情報リテラシー2

埼玉県でメディアを使った研究会があった。
この研究会は毎年恒例で、全国の様々な箇所で開催されているそうだ。

主には小学校や研究機関、NHKはじめ放送局各社が主体でセミナー形式でやっている。その分科会の一つには幼稚園保育園からも参加してその取り組みについて発表をすることになっている。今回は、その実践発表の園の先生のフォローでお手伝いすることになった。

午前中の園見学では、今の時代にあわせた取り組みと環境などを説明。
午後からはパワーポイントを使った、その取り組みの詳細発表。
そして基調講演という感じで進行する。

私がお手伝いしたのは如何にメディアリテラシーを考慮に入れた園の経営や保育を実践しているかについて発表される園長の行ってきた実践裏付けを説明することだった。

通常今までの研究会では「メディア=ITを使った合理化省略化、広報の一部」などと定義された発表だったそうだが今回は「メディア=情報リテラシー」として発表を行っていた。園長の実践報告も高い問題意識から切り込み非常に分かりやすく斬新だった。参加者の皆さんもとても真剣に話しに聞き入っていた。

本当はこのように変化している姿をより研究することがもっとも大事なのではと思った研究会であった。つまりそれは情報=ITが生み出す変化の視点からそれの「在り方」をどう学ぶのかというのが研修の本質であるべきだと私は思う。

 
『学びて思わざればくらし、思いて学ばざればあやうし』

論語にある「本当の意味を常に学ぶ」という学が問われている気がする。

ほかの分科会では、「遠隔のテレビ会議で秋を感じよう」などいろいろあったがなぜそれをわざわざIT技術で獲得する必要があるのかとどのタイトルテーマを拝見してもなんだか疑問ばかりの内容だった。

「情報=インフォメーションテクノロジー」というのは、時代背景、大衆相手や風潮にあわせて変わっていくものだと私は思う。その変わったものをどう受け取ることができるかを学びあうためにその方法論としてパソコンやツールが”たまたま”あるのではと思う。

日本人はすぐにアメリカからやってきた流行の単語を自分勝手に定義しやれITではなくICTだの、専門の学者は研究してもっともらしくそれを今までと同じように高い教壇から一斉に「教える」が、基本的にはICTなんていうのはそうやって教えて学ぶということがすでにズレテイル気がする。

【I】情報【T】技術に【C】コミュニケーションを入れたのは、それだけ多様化してきた言葉の氾濫をどうそれぞれで見分け使いこなし、双方向で定義するのかということを【C】を間に入れて証明しているだけだと私は思う。

ここでも情報の「在り方」を時代の変化にあわせてITという単語の定義が収まらなくなったのでただ単に変化させた証明なのだろう。

基本的には哲学ともいうべきその土台の部分をどう深く検証するかということが大事なのに、企業側もよく流行にあわせたその機能満載の商品で小学校に堂々とシステムを販売することができるなと思ってしまう。

それを見ていると道徳教育は子どもたちだけで本当によいのか?とこれにも疑問に思う。

この業界の悪循環は、いい加減な業者が判りもしないのに学者の意見に従い、みんながそうだからそうだと子どもたちにその根幹の本質をしっかりと身につけてもらうための商材を開発するわけでもなく、安易にそれができますよといった程度の低い勝ち負け理論が優先されているのではないか?

一体これだけの変化の時代にどこを見て商品開発をしているのだろうと思ってしまう。
私が尊敬している本田宗一郎氏や藤澤武夫氏などは最先端の流行に踊らされず最初から時代や世界の本質を軸に物事を観ていたように思う。
本当はそんな事業家や経営者が、手本になって子どもたちの未来への夢を膨らませて育ませていくのだろうと思う。

もちろん全部が全部ではないのだが、情報リテラシー教育やICTはむしろ国家戦略の中心軸に関係する大事なことだと私は思う。このような大事なことを業者や学者にだけでやらせてはいけないと思う。もっと国が主導で国境なきこれからの情報革命において個としての在り方を説いて行くべきだと私は思う。

今の子どもたちは、メールも携帯も対人関係も手紙も、もっと今のニンゲンとしてこれからの情報の在り方とそれを補うツールとどう向き合うかを大人が目をそらさず一緒に真摯に学んでいくべきだと思う。

分からないからとただ目を背けさせたって、いつかは自分たちでそれに向き合う時が必ず来る。

以前ある国でこんな話しを聞いたことがある。
そこでは、「先生」という名の単語を教育界から禁止にしたそうだ。
先生はどの国でも「答えを先に知っている人」という定義がされている。
でも答えなんてまだ解明されていないものが多いし、これからの情報化社会では常にそれは生きる力の上で成長の障害になっていくことが予想される。
だからその単語をやめ「答えまで導ける人」という新たな単語で呼ばせているそうだ。

これも時代にあわせた情報リテラシーではないのか?

では、分からないから他人任せでいいのか?誰かがやるまで先延ばしでもいいのか?
分からないから取り組まないというのは今の時代では諦め以上に悪い状況を創り出してしまうかもしれない。

日本という国は、世界をもっと見て今の情報がどのように世界を変えていくのかをもっと子どもたちと一緒にディスカッションする風土を提供していくことの方が重要ではないのかと私は思う。

それだけでもどの国にもないわが国の立派な情報リテラシー教育になると思う。

今あるツールは、1年で使い物にならなくなるほどのマウスイヤーだと言われる。

だったらそれを勉強させることをやめ、それが何なのかを分かるような人間が学ぶべき部分にシフトして欲しいと心底願うものだ。

  1. コメント

    答えを知る何かを探して、安易に答えを求めて、意味を感じようとすることではなく、
    解決だけを自分ではなく何か他のものに委ねてしまう。これでは自分の成長という
    よりも、ただ何かの中から選択をしただけであり、自分で決めたということではない
    という様に思いました。別のものから見つけた答えではそれはすぐに使えなくなる
    ものであり、本当に自分にとって必要なものとは言い難い。自分で見つけて、自分で
    決断するからこそ、本当自分のためのものであるのだと思います。

  2. コメント

    学ぶという事について考えさせられます。ただ答えを知るという事ではなく、やはりもっと知りたいという探究心というか気持ちがとても大事ではないかと感じます。しかし残念ながら今の子どもたちは昔以上に人として大切な感情や思いや気持ちを味わう事がなく成長しているのだと思います。私たち自身が学ぶという事であったり、教えるという事の、今の時代にあった意味をしっかりと見出す事が大事ではないかと思います。

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