心が美味しいと思うもの

言葉というのは不思議なものです。そこには深さというものがあります。例えば、美味しいという言葉一つであってもその深さは計り知れません。人は使っている言葉が同じであっても、使い手の心や思いによって意味が完全に逆転してしまうことがあります。よくよく気を付けないと、勘違いが生まれそのうちその言葉の意味も勘違いして理解してしまう可能性もあるからです。

先ほどの美味しいという言葉でも、見た目が美味しそうな美味しいという意味と、心を籠めて美味しいというものでは言葉も異なるはずです。一般的に現代では、見た目ばかりをよくして舌をあまり重宝せずに目で見て食べるような食べ方をしています。お洒落な店で、美しいデザインのお皿で、綺麗に盛り付けされた清潔なものであれば美味しいと思い込むものです。実際には、機械で大量生産されたものでも見た目重視で購入することがほとんどです。

しかしその逆に、見た目があまりよくなくても心を籠めて一期一会に調理されたものに深い美味しさを感じるものがあります。私たちが使う言葉、感じる言葉には深さがあるということがわかります。思い返してみると、思い出深い美味しいものは心と重なったものです。あの時のあの味というのは、見た目だけ胡麻化したような美味しさではなく、心が美味しいと感じたものでそれは全身全霊で味わったものです。

表面上のもの、深層的なものとあるなかで今の時代は、表面だけを取り繕うものが増えていて頭でそれを認識しては判断して購買しています。そのうち、どういうものが深層のものかも気づきにくくなっていくものです。だからこそ、私たちはこの心の感覚というもの、深い味わい、美味しいものを食べることで元来の心を保ち続ける必要を感じます。

この美味しいものを食べるという行為は、自分の心を保つ実践の一つです。お寺の精進料理もですが、いのちを大切にいただくことで心が離れない仕組みもあるように思います。今のように飽食で廃棄しているような時代、改めて心が美味しいと思うものを食べ続ける修行が必要のように思います。

子孫のためにも、色々と試行錯誤していきたいと思います。

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