オタクの本質

先日、日本の保育を学び直そうと集まった若い保育者たちとオタクの話で盛り上がりました。このオタクも年々イメージが変わってきていて、この言葉が出てきたことのオタクと現代のオタクでは言葉の意味も使われ方も変わってきています。私もすぐに深めては入り込んでいくタイプですからオタクだといわれることもあります。では、そもそもオタクとは何か、ここを深めてみたいと思います。

「オタク」というのは本来の語義と同様、「あなた」「きみ」という二人称としてある種の人々の間で使われていた言葉から生まれました。相手の名前を呼ばずに「お宅は、」と互いに話しかけるところからオタクという言葉が発生したといいます。

コミュニケーションが苦手な人たちが一定の距離をもって互いに呼び合っていた名称が、その人たちの様子で「自分の殻に閉じこもる人」「人とうまくコミュニケーションがとれない人」という意味になってきました。それが時代の変化とともに「2次元の世界(アニメなど)に没頭するような傾向の趣味を持った人」などという具合にイメージも変わってきました。そのうちアニメだけではなく「一風変わった趣味を持つ人」や「こだわりの趣味を持つ人」となったといいます。そういう人には、「私は○○オタクです」と自己紹介したり、「あの人は○○オタク」と紹介したりするようになりました。

今ではほとんど「オタク文化」と呼ばれ、日本的サブカルチャーとして認知され世界にも発信され人気が出ています。このサブカルチャーの意味は、メインンカルチャーではないものがサブカルチャーです。略してサブカルとも呼ばれます。例えば日本のメインカルチャーは、歌舞伎や浮世絵、日本画、生け花とかの伝統文化のことを指し
サブカルチャーは最近になって認められてきた大衆文化で映画とかアニメとかゲームとかテレビ番組とかJ-POPなどを指します。

現在では、メインカルチャー自体が消失してきたのでもはやメインがサブカルになり、サブカルがメインにとってかわるようになってきています。

話をそろそろオタクとは何かに移しますが、私が思うオタクの本質はその「熱中」にあるように思います。人間は誰にしろ自分にとって熱中するものがあります。その熱中するものをとことん熱中しきればそれはオタクの領域に入ります。

オタクの人たちが熱意をもって深めている話に触れるとそこには大きな情熱を感じます。何かに夢中になって情熱を傾けることは人の感情や心を揺さぶります。人間はみんなそれぞれに生まれてきた使命がありそれぞれに熱中するものに出会える可能性を秘めています。

その熱中するものに出会えることは幸運なことであり、自分が夢中になって熱中できるものに情熱を傾けられるのは生きる仕合せでもあります。それが社会に必要不必要で差別されたりもしますが、人間は使い方次第で社会に有用に活かすことができます。

あらゆる文化が和合し、オタクは進化を遂げていきます。

子どもたちがオタクという偏見で可能性をなくさないように、熱中することの大切さや夢中になることの意義を背中で伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    その人の新たな一面を知り、自分の知らない世界に触れられると新鮮な気持ちが湧いてきます。何かを進める上でお互いのいいところや、好きなものを知ることで時間は掛かっても、更に大きなものが得られるように感じます。プレゼンし合って、質問し合うというのもかつての日本の学び舎で行われていたことなのかもしれません。それぞれに熱中するものをこれから知っていける楽しみがまた一つ増えました。自分自身も更に学び深めていきたいと思います。

  2. コメント

    世の中が「多様化」してきて、「オタク」というものの見方が変わってきました。最近では、「専門家」的な扱いを受けることもあり、オープンになってもきています。考えてみると、誰もがある意味「オタク」の要素を持っています。その「自分の魂が魅かれるもの」に堂々と熱中できるということは、持ち味の発揮であり、豊かさのひとつの現れと言えるのではないでしょうか。

  3. コメント

    以前、営業販売をしていた頃、商品に対して「タク付け」をするという表現を仲間内では行っていました。買ってみたくなる、使ってみたくなる、食べてみたくなるというように「~したくなる」のタクを付ける訳ですが、今思うとこのタクも似たようなところがあるように思えます。いわゆるオタクと言われる人のそのものに対する姿勢は、周囲の人を~たくさせる力があるのかもしれません。

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