暮らしの中の遊行 2

昨日は、英彦山の豊前坊から山国の豊前坊屈まで約25キロを遊行しました。急遽、イタリアの舞台芸術家も飛び入りで参加することになり道中の豊かさが増しました。特に、大雨や強風、そして倒木など悪路のなかの遊行でしたが時折、応援にかけつけてくれた友人やお手伝いしていただける方の御蔭さまで心地よく暮らしを味わっています。

そもそも日本人は元来、暮らしを通してあらゆる芸術を生活文化の域において達していたものです。特定の芸術家がいなくても、人々は暮らしの中でその芸術のすべてを豊かに享受されてきました。例えば、民藝、手仕事などはほとんど芸術品です。あるいは、古民家一つとっても生活の中で如何に豊かに遊んでいたかがわかります。

私たちの美意識というものは、すでに暮らしの中で醸成されており、たとえ厳しい自然や政治的な貧困や戦争があった時であっても、茶道であったり、踊念仏であったり様々な創意工夫を通して暮らしの中の知恵を発揮してきました。

私が取り組んでいるものもまさにこの暮らしの中のものです。暮らしフルネスというものは、そのすべてを暮らしの中で実現させていくということに他なりません。宗教でもなく、哲学でもなく、特別な資格も必要ではなく日々の暮らしの中で自由自在に遊ぶのです。そういう人物のことをむかしは仙人と呼んだのかもしれません。現代の仙人はどこにいるのか、私は暮らしを楽しむ中にこそ存在しているように思います。

遊行というのは、今を味わいつくすものです。これを禅では三昧ともいいます。今を味わいつくすという境地はどこにあるのか、それは日々の暮らしの中にこそ存在します。私が「暮らしの中の」というのは、この今を連続する日々の生死の呼吸の瞬間瞬間にあるということをいいます。そしてその瞬間瞬間のことを遊ぶといいます。子どもたちが、好奇心で遊んでいる姿の中にこそすべてを捨てて天命を生きる歓喜を感じます。

遊行の喜びは、一期一会の喜びということでしょう。

しかし、道を歩んでいくのは一つ一つの執着との正対でもあります。あれやこれやと妄念や妄執もでてきますが歩みを進めていくなかで様々なものがそぎ落とされていくものです。そして、一緒に歩く人たちの清々しさを分かち合うものです。

旅に持っていけるものはほんの少ししかありません。秋の静寂と山粧う景色と枯れた音と侘びた風に心も吹かれます。

徳が循環するのを肌身で三昧しながら、暮らしの中の一生を先人たちと共に伝承していきたいと思います。

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