菊友

重陽の節句のことが続いていますが、ここで少し菊のことも書いてみたいと思います。私たち日本人は、菊の花はとても馴染みが深く、和菓子をはじめ皇室などでも使われ、パスポートなどにも入っています。よく考えてみると、なぜ菊は日本人の心をつかむのか、その理由は歴史にあるのは明らかです。

菊は、中国原産で平安時代ころより薬草や観賞用として日本に入ってきたといいます。そこからちょうど重陽の節句もはじまるのですが、そのころから古今和歌集などでもよく詠まれるようになり菊が日本人に愛でられ品種も改良されていき日本独特の進化を遂げていきます。

また菊の栽培が盛んになったのは、ちょうど稲の栽培のサイクルと似ており冬に芽をとり、春に植え、夏に成長させ、秋に観賞するからとも言われます。

菊は、その高貴さや高尚さ、上品な香り、そして凛として枯れにくいことから邪気を払う効果があると信じられてきました。

もともと、薬草としても効能が高く鎮痛・鎮静・消炎・血圧低下・抗菌・解熱作用、そして咳や眩暈、冷え性、不眠症、発熱、頭痛、高血圧、目の充血といった症状に効果があります。

これが菊の御紋という紋様になり、その後の日本のシンボル的な花になっていくのは後鳥羽上皇が深く関係しています。鎌倉時代の初め、後鳥羽上皇が菊の花の意匠を大変好み「菊紋」を皇室の家紋とします。そして後鳥羽上皇は刀づくりなども自ら手掛けるほどで後鳥羽上皇のうった刀の証として菊紋を入れたといいます。

後鳥羽上皇は鎌倉幕府を取りしきる北条氏の打倒を計画し自分に味方する者たちに刀を贈り、官兵の記章として用いるのにこれを用います。また同時に武家の者たちが家紋を作って家臣たちに与え、それを象徴として党派を形勢する時代でもあったので菊の家紋は多くの人たちが使うようになりました。徴として菊の紋が用いられ、その後、皇室の御紋章として定着していくことになります。

しかし承久の乱をおこしますがここで幕府に敗れ倒幕は実現せず隠岐の島に配流されてしまいます。その後、長い歴史の中で武士と朝廷は争い続けましたが、江戸時代の末期に倒幕の象徴に菊の御紋を掲げられ朝廷の世の中に換わったとしこの目的が達せられます。そして徳川の世が終わったことを指し、「菊は咲く咲く、葵は枯れる」という流行歌も人々の間では流行ったといいます。その後は、皇室の象徴として菊の御紋は日本の象徴として人々に印象付けられていきました。

この菊の花に秘められた歴史は、私たちの長い間続いてきた武士と天皇、もっとむかしの国津神、天津神の神話の代からの関係性が深く関わっているのです。不思議な花であるとともに、折り重なる花びらに歴史の重みも感じました。

私たちは身近な花や植物のことをみるとき、歴史のことはあまり考えません。しかしこれだけ長い間、私達と共に暮らしてきたこの花も共に生き、歴史を共有しているのです。

関心をもって身近な存在に目を向けることで、歴史やロマンを感じます。子どもたちにもこの身近な暮らしの存在の意味を伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    鳥羽伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」の威力は凄かったようですが、このように「家紋」としてとり入れられる他、先人たちは様々なかたちで「自然」を暮らしにとり入れる工夫を重ねてくれています。このような象徴的な使い方、とり入れ方というのは、とても豊かな発想です。そのものの実用的な使い方、活かし方とは違う「応用・転用という智慧の豊かさ」を見直したいと思います。

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