プロセスの手入れ

今年のテーマである途中を大事にということを考えているとプロセスの価値を再認識します。

そもそも物質や物体だけではなく、時の流れも宇宙の運行もすべてはプロセスが集積して循環を続けているものです。

例えば、水が流れて川になり、それが池になり、海になり、雲になり雨になり空気になる。これらもすべて変化というプロセスになっただけということです。そしてこれは出来事でも同じです。毎日に様々な出来事が発生し、その都度新しい変化に出会っていますがこれもまたプロセスが発生しているだけともいえます。

つい現代社会では目標や目的というゴールに達成することだけを目指しますが、そのゴールは本当にゴールなのかといえばそうではありません。なぜならそのゴールの先にはまた次のゴールが待っているからです。つまりゴールは終わらない、ゴールなどないということなのです。

ゴールがないのならばあるのは当然プロセスということになります。それが生き方や生きざまと呼ぶものですが、言い換えればどのようなプロセスを活きているかということです。

間という考え方は、つながりであり結びであり中庸であり本質でもあります。

この中間を捉えるというのはプロセスを玩味しているということに他なりません。如何に一つ一つの出来事の意味を大切に学び、そのものその経過を粗末にしないということ。それは結果さえよければいいという発想ではなく経過にどれだけ丹誠を籠めているかということになるのです。

本来、結果というものはプロセスや経過で籠めた真心が顕現してでてきただけのものです。それは育児でも然り、仕事でも然り、思想でも然りです。それらの顕現してくるものは、どれだけ結果だけを追わずに丁寧に手を入れていくかということだろうと思うのです。

それは言い換えれば四六時中であったり、心を離さないことであったり、継続して実践するということでもあろうと思います。

実践がなぜ大切なのかというのは、これらの結果を追うのではなくプロセスそのものに意義があるという意識を自分が持てるようになるために必要なのです。思っても行動できなくなるのは、結果から考えるという学校教育で刷り込まれた一問一答的な発想の刷り込みが抜けないということなのでしょう。

知識がちょっと多いことが凄いことだと勘違いして本来、考えないといけない当たり前のことを考えることを拒絶し、知っている世界だけがすべてだと思い込まされることによってこれらの自然であったこと、自然とはプロセスであることすら分からなくなってしまうのでしょう。

丁寧に生きるというのは、活かされている幸せを実感するときに得られるように思います。
忙しさという言い訳に負けないように心を強く魂を磨き修身していこうと思います。

  1. コメント

    自分の思考パターンを観察してみると、結果を気にし、結果を予測し、結果をよくするために努力している自分がいます。この思考パターンは、相当根深く、条件反射のようになってしまっています。しかし、結果を気にしていては、プロセスに全力を尽くせないこともよくわかりました。プロセスがよくないのに、結果だけよいということはありません。結局は、結果のためのプロセスではなく、プロセスに応じた結果だということです。結果を気にするのは、評価を気にするからでしょうが、この思考パターンはナンセンスであることを自覚して、時々刻々、一つひとつを丁寧に生きたいと思います。

  2. コメント

    一人で辿っていたのではプロセスを分かち合うことも協力することもなく、それは自分を優先しているだけなのだと感じています。「途中を大事」という言葉一つの中にどれだけ相手を思う気持ちが込められていただろうかと思うと、そこには自分以外いないような感覚だったかもしれません。今年1年のスタートを大事に始めたいと思います。

  3. コメント

    昨日の「人間都合の罠」にも通じていると感じました。目的や目標の達成を第一に考えプロセスを疎かにすれば、人間都合や自分都合に陥りやすいのではないかと思います。全体の中の自分であること、自然の中で活かされていること。本当に大切なことは何なのか?をしっかりと掴んでいきたいと思います。

  4. コメント

    プロセスと見守る保育に共通点を感じます。見守ると決めると、相手の結果を気にせず、常に見守る自分の姿勢や環境設定を省みますが、実際にはこうしなきゃ、こうなりたい、こうあるべきと、刷り込みのようにある思い込みに知らずのうちに流されていることを感じます。今一番、学びと変化を頂き、お役に立てることは何か。先にある結果の前のいまを大切にして行きたいと思います。

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