情報リテラシー9

最近、ニュースやテレビで何か有名な人が犯罪をおかしたりするケースが増えていてそれを面白がってマスコミが番組を制作しているのをよく見かける。

大衆にあわせてそういう有名人や偉人だと言われている人たちが失墜していくのを面白おかしくやるのは国家を維持する上でそれも人間には必要なのかもしれない。

しかし、悲しいことにどれだけ良いことをしても一つでも悪いことがあれば今までの功績やその人の真剣な人生を馬鹿にするというのはどういうものかと私は思う。

人間は何かが分からなくなってしまって失敗することもある、能力差や個人差、完全な人間などいないのだから組み合わせや運命のめぐりあわせもあるだろう。

だからこそ日々、自分を磨き、自らを修養し、良い師、良い朋と交わりながら天との対話、地での実践、人との約束を守ることはそういう運命のめぐりあわせのなかでも自分を正しく仁の生き方を貫くためには必要なのだろう。

社会は、何かの悪い出来事があっても良い方を観るのか、悪い方を観るのかではその後の社会全体のありようが変わってくる。

良い方を見ていけば、寛容な社会で穏やかで優しいものになる。
そして悪い方を見ていけば、世知辛い社会で堅苦しい厳しいものになる。

以前、私が訪問したオランダでは前者を大事にしていて常に物事の良い方を見ていくようにマスコミもそして大衆も意識して社会を創造する努力をしているように感じた。

社会を構成する大人の姿勢が問われる時代に入っているのだと真摯に思う。

子どもを思うとき、子どもたちはこの今の日本の社会をどのように思うだろうか?

大人は子どもに、「失敗してもいいんだよ」や「またやり直せばいいから」や、「悪いこともやったけど良いことの方が光っているよ」など、言えるだろうか。

そして子どもたちもその大人の言葉に本気に大丈夫だと安心していられる社会であるのだろうか。

それを思うとき、私自身はもちろん失敗すれば何かに巻き込まれればひょっとすると叩かれるかも知れない。すでに営利企業というだけで、あまり良い印象を持ってもらえない方々もいる。

特にこの日本の教育業界というところは、失敗者にとても厳しいように感じる。脱落者のレッテルを一度貼られると、もう二度と立ち上がれないように完膚なきまでに叩きつぶすし嫌な村社会での掟のような暗黙の了解でのいじめのような眼差しさえある。

社会を窮屈で頑なにしているのがもしも私の尊敬している教育界からだとしたら本当に悲しいことだと心から思う。

もちろんがっかりさせるようなことは誰もみんなやりたくはない。
教育に関わる企業にだって子どもの成長を見守る大きな社会的責任がある。

私自身、もっと自分には厳しく相手には寛容になるように人間を陶冶する努力を続け、短期的にではなく、長期的に見守る社会づくりに貢献できるようにもっと情報リテラシー力を磨き世の中を良くする方へ努めていきたい。

子どもたちが、安心して学び反省し、そして優しく温かい世の中で愛し合い認めあって生きれるような豊かな社会を残してあげられるようより社業に専念していきたいと思う。

  1. コメント

    今の社会や人間関係から見ても相手の悪い部分を見て、互いに追い詰めて
    悪い方、悪い方へと進めていくことが当然となってしまっている世の中であり、
    それは自分自身にも言える事ではないかと思います。
    自分自身も悪い方、悪い方に考えてしまう事で、建設的な考えにもならない
    ということが起きていることは子どもにとっての大人としてのモデルとは
    とても言い難く、自分が情けなく思います。もっと自己肯定感を高めて、
    可能性を信じて、つらさや苦労の中にある楽しさや豊かさを感じていくことで
    子どもたちが安心して、豊かに成長出来る社会を残していくことができればと
    思います。

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