風土と暮らし

昨日から京都の鞍馬寺に来ています。少しずつお山が秋の気配に色づきはじめて空の秋風の透き通った青さと流れる雲の白さ、そして緑が合わさって水がキラキラ輝いてみえます。

自然というものは、その風土の中で一体となって一緒に存在しているため小さな変化は全体の変化を促していきます。いのちが輝くというのは、その偉大な存在の中にあってすべての生命が一緒に生きている中でこそ燦然と輝きます。

もしもこれが人工的にバラバラになったのなら、それぞれが輝くことはありません。生き物がイキイキといのちを働かせてハタラクには、風土の存在が欠かせないのです。その風土の存在があって私たちは存在することができますから、常にいのちは風土と一体になっているということを忘れてはいけません。

循環という言葉があります。

これはいのちがめぐり、様々なものが有機的につながり存在していることを顕していますがその本質は共に生きるという共生のことを意味します。一緒に生きているからこそ、お互いの存在を思いやり尊重して生きていくこと。それが循環の意味です。現代では、部分だけを見てはバラバラにし、部分だけを排除しようなどとしますが万物はすべて共生していますから一つだけを除いたらすぐに全体の何かがバラバラになっていくものです。

存在の原点を忘れてバラバラになるということは、一緒に生きるのをやめるということでもあります。豊かで瑞々しい風土の中で、共に仲間と生きていけばみんなニコニコと仕合せに楽しく生きることができます。その反対に、自分さえよければいいと風土から離れ自分勝手に孤立して生きていけば誰とも分かち合えません。

だからこそ「自分」というものを決して勘違いしてはなりません。自分しか知らない傲慢な自分ではなく、謙虚にみんなと一緒に生き活かされる「自分というものの存在」を静かに見つめ直す必要があるのです。

一つの風土をそれぞれが生きる主人公としてみんなで分かち合うというのは、いただいている恩恵に感謝しみんなで一緒に生きていく自然の姿、みんなのいのちが輝く姿です。

子どもたちもこのいのちの原点に魂が触れることによって、自分がどの風土に生まれ一緒に生きていくのかを確認します。その根のつながり、いのちの原点が感じにくくなっている現代の環境において、その後大人になった人たちが本当の自分を見失っていることが増えているように私は感じます。

風土と暮らしがなくなることは、自分らしさがなくなることです。

人類の未来の子どもたちのためにもこの美しい風土が育てた本物の環境を三つ子の魂百までに触れてもらい、そのうぶな心に真相を伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    「重々無尽の縁起」という考え方からすると、万物は皆お互い支え合って存在しているのであり、独孤存在しているものはありません。「繋がっている」というのは、お互いが「包み込み合っている」ということでもあるでしょう。「放っておいてくれ」という人でさえ、すべてのものに包み込まれて存在しているということを知っておかなければなりません。

  2. コメント

    それぞれの街の雰囲気は一人ひとりが作っているのだと感じます。その土地が持つ環境や風土が相まって、その土地らしい人になっていくのだと思います。ただ最近はどこへ行っても似たようなところが多く、画一的な感じもあり、街の変化は教育にも現れるのだと感じます。昔から言われるその土地の言い伝えや偉人など、自分の住む街に誇りを持てるよう学んでいきたいと思います。

  3. コメント

    自分のいのちの輝きではなく、家族全体や会社全体、社会全体のいのちを見ようとしているか、輝きを見ようとしているか。それを思うと、この数年は随分と自分の暮らしや目線が変わった事を実感します。週末の使い方や過ごし方も、軸足が自分ではなく、家族になっていく事の楽しみが増えてきました。昔は無いと感じていたものが、あると感じられるのが軸足によるものだと体感出来たのは、人生に於いて有り難い体験です。まだまだ軸足がぶれることはありますが、体験を積み重ね、みんなのいのち輝く体幹を鍛えていきたいと思います。

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