、自分の信じる世界を生き、その信じる未来をつくり出します。そういう意味からも、自惚れて根本の認識を見失わないようにしなければなりません。

  2. コメント

    古今東西で語られてきた「人間とは何か」につながる思いがします。そして、さをり織りの考え方の一つに「機械と人間の違いを考えよう」があります。織ることよりも、織りを通して求めているものがあるから自分は織っているのかもしれないと感じます。時代も環境も昔とは変わっていますが、暮らしの中で先人が見つめていたものに近づけるよう、暮らしの実践から物事を深めていきたいと思います。

  3. コメント

    物質的な豊かさへの執着はもともとあまりない性質だと思っていますが、だからと言って精神的な豊かさを大事にしているかどうかはまた別物なのだと思います。「信仰」という言葉自体が使い古され手垢が付きすぎているため、それを新鮮にあるがままに受け取るにはまだまだ生き方や暮らし方の実践を積んでいく必要がありそうです。

  4. コメント

    窮地に陥ったときや体験したこともないあたらな取り組みや、新たな年、そういった未知のことには手を合わせたり願掛けに伺ったりとありますが、確かに自分の思い通りになる状態を作り出すと途端に「お陰様」を忘れるように思います。そこには欲がある、欲がないではなく、自分以外の存在によって成り立っている事実から考えることを辞めるという事なのだと感じます。謙虚さを忘れる自分がいることを自覚して歩みたいと思います。

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