衣食住の問題

私たち人間が生きていくのに欠かせないものは衣食住だといわれています。確かに、むかしに思いを馳せてみると衣服がないというのは人間にとって大変なことです。寒い冬を乗り越えられず、暑い日差しを遮るものがありません。何とか衣服を産み出していくことで私たちは生活を維持していくことができたのではないかとも思います。

そして食は歴史を見れば明らかで飢饉が来れば食べるものもなく、飢餓で苦しい時代ばかりであったことがわかります。そして家がなければ風雨を凌げず、安心して家族を養っていくこともできません。かつての衣食住とはまさに死と隣り合わせにあったものです。

しかし現代の衣食住はどうなっているかと洞察すると人間にとってその衣食住の意味が変わってきているのがすぐにわかります。日本の衣服の廃棄量は100万トンを超えていて、個々の箪笥の中は着なくなった衣服だらけなのにそれでもつくり続けています。そして食は日本だけで毎年600万トン以上食べきれずに廃棄しています。そして家は850万戸以上の空き家が出ているにも関わらず新築を建て続けています。

衣食住が余りすぎて廃棄する状態になっている中で、生きていく上で必要な衣食住などという問題はなくなっているように思います。ある意味、人間は今まで時代的に困難であったものを大量生産の仕組みと科学技術によってそれを一時的に解決したように思えます。

しかし少し考えてみたらわかりますが、永遠にその材料が取れるわけでもなく一気にある分を取り切ってしまうのですからこの後は材料がなくなります。すると、今までのような自然由来の素材を使ったものを産み出すことはできなくなります。

人工的なものを使って産み出す場合の問題は、自然界に循環しなくなるということです。すると衣食住は、科学技術によって不自然なものが大量に開発されていきます。それによって衣食住の新たな問題は解決するように見えますが、それは今まで豊かであった自然の優しさや柔らかさ、美しさや尊さのようなものが失われたものになっていくように思います。

衣服は、まるで宇宙人の着ているようなものになり、食はゼリー状やカプセル、そして家は無機質で見た目だけカラフルな空間。これが近未来ということでしょう。それは本当に豊かで憧れるのだろうかということです。

実際に人類は、滅びの方へと向かうたびに科学技術が発展していくようにも感じています。これは逆説的な考え方ですが、本来の平和な状態とは限りなく自然に近いところにあります。美しく自然豊かなところで、みんなで分け合いこの地球での生活を楽しむ、そこには厳しい自然もありますがそれよりもこの世で生きている豊かさが優先されていました。

それがまるで病院のベッドの植物人間のようになりながら単に生きながらえるとなれば誰も望んでいません。科学技術は本来、どうあるべきか。私は伝統と最先端のテクノロジーを和合する生き方を目指していますからこの衣食住の問題も避けて通るわけにはいきません。

先人たちはどうやって衣食住をテクノロジーで調和させたか。それは藍染や発酵食品、藁ぶきの民家などありとあらゆるところに参考になるものがまだ残っています。一つ一つを意味付けしながら、子どもたちに確かなものを伝承していきたいと思います。

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