子どもを思う

昨日はGT会議があった。ここではいつも藤森平司先生を代表にして学びあいながらその自ら歩みを問いながら日本の保育を創りあげている最中、その方針を知り道を確かめつつ世界の活動と調和していくような話し合いを深めている。そしてそれを同じように取り組む方々とともに点を線にし面にしていきながらより良くしていこうというような活動の原動にしている。

そうやって原動を核にし継続する最中にはいつも本気の邂逅がある。

何でもそうだけれど、本気というものは続くものであるし、続くものが本気というのは真実であり、それだけ何万回も同じことを考えることができ、そしてそれだけ何万回も祈るように実践できるのは形を成していく根本原理だと私は思う。

子どもたちもそうだけれど、最初は形がおぼつかないように見えるけれどその実はもっとも中庸であり、言いかえれば宇宙そのものの根源を成していてそこからこの世界に順応していくように感じる。

だからこそ、原始原則原理から思えばすべての命はそのままでいいというあるがままのもので生きようとするからこそ、そこに個性が生まれ、道が分かれ、育つのだとも思う。

そして、ふとそれを思う時、如何に人はそのままの状態を見守れるかという先人の叡智がいるし、正しく道を歩んだ聖賢の人たちの実践とモデルが魂を揺さぶるような感動を与えてその性を全うさせていく原動力になるのだと私は思う。

保育の素晴らしさとは、そのものの性を引き出すことであり、そしてその命を輝かせて光らせることだと感じ、宇宙の根源である子どもというものをいつも傍に感じることができる心の安んじる至高の御縁が得られるようにも思う。

そこから生育を思うと中庸の「至誠は息む無し」の一文からインスピレーションがある。人は生きているということは、呼吸をしているということであり、その繰り返しの中で必死で生きている。そしてそこに何かの意味があり、その意味に対するものは「悠久」であるような気がする。

はじまりもなくそしておわりのないもの。
永遠に存在している悠久というもの、悠久こそが無中の光であるということ。

そして、中庸にはその人の生育する様にこうあるように感じる。

「至誠は息むなし。息まざれば則ち久し。久しければ則ち徴あり。徴あれば則ち悠遠なり。悠遠なれば則ち博厚なり。博厚なれば則ち高明なり。博厚は物を載する所以なり。高明は物を覆う所以なり。悠久は物を成す所以なり。」

とある、これに照らし私が自由解釈する。

人は、本気であるがままで生きているとその生涯に於いて何かの兆しを得ることができる。それはその自分の発達の兆しなのかもしれない、そしてその発達があればそれが遥かかなたへ繋がっていくことになる、始祖の魂なのかもしれないし、命の根源なのかもしれない。その状態であればそれは広くそして厚みを帯びてくる、そしてそうなれば高く明るい状態になる。土台として大きく厚みを帯びた大地が生まれ、空が明るくすべてを覆う。そうなると、私たちが目に見えている宇宙のような膨大で広大無辺な存在を感じることになる。そこまで偉大な存在になれば物はそこに成るものであり、そこに物が顕現できる。

つまりはこの生育とは本気であり、それの存在を自然に尽くすことが天命ということであるということではないかと私は思った。

そのプロセスを経ていることが、生育を観察することであり、保育ということになるのではないか。発達の普遍性とは私なりの解釈がある。

しかし、今の人たちはすでに生まれた時から誰かに信じさせられた真実を払拭することができず、刷り込みを取り除くことができないでいる。

そういうプロセスを通して人がそのままに生きられる自然な社会を築きあげる世界を譲ることが保育だとするときに、師の「見守る保育」というところの本質的な価値に至ることができる。

私たちは、人は育てるのは補填的だと勘違いし、何でも教えることや何かを補うことばかりに躍起になり学校の勉強のようにばかりなる。つまりは今で言う大人目線で一方的に可能性を制限し子どもをみようとする。しかし知識先行型安全社会でそれを信じさせられただけのような気がする。そして本当に生まれたときは果たして自分がそう思っていただろうかと思うと、私は周囲を見渡して能力を削っていったのだと信じているし、子どもの心はいつでもどこでも限りなく無限であると思い、その生命の躍動感、つまりは好奇心を感じるたびにその可能性のことを自らの魂が示してくれる。

だからこそ、子どもは子どものものであるようにしていくことが大人たちの推譲であり、人間とはもともと分けることができないものであればこそ天然自然に素直にあるがままに生きていけるようにしていけばいいということになるのが聖職者という社会での役割ではないか。

また子どもを思う。
私はかんながらの道を往く身。

何よりも、自らが子どものモデルになるように自らを清め穢れを祓い安らかなる心と揺るぎない真理とともに、あの星星と同じく輝き煌めいていたいと願う。

子どもたち自身の道と心を見守る存在でいたいと思う。

  1. コメント

    まだまだ営業マンとしての自分自身がありますが、コンサルタントとしての価値に近づけるよう、
    日々の実践を行っていますが、大人としての子どものモデルとして、正しい道を歩んでいる人でないと
    他者を導くことはできないとこのブログを読んでも考えさせられます。
    一つひとつの自分の言動がコンサルタントとして相応しいのか自問自答、内省し、姿勢を深めていきたいと思います。子どもと向き合うと、子どもから学ぶことが多くありますが、子どもという完善な存在と向き合うことで自分の刷り込みやエゴに、弱さに気付いていけるのだと思います。
    子どものように良いも悪いもない素直な心でそのままを受け入れられるようになりたいと思います。

  2. コメント

    親として子どものことを考えると、親の価値観や世界観以上のものは、中々子どもに用意してあげることが出来ないばかりか、親としての自分の価値観や世界観の狭さ、偏屈さが子どもの在るがままの世界観を制限してしまうことの恐ろしさを感じます。
    目に見える知識や教科や成績なども一つだとは思いますが、その大元にある子どもが持つ世界観やその子らしさというものが育めるためにも、自分自身が心を純真に、自然に居られる実践を深めていきたいと思います。

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