お山の甦生

昨日は、英彦山でお山のお手入れをしてきました。水気が多く、澄んだ風に心身が安らぎます。この霊峰英彦山の味わいは、この風と水にあるというのが私がお山に棲んでみての感想です。

また守静坊はとても静寂です。夜は、鹿の甲高い音と虫たちの音が響き渡ります。朝になれば、鳥たちがさえずり、昼間は風で木々が揺れる音、また柿の実や栗の実が落ちてくる音が聴こえてきます。

このお山がもともと信仰の場であったことは、このお山の安らぎによって実感します。

人は安らぎを求めては、お山に来るのです。そのお山を大切にお手入れすることで、人々は心から救われます。そのお手伝いをするところこそ、お山に棲む人たちの大切な役割だったのではないかと思うのです。

どの時代も、どの世の中も、人々は苦しみや不安、焦燥や悩みをたくさん抱えるものです。時には、その苦労や心配が増えて命を絶つ人もいたでしょう。そういう人たちがどこに救いを求めてきたか、それがお山だったのです。

人がお山に入るのは、救いを求めるためです。その救いの形とは、安らぎであり、安心できる場としての心のふるさとの存在なのです。

ではなぜ、お山にいると心が安らぐのか。それは言葉にするのは難しいのですが、敢えて選べば浄化されるからでしょう。色々な垢や穢れ、他にも染みついたものや背中に乗っているものなどがお掃除されていくからです。お山が引き受けて、吞み込んでくれるからです。

とはいえ、そのお山の存在に気づいて気づかせる存在があることがとても重要なことだと思います。岩をみてもただの岩にしかみえない、お山をみてもただの山にしかみえない、海も、そして滝も物質としてのそれしか感じられないでは気づくことも少ないように思います。

それをちゃんとその存在を丸ごとを感じる人の手と声などによって、人は何かに気づくものです。その橋渡しをする存在こそが、本来の山伏ではなかったか、あるいは宗教者ではないかとも私か勝手に感じています。

私はどこの宗教宗派にも属さず、ただ礼を盡すだけで祈ります。しかしそれぞれの宗派がもっている文化は尊敬していて、信仰の実践には感じるものがあります。

元々の道の元は何だったのか。

これからもそれを突き詰めて、本来のお山の甦生に取り組んでいきたいと思います。

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