場の道場

私は徳積循環の経済を甦生するために様々な活動をしています。その中心には「場」があります。この場とは、徳の場のことです。この徳の場というのは、そもそも場には徳が宿るという意味です。そしてこの宿る場には何があるのかといえば「いのち」があるということです。

現代は、いのちが空洞化してすべて物や具になっています。本来は物にも具にもいのちがあります。それを証明する言葉が「道」です。この人の道が失われてきている時代だからこそ、私は徳を再解釈、再定義する必要を感じたのです。

それを暮らしフルネスという思想の実践によって実現しているのが私の場です。しかし現代、この場というものへの認識は非常に希薄であることを感じます。その理由は、その場からもいのちが失われているからです。

そもそも「いのち」というものは何か、そして「徳」というものが何か、これもすんなり理解することが難しくなっています。そしてそれを実践するなかで「こころ」という存在もあります。私たちの日々に過ごす暮らしのなかには本来はこのこころ、いのち、いわゆる徳というものが循環しています。

それを単なる物や具として、いのちが宿らずに空洞化するとき場も単なる場のようなものになります。それを和風のように場風と呼んでもいいかもしれません。

有難いことに、聴福庵をはじめ私が実践する場にくると場を瞬時に感じられる人もいます。そういう人たちは、先ほどのいのちを場に感じています。

私が場の道場で実践するものは、言葉にしていませんが共に暮らしを通して学べる仕組みになっています。この価値は、今の物や具の社会では推し量る評価がまだありません。いのちの価値や徳の価値を一般的にどう量るのか、これは現代の一代限りの私的欲望を追及する歪んだ個人主義のなかでは滑稽にすら思われることです。

しかしそれは本物の「場」に入れば、そうはなりません。それだけ場には全てが宿るのです。単なる宿泊施設でもなく、単なる家でも社屋でもなく、場を感じることが大切なのです。

と、こうやって言葉にしても場は伝えられませんから場に来ていただくしかありません。ご縁に導かれつつ、子孫や場が必要な人たちにいのちや徳の循環を伝承していきたいと思います。

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