人生の鉱夫~着宝~

先日、人生の鉱夫のことを紹介しましたがなんでも掘っていくうちに発掘できる喜びに出会うものです。掘り下げていくことは、今まで観えなかった世界に出会う喜びであり、今まで知らなかった自分の心に出会う旅でもあります。遠くにいかなくても、今いるところを掘っていけばそこに自分の運命や天命、宿命があることに気づいていきます。

そしてそのすべてを受け容れ認めるとき、「ああ、そうだったのか」と自分自身の持って生まれた才能や自分の興味がある本質に気づき仕合せな気持ちになるのです。

掘り下げている最中は、ほとんどが泥や砂ばかりです。しかしいつの日か、宝石に出会えると信じて掘っているのならその掘り下げる最中は仕合せな時間でもあります。すぐに人は、掘っても何もないではないかと文句を言ったり、悲観的にこれだけ掘ってもでないではないかと結果主義を突き付けて早々に諦めたり他人を批評したりしますが「掘っている最中こそが本来の仕合せ」であり、いつか掘り当てるかもしれない自分にしかない宝石に出会えるかもしれないと「希望を持って歩んでいく人生」こそが「自分を磨き自分を宝石にしていく」のです。

ちょうど、聴福庵の前には炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門の旧邸宅があります。この伊藤伝右衛門は、皆が途中で掘るのを諦めてしまうような岩盤の大きなところを自ら選びそこを掘り下げていった人物です。あと少し掘ればいいところを、最後の壁にぶち当たってみんなやめてしまいます。しかしその最後の分厚い岩盤の中にこそ人生のロマンがあり、自分の人生全てを懸けてその岩盤を掘りぬくことで良質な石炭、黒ダイヤモンドに辿り着いて成功した人物だったのです。それを炭鉱夫の言葉で「着炭」といいますが、今の時代ならこれを「着宝」といってもいいかもしれません。

人間は、自分の才能や能力を誰かの役に立てようとします。しかし泥や砂、石ばかりがゴロゴロ転がっている暗闇を掘り進めることは本当に精神力がいることです。ほぼ宝などないと感じる最中かもしれません。しかしその最中こそが、自分を磨いて光らせていると信じていけば、必ず自分が光り輝く宝に変化していきます。

もしもそうなるのなら宝は出なくても、宝になっているはずです。

掘り下げていく人生というのは、自分を磨く人生のことです。このブログも、日々の実践もすべて掘り下げてはじめて自分を磨けます。意味を深めたりご縁を大切にしたり、出会う人の幸福や目の前の人の仕合せのために自分を使っていくことこそが磨かれて光るプロセスです。

引き続き、人生の鉱夫との出会いを通して現代の磨きの黒ダイヤモンドを掘り当ててみたいと思います。ご縁に感謝しながら、永遠の子どもたちのために精進していきたいと思います。

 

  1. コメント

    自分が信じてやっていることが上手くいかないとき、人は試されます。「そこでやめるのか?!」それとも、「それでも続けるのか?!」ということです。そこでやめてしまう人は、結局、信じていなかったことになります。「それでも信じよう!」と立ち向かうと、そこから本当の挑戦が始まります。そして、その挑戦には、ご褒美がついていることが多いようです。

  2. コメント

    炭鉱王とだけ聞くとそこに目がいってしまいますが、炭鉱王となるまでの生き様を知るとより格好良さを感じます。砂や泥ばかりを見ていたら、嫌にもなりそうですし自分自身も諦めそうになります。それでも突き動かす動機が必ずあったと思うと、本当の宝はそこではないかとさえ感じます。昨日よりも今日少しでも前進していけるよう精進していきたいと思います。

  3. コメント

    今踏み込むのをやめ、深掘るのをやめてしまえば、ずっと変わらないまま、すぐ下には真理があるかもしれませんし、自分をお役に立てる機会があるかもしれません。そして、例えなくとも、踏み込むのをやめず、深掘るのをやめなければ、その体験自体が意味を持つかもしれません。また、掘り出したものが例え自分にとっては価値を感じないものでも、世間様からは価値を感じていただけるものかもしれません。自分自身がプロセスに価値を感じていくことを大切にして行きたいと思います。

  4. コメント

    上へいくほどよい金属の鉱石がある大きな絶壁を前にして、大半の人は立派な鉱石を求め一段でも上の梯子段へ登ろうとあがく。しかし大切なのは上の方ばかりにつけていた眼の向きを変えて、真っ直ぐわが眼前の鉱石の層に向かって一つの坑道を切り開いていくこと。と、ある方が仰っていた言葉を思い出します。伊藤伝右衛門とのご縁もまた意義深いことと捉え、生き方そして人生に活かしていきたいと思います。

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